メコン圏を描く海外翻訳小説 第16回「おとなしいアメリカ人」(グレアム・グリーン著、田中西二郎 訳)

アメリカの対アジア政策を批判したものと受けとめられ世界的に話題となった、第1次インドシナ戦争中のサイゴンを舞台とした小説 

メコン圏を描く海外翻訳小説 第16回「おとなしいアメリカ人」

グレアム・グリーン著、田中西二郎 訳

 早川書房(ハヤカワepi文庫)、2004年8月 

本書の原作は、20世紀のスパイ小説とカトリック文学を代表する作家・グレアム・グリーン(1904年~1991年)の「THE QUIET MAN」(1955年)。グレアム・グリーンの作品は、有名な「第三の男」や「情事の終わり」など、原作は多数、映画化されているが、本作品も、これまでアメリカで2度映画化され、日本でも、タイトル「静かなアメリカ人」(1958年、アメリカ、ジョセフ・レ・マンキーウィッツ監督)、「愛の落日」(2002年、アメリカ、フィリップ・ノイス監督、2004年秋、日本で全国ロードショー)と公開されている。

原作は、1955年の歳末に発表され(小説本文の末尾には1952年3月~1955年6月と制作年代が記されている)、田中西二郎氏による邦訳が、1956年に早川書房から単行本として刊行され、その後、早川書房によるグレアム・グリーン全集の14巻目に「おとなしいアメリカ人」(1979年)が収められていたが、グレアム・グリーン生誕100周年の2004年に<グレアム・グリーン・セレクション>として文庫化された。原作が発表され海外で話題となった本作は、1956年、日本でも初めて翻訳出版されたとき、同様に大きな話題になった。1956年(昭和31年)7月12日付けの毎日新聞の学芸欄には、「おとなしいアメリカ人」を読んだ阿部知二(作家)、加藤周一(評論家)、武田泰淳(作家)、ドナルド・キーン(日本文学研究)の4氏による書評が紹介されていて、各々の深い洞察にもとづく批評は大変参考になる。

本書は、第1次インドシナ戦争(1946年~1954年)中のサイゴンを舞台とした小説で、イギリスを代表する作家グレアム・グリーンが、アメリカの対アジア政策を批判したものと受けとめられ世界的に話題となった作品。このストーリーの展開時代は、第1次インドシナ戦争期間中でも、説話者たる引退間際のイギリス人特派員記者ファウラーが、”おとなしいアメリカ人”青年オールデン・パイルにサイゴンのコンティネンタル・ホテルのバーで初めて出会った1951年9月から、翌1952年2月のパイルの死、そしてその2週間後までで物語が終わっているが、ストーリーは、一人のアメリカ人青年パイルが無残な水死体となって発見される1952年2月の場面から書き出しが始まっている。

上述の1956年の毎日新聞学芸欄にも紹介があるが、本書の重要な設定人物であるパイルというボストン出身のアメリカ人青年は、戦乱にあえぐインドシナの米公使館員で経済使節団で働いていたが、彼は友人となったイギリスの新聞記者ファウラーが同棲しているベトナム人女性フォンを愛し、結婚しようとする「無邪気」な青年だった。また彼はアジア問題に書物と理論を通して熱中していて、書物で説かれているとおり共産主義にも古い植民主義にも抵抗する「第三勢力」をアジアに作り出すのが「手の汚れていない」民主主義の使命だと信じ込んでいた。尚、本書題名にある「おとなしい」という言葉は、パイルとフォンが初対面の時に、「あのパイルという男、俺は好きだよ」と語ったファウラーに、フォンが「おとなしい人ね」と、パイルを形容する時に最初に使っている。

本書は、一般に良く語られるアメリカ批判とする政治小説として読まれるだけでなく、エンタテインメントとしても非常に楽しめる。ファウラーがパイルと美しいベトナム人女性を争っていたものの、アジアを救うという理想に燃えていた純真なライバルの死に心を痛める。しかしファウラーには警察の捜査に協力できない秘密があり、作品の最後に秘密が読者の前に明らかにされる。また、老い・老獪のファウラーと若さ・無邪気のパイルとの2人の男性の間に生まれる関係・感情の描写も味わい深い。

第2次大戦後、インドシナに戻ったフランスは旧フランスインドシナ3カ国の独立を認めず、英軍の援をかりてサイゴンの行政権を奪取し南部ベトナムを切り離してコーチシナ共和国という傀儡政府を成立させ、べトミン系の南部行政委員会はただちにフランスと全面抗戦に入り、北部ベトナムでも1946年12月にホーチミン率いるベトナム民主共和国とフランスとの間に全面的戦争に入った(第1次インドシナ戦争)。仏軍はハノイをはじめ北ヴェトナムの要衝を占領し、べトミン軍は北部山間に根拠地を置き全国にゲリラ戦を展開した。フランスは1949年バオ・ダイ帝を復位させ、フランス・ベトナム連合軍としてべトミン軍との戦いを続けたが、1950年に入ると北部ではホー軍が仏軍の拠点に正面攻撃を加えるまでに優勢になり、1950年11月には中国国境に近いラオカイを仏軍が撤退したのをはじめ、次々と拠点を奪われてゆき、1951年にはべトミン軍はトンキン・デルタに進出し、ハノイを脅かした。本書のストーリー展開時代は第1次インドシナ戦争期間の中でもべトミン軍の反攻期にあたる。

本書巻末の訳者あとがきには、グレアム・グリーンのヴェトナム訪問は,1950年を最初に、50年~51年、51年~52年、53年~54年、55年と1955年までに,前後4回、その滞在が大概2年越しにわたるもので、つねにサイゴンに本拠をかまえ、フランス人の建設したこの東洋の美しい町の風物に親しみながら、たびたび北ヴェトナムーハノイを中心とする前線へも出張し、『ライフ』誌や『サンデイ・タイムズ』紙に現地通信を送ったと書いてある。原作者が巻頭で「ヴェトナムに住む人物の誰一人もモデルにはしていないし、歴史的な出来事すらも再構成されている」と断ってはいるものの、本書のストーリー展開年代は原作者が実際にヴェトナムに滞留していた期間であり、当時のサイゴンの雰囲気や戦争をめぐる当時の情勢を本書から窺い知ることもできるだろう。

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