メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第8回「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人」(土生良樹 著)


「神本利男とマレーのハリマオ マレーシアに独立の種をまいた日本人」(土生良樹 著、展転社、1996年11月発行)

<著者略歴> 土生良樹(はぶ・よしき:イスラム名 Haji Abu Rairah Habu Abdullah)
昭和8年(1933)、広島県尾道市に生まれる。同31年(1956)、拓殖大学卒業、同34年、武蔵工業大学卒業。同44年(1969)、マレーシア・サパ州政府の招きにより渡航、同政府首席大臣府イスラム教務庁開発計画庁勤務。同49年(1974)、イスラム教に帰依し、同59年(1984)、メッカ巡礼。同61年(1986)、クアラルンプールのマレーシア連邦政府農業省へ転勤。現在、マレーシア農業大学外国語学部日本語学科講師、マレーシア日本文化協会副会長、ラジャー・ダト・ノンチック記念道場館長(松濤館館長空手道8段)。マレーシア・クアラルンプール郊外の大学団地に居住。主な著書:『日本人よありがとう』(日本教育新聞社)『神本利男とマレーのハリマオ』(展転社) <本書著者略歴より、本書発刊当時>

本書のタイトルは、『神本利男とマレーのハリマオ』と、二人の名前が並列で記されているが、全編、神本利男(かもと・としお、1905年~1944年9月30日)という、昭和19年(1944)9月、南シナ海で無念の戦死を遂げるまでの快男児の壮絶な39年の生涯についての伝記。神本利男の代表的な活躍の一つに、大東亜戦争開戦前夜、マレーのハリマオ(虎)こと谷豊(1911年~1942年3月17日)を救出し、単身説得して日本軍のマレー作戦に協力させたことが挙げられるが、マレーのハリマオについての記述は、3つの章に分かれた本書の第2章で、神本利男によるマレーのハリマオ探しや南タイのハジャイ監獄からの釈放救出、更に日本軍のマレー作戦への協力や働きぶりなど、著されてはいるが、あくまで本書全編は、神本利男の生涯を著した書となっている。

また、本書サブタイトルに「マレーシアに独立の種をまいた日本人」とあり、本書は、マレーのハリマオと配下のマレー人青年たちを導き、マレー人青年たちに民族自決(独立)の種を蒔いた最初の日本人である神本利男の偉業と足跡の物語であるが、神本利男の活躍は、代表的なマレー半島に留まらず、満州や北ビルマでも見ることが出来る。本書記述をベースとした「神本利男」の生涯については、こちらを参照。

昭和8年(1933)生まれの本書の著者・土生良樹(はぶ・よしき) 氏(HAJI ABU HURAIRAH HABU ABDULLAH)は、戦後の拓殖大学生(1952年入学、1956年卒業)で、拓殖大学中から、拓殖大学の偉大な大先輩にあたる神本利男氏(1926年4月入学、1931年3月卒業)の足跡調査を志し、昭和44(1969)年 マレーシア・サバ州政府の招きで空手の師範として渡航以来、本書発行時でマレーシア在住27年で著者が、10年の歳月をかけて、その取材と資料収集に努め、明らかにした神本利男の痛快な生涯を活き活きと描いた伝記。南方特別留学生だった故ラジャー・ノンチック長老の一代記とマレー独立史を記した『日本人よありがとう  マレーシアはこうして独立した』(日本教育新聞社出版局、1989年11月)の著書もあるが、本書もマレー事情とイスラムに精通した著者ならではの著書。  

本書構成は、旭日の章、烈日の章、落日の章と、3章に分かれていて、最初の章「旭日の章」は、明治38年(1905)北海道十勝の開拓農民の子明治38年(1905)、北海道での開拓農業を志して北海道十勝国へ入植した神本利七と母ツルの次男として北海道十勝国中川郡本別町仙美里で生まれた生い立ちから始まり、父の実家の島根県に中学を学び拓殖大学に進学し拓殖卒業後は病床の父のために一旦帰郷するも、その後は満州での警察官として活躍する神本利男の満州時代が描かれる。この最初の章「旭日の章」は非常に著者の熱がこもり、特に面白い。後のマレーでの神本利男の活躍ぶりが充分に納得できる。

神本利男少年の頃の話については、神本利男の次男で北海道在住の神本不二家氏や、島根県三隅町在住の神本利男の従兄妹で神本家本家の神本利右衛門氏(終戦まで満州に在住し神本利男とたびたび会っており、島根の神本家本家を継いだが、1996年2月逝去)と、著者は手紙のやり取りで取材をされている。神本利男が1926年に入学した拓殖大学については、著者自身も拓殖大学の後輩ということもあり拓殖大学の歴史はもちろん、拓殖大学の卒業生や教授陣についての紹介は詳細。

神本利男の同期として、拓殖大学理事長を務めた西郷隆秀(1907年~1985年)や中国語の権威としても著名な土屋申一が紹介され、神本利男が教えを受けた恩師としては、第3代拓殖大学学長・後藤新平(1857年~1929年)、日本人イスラム教徒の始祖と言われる田中逸平(1882年~1934年)、中国語と中国文学教育に尽力した拓殖大学教授・宮原民平(1884年~1944年)、拓殖大学教授として欧米列強諸国の植民史や植民政策、植民地支配の下のアジア諸民族のアジア事情やイスラム研究内容を講じた大川周明(1886年~1957年)の名前が挙げられ、詳しく紹介されている。

神本利男は、恩師宮原民平教授の推薦を得て、昭和6年(1931年)3月の拓殖大学商学部支那語科(中国語科)卒業後直ちに満州へ赴任することが決まっていたが、前年の暮れから健康を害していた北海道の老父が病床に伏し、神本利男の帰郷を切望していたため、満州への赴任を断念して、病床の老父が待つ北海道へ帰郷。長兄とともに父の農場で働くが、昭和6年(1931年)11月に病床の父親が逝去。その後、地元の釧路の警察に勤務し始めるが、神本利男の近況を、拓殖大学ボート部の3期先輩で拓殖大学卒業後、満州国警務本庁に勤めていた宮崎専一(1903年~1973年)が、満州各地を視察旅行していた母校拓殖大学の恩師・宮原民平教授から聞き、神本利男を満州国の警務本庁への転勤を実現。神本利男を満州に招き、始終目をかけてくれた先輩・宮崎専一はじめ、恩師からも気にかけ愛されていた様子が伺え、拓殖大学で学んだことや、拓殖大学で得た人間関係が大学卒業後の神本利男の痛快な生涯に、大きな意味があったと思える。

1932年(昭和7年)1月、神本利男は満州に赴任するが、”満州での勤務は、神本利男の短い生涯のなかで、その天与の素質が開花した時期であり、異民族と異文化の社会の底辺に深く静かに溶け込み、多くの人々から景慕される彼の特異の活動の始まりであった。”と著者が記しているとおり、神本利男の満州時代も非常に面白い。神本利男と直接関係はないものの、馬賊跋扈の激動の満州の時代に、スケールの大きい快男児の日本人馬賊として名を馳せた伊達準之助(1892年~1948年)や小日向白朗(1900年~1982年)にも言及。

神本利男の満州時代で、まず驚くべきことは、満州国治安公署分室の調査課から、満州第一の霊山・千山(現・中国遼寧省鞍山市)にある道教の総本山寺院・無量観に入山し3年間もの間、道教研究と武当派拳法修練することが認められていたことだ。また、千山に入山前、満州国治安部の治安公署のハルピン分室に勤務するが、その時期のハルピンには、ソ連の共産革命でのコサック兵による虐殺を逃れた中央アジアの多数のイスラム民族がシベリアを経由して満州へ流亡し、その大半がハルピンに居住していて、これら多数のイスラム民族の流亡者(難民)の保護や、これら難民から広大な中央アジアのイスラム民族の動向調査が任務だったことだ。千山を下山後は、図們国境警備隊琿春分遣隊(警備主任)に転勤となるが、ここで後に神本利男の名を広める1938年(昭和13年)6月のソ連極東内務人民委員会長官(GPU)長官リュシコフ三等政治大将(1900年~1945年)の入満事件に遭遇する。

東京でのリュシコフ大将の世話役と護衛の任が終わっても、陸軍中野学校創設者の一人の秋草俊中佐(1894年~1949年)に誘われ、軍人でない民間人としてただ1人、陸軍中野学校の特別第二期生として急遽入校したり、本来の勤務地である満州国に再び帰任しても、甘粕正彦(1891年~1945年)からの要請により、満州国治安公署から甘粕機関のハルピン分室へ転任と、神本利男がいろんな実力者たちから注目されていく。そして、その後、いよいよ、神本利男の活躍の舞台は、日本陸軍系の国策会社・昭和通商嘱託の身分で、太平洋開戦前夜のマレー半島に移ることになるが、そのきっかけを作ったのは、神本利男の千直属の上司であった満州国治安公署の五嶋徳二郎。五嶋徳二郎が、新設の昭和通商バンコク出張所所長に就任して、神本利男をバンコク日本大使館駐在武官の田村浩大佐(1894年~1962年)に推薦し、神本利男の活躍の場となるマレー半島との結びつきを作る。

更に驚くべきことは、神本利男のハルピンからの東京行きは、満州国治安公署からの出張という形でこの後、神本利男は、二度と満州に戻ることは出来ずに、マレー半島とビルマ奥地で、獅子奮迅の働きをするが、神本利男の身分は、満州国治安公署に所属したままで、満州国政府の警察官であり、軍人ではない民間人の一人として、アジア植民地解放の戦場へ赴き、驚天動地の活躍をしていることだ。第2章ともいうべき「烈日の章」では、バンコク潜入後、神本利男によるマレーのハリマオ探しや南タイのハジャイ監獄からの釈放救出、更に日本軍のマレー作戦に歩調を合わせた神本利男とマレーのハリマオこと谷豊の2人の活躍が存分に描かれ、この章もやはり痛快で読み応えがある。タイとは異なり、日本軍の将兵は1人もいなかった英領植民地のマレーを舞台に、マレーのハリマオと配下のマレー青年たちとの交流と活躍ぶりは爽快。

本書の中でも「道教とイスラム教を学べばアジアが解る」という文章で登場するが、拓殖大学在学中や満州勤務時代に、神本利男がイスラム研究とも触れイスラムに理解があったことは、マレー半島での活躍にも通じるものがあったのかと推察する。南方総軍参謀・F機関長としてマレー作戦、第15軍参謀としてインパール作戦に従事する藤原岩市(1908年~1986年)とも、神本利男は深い絆で結ばれていく。マレー・シンガポール作戦が一段落し、F機関の藤原少佐が南方総軍に還りビルマ作戦の第15軍へ移るためシンガポールを先に去ったが、1942年(昭和17年)11月には、神本利男は、藤原少佐の懇請を受けて、シンガポールを去り、ビルマ北部でシャン族青年指導などシャン族の工作を担当。

最後の「落日の章」は、ビルマ北部に転任した神本利男の最後の活躍の時期についての章となるが、残念ながら、ページ数も40頁と、他章(「旭日の章」は約150頁、「烈日の章」は約130頁弱)に比べ、非常に少なくなっている。この点については、著者自身もあとがきで、神本利男の出生からマレー反動での活躍迄は、約2年で執筆完了できたが、ビルマでの事蹟調査は、言語の問題もあり取材もなかなか進まなかったと認めている。インパール撤退作戦に挺身するが、昭和19年(1944)7月、風土病に感染しマラリア再発。同じくマラリアに感染した藤原岩市中佐の説得により一緒に帰国することとするが、南シナ海で無念の戦死を遂げ、壮絶な生涯を享年39歳で終えることになる。神本利男の迅速な決断と行動や、縦横無尽な活躍には感嘆するし、その志や心意気には、大いに心を揺さぶられる。

尚、最初の「旭日の章」に入る前に、著者が、1990年2月、タイとの国境から南へ5キロほどのケランタン州のジェリ村(Jeli)に、神本利男の門下生の一人で、マレーのハリマオこと谷豊と行動を共にしていた、マレーシアのハジ・アブドル・ラーマン長老(1996年5月1日逝去)を訪ね、ラーマン長老の追想を書き出しに置いている。1941年(昭和16年)2月、マレーのハリマオの所在を探しに、タイ南部から単身で国境のジャングルを越え、ジェリ村に入ってきた神本利男との最初の出会いの様子や、神本利男の人柄や特徴など、その追想証言は、神本利男を知る上で非常に貴重な記録だろう。

目次

序文 [小田村四郎]
まえがき
ラーマン長老の追憶

旭日の章
曠野に育つ(相撲大会/ 羆との睨み合い/ 次弟神本不二家氏の追憶)
島根時代(神本家の本家/ 背負い投げの神本)
魂の構築(名コックス/ 拓殖大学27期生/ 恩師・後藤新平学長/ 恩師・田中逸平/ 恩師・宮原民平教授/ 恩師・大川周明教授/ 魂の会)
髀肉の嘆(病父への孝養/ 満州へ赴任)
日本の進路(大東合邦論と脱亜入欧論)
師父・張道順老師(天与の素質を見抜いた老人/ 千山歓送の小宴)
千山の無量観(道教の総本山/ 武当派拳法/ 老師の弟子/ 整息の術/ 眼力修行/ 拳法修練/ 奥義の秘法/ 師父逝く/ 道教19代允可
国境警備隊(琿春分遣隊へ赴任/ リュシコフ大将を捕縛/ リュシコフ大将は語る)
中野学校特別二期生(背広の忍者たち)
甘粕機関ハルピン分室(マレー活躍の素地)
アジアの黎明を求めて(呼び出し電報/ 激論/ 藤原岩市との出会い/ 昭和通商会社/ 大塚の一夜/ 緊迫する外交関係

烈日の章
微笑みの国(もっとも信頼された「昭和の忍者」/ 福建幇のボス)
監獄のハリマオ(チチャ老人の予感/ ハリマオ盗賊団)
ハリマオ探し(ヤシン長老/ ハジャイの朝粥)
ハリマオの覚醒(出獄/ マラヤの大地をマレイの人のものに)
義兄弟ハリマオ(ハリマオと12人のマレイ人)
防禦陣地ジェトラ・ライン(妨害工作/ 藤原岩市少佐の決意)
開戦前夜(ヒノデハヤマガタ)
灼熱と戦塵のマレー・シンガポール進攻作戦(マレー半島上陸/ マレー沖海戦/ ジェトラ陣地撃破からアロールスター占領まで/ ペナンとクアラルンプールの無血占領/ ゲマス陣地の激戦からジョホールバル占領まで/ シンガポールの英軍降伏
「あの70日間のトシさん」(ラーマン長老とジョヨヨボの予言/ ハリマオ、熱病に倒れる/ 野戦病院)
マレイ人反英活動家の救出(神本の苦悩)
ハリマオの死(完全燃焼の一年/ イスラム葬)
光機関への転属(悶々とした日々/ 千山からの悲報)

落日の章
嵐の前のビルマ情勢(ラングーンの神本と藤原)
インド国民軍の編成(F期間の任務/ モハンシン司令官の罷免/ 闘将チャンドラ・ボースのアジア回帰/ 自由インド臨時政府の樹立/ 失敗に帰した異民族工作/ 無為の一年/ 援蒋ビルマ・ルート)
ビルマの神本(シャン族青年部隊の育成/ シャン族の情報網/ 韓信の股くぐり)
インパール作戦(最大の敵/ 光機関とインド国民軍の紛糾/ 無惨な敗北)
南冥に死す(風土病ジャングル・ガザ/ 最後の潜水艦)
トシさんはわが胸奥に生きている(藤原と長老たちの祈り)

神本利男関係年譜
参考文献
あとがき

 神本利男年譜
・明治38年(1905)9月、北海道で出生
(9月18日、父神本利七と母ツルの次男として北海道十勝国中川郡本別町仙美里で出生)
・大正9年(1920)4月、島根県立浜田中学校入学(15歳)
・大正15年(1926)3月、島根県立浜田中学校卒業(20歳)
・大正15年(1926)4月、拓殖大学予科入学
・昭和5年(1930)5月、拓殖大学ボート部が大島早漕ぎ渡海(24歳)
・昭和6年(1931)3月、拓殖大学商学部志那語科卒業(第27期121名)(26歳)
・昭和7年(1932)1月、満州赴任(26歳)
・昭和7年(1932)12月、ハルピンで張道順老師と邂逅(27歳)
。昭和8年(1933)4月、千山無量観入門(27歳)
・昭和11年(1936)5月、道教19代允許、国境警備隊赴任(30歳)
・昭和13年(1938)6月、リュシコフ大将を捕縛(32歳)<*本書では7月と記載あるが6月>
・昭和14年(1939)1月、陸軍中野学校入校(特別第2期生)(33歳)
・昭和14年(1939)7月、満州国帰任(33歳)
・昭和16年(1941)1月、ハルピンで参謀本部の電報受理(35歳)
・昭和16年(1941)1月、昭和通商嘱託でバンコク潜入
・昭和16年(1941)2月、英領マラヤ潜入
・昭和16年(1941)2月、ハリマオをハジャイ監獄から救出
・昭和17年(1942)12月、ビルマへ移る(37歳)
・昭和17年(1942)12月、ビルマ・シャン族の工作担当
・昭和19年(1944)7月、インパール撤退作戦に挺身(38歳)
・昭和19年(1944)7月、風土病に感染しマラリア再発
・昭和19年(1944)9月、南シナ海にて戦没(39歳)

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