メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第28回「アジアの安宿から」(高中 寛 著)

「アジアの安宿から」(高中 寛 著、三一書房、1988年発行)

<著者紹介>
高中 寛 (たかなか かん)<発行掲載時、本書紹介より>
1949年 栃木県に生まれる。1977年より東南アジアを放浪。著書「バンコクの天使たち」(三一書房)

本書は、1949年生まれで、1977年から東南アジアを放浪し続けているという著者が、10年に及ぶ東南アジアの安宿の旅を著し1988年に発行された本。当然、インターネットもスマホもなく情報収集や連絡手段も今の旅とは異なり、またバンコク市内でもスカイトレインや地下鉄といった都市交通手段もなく、何より、1970年代後半から1980年代という、経済社会的にも、日本と東南アジア各国との”差”が現在とは大きく異なっていた時代。本書あとがきに、著者が記すように、”東京、それもコンクリートの箱の中で、カレンダーの過ぎていく日々を、一日、一日塗りつぶしていると、たちまち「東南アジアへ出かける」という対処療法しかない”という「東南アジア依存症」と自覚する、東南アジアに惹かれる気持ちは理解できる。

よく仕付けの行き届いた従業員のいる高級ホテルと違って、アジアの安宿では、現地の人々との距離が、はるかに近くなるという魅力が本書ではよく感じられるが、しかも何の目的もく、つい澱んでしまうような、のんびりした長居の旅であれば、現地の人々との距離が更に近くのもうなづける。観光地やショッピング、豪華な食事などの話は一切出てこず、東南アジアの安宿やその周辺でたむろする、様々な人が登場する。安宿の経営者や従業員、安宿や近所の飲み屋に陣取る娼婦たち、生業不明の男たちと、良くも悪くも、東南アジアの安宿の周囲には「今日」を生き延びなければならない人々の、熱いエネルギーが充満していると感じ、また、それらの人たちの寛容さ、あるいは人の好さが、何より「東南アジア依存症」を深めていると思える。現地の人たちだけでなく、安宿周辺で出会う各国からの旅行者との出会いも面白い。

本書は、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピンの東南アジア5ヵ国の安宿の旅となっているが、本書発行時の1988年時点では、タイを足掛かりに東南アジアの国々を歩き始めて10年以上というように、タイが一番、馴染みが深いのか、約250頁の分量中、約100頁と、タイの旅に多くの頁が割かれている。

まず、数年来のバンコクにおける著者の常宿として、バンコクのゲストハウス街で有名なカオサンとは雰囲気が異なる別のゲストハウス街、ルンピニ、ラマ4世通り近くのサートンエリアのNgam Duphli通りにあるプライバシー・ホテルが挙げられ、本書の第1章は、”裏と表の境界線 タイ・その1 プライバシー・ホテル物語」と題している。同じホテルは、この地区を安宿ゾーンとして有名にしたマレーシアホテルの斜め裏にある、1階の各部屋には駐車場が付いている、連れ込みモーテル宿。ここでは、タイ東北部のカンボジアと国境を接するブリラムから1週間前にバンコクに出てきてプライバシー・ホテルの小さなコーヒーショップに現れた、1週間でブリラムに帰りたいという娼婦の女性のバンコクでの絶望がもの悲しい。

インターネットがない当時は、安宿がまた外国人旅行者たちにとって旅の貴重な情報収集の場であったことがよく伺える。バンコクでの安宿については、プライバシー・ホテルやマレーシア・ホテル以外にも、バンコク中央駅を出て、ラマ4世通りに沿って左にちょっと行ったところにある「タイ・ソン・グリート」という、本書発刊当時でも既に無くなった”幻の安宿”が紹介されている。1970年代末で、1泊30バーツ(日本円で3百円少々)というバンコクの最底辺の宿で、鉄枠のベッドで窓には刑務所のような鉄格子がしっかり入っていて、夜になると宿のドアというドアをノックして回り、一仕事百バーツ程度の娼婦たちがいた安宿(1980年代前半までは1バーツ10円以上であったが)。そして、バンコク中央駅周辺からチャイナタウンにかけては、ペプシ・ホテル、サキジ・ホテル、そして谷恒生氏の小説で有名になったラッキュウ・ホテルなど、名を知られた折り紙付きの安宿が集まっていた。

バンコク以外のタイの地方については、チェンマイ、パタヤ、ハジャイ、プーケットの街なかの安宿の旅以外に、北タイのファーンの北の山中のラフー族の村や、プーケットのイスラム教徒の集落への旅の話も掲載されている。本書は、東南アジアの風俗情報に関する本ではないが、日本人男性の東南アジアの安宿の旅となると、各地随所に、様々な娼婦が出没し絡みがでてくる。歓楽都市としても名高いタイ南部のハジャイのマンダリンホテルは、他の都市の同名の超高級ホテルと違って、本書でも”ハジャイの娼婦宿”という見出しで登場する、今に至るまで名の知れた安宿。また、1988年の本書では、プーケットでは有名なビーチリゾートホテルではなく、プーケットタウンのオールドタウンでの歴史の古い住み込みの幼い娼婦がいる安宿として、オン・オン・ホテルの話となるが、このホテルは、今ではレトロな雰囲気を活かしおしゃれなブティックホテルのThe Memory On On Hotelとして生まれ変わっている。

タイ以外のマレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンのそれぞれの安宿の旅の話も興味深く、マニラのみのフィリピンと、シンガポールについての旅の話は分量はその分、少なくなっているが、マレーシア編は、クアラルンプール以外に、コタバル、クアンタン、セレンバン、ペナン(ジョージ・タウン)、インドネシア編は、ジャカルタ以外に、ジョクジャカルタ、バリ島(デンパサール)の地方への旅にも言及している。尚、タイからマレーシアへ入るための中継基地でもあるハジャイからペナン、クアラルンプール、マラッカを経てシンガポールに至るツーリストが多い中で、マレー半島の東海岸をタイ側の国境の町・スンガイコロクから国境を越えてクランタン州の州都コタバルに入り、またマレーシアのバターワースからバンコク行きの国際列車の旅の様子も紹介している。

目次

裏と表の境界線 ータイ・その1 プライバシー・ホテル物語
マイペンラーイの宿
ブリラムから来た女
音を失った二人と
軟性下疳
娼婦と祭
心優しき人々
微笑みの裏側 ータイ・その2 タイ流転
寂しがり屋の回遊魚
幻の安宿
安らぎのチェンマイ・ロッジ
ラフー族の村へ
ハジャイの娼婦宿
喧噪のサウス・パタヤ
イスラムの村
幼い娼婦
酒とアラーと女たち ーマレーシア
マレーの技術研修生
マレーシアへの第1歩
娼婦と海南鶏飯
安宿の女王
人酔い
再会
「昴」
国際列車の人々
超管理社会の底辺で ーシンガポール
シンガポールと日本
浪費大通り

箱の中の人々
混沌の人間模様 ーインドネシア
腐れ縁
ジャラン・ジャクサ
父子
ジャカルタの下町で
テンペと夜行列車
小さなビジネスマン
娼婦とゲイ?と
南アフリカからの漂流者
デンパサールの神々
女は強し
しあわせって、なんだっけ
今日を生きるために ーフィリピン
ポケットベルを持つ男
マビニ通りの人々
お人好し
ウェイティング・ナンバー
あとがき

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