メコン圏対象の調査研究書 第31回「蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年」(安間 幸甫 著)


「蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年」(安間 幸甫 著、文芸社、2021年10月発行)

<著者紹介>(本書紹介文より。2021年発刊当時)
安間 幸甫(あんま・ゆきほ)
1944年静岡県生まれ。日本電信電話公社でデータ通信業務に従事後、コンピュータとネットワークのベンチャー企業に転職。インターネット技術の国内導入と普及拡大を担当、情報インフラ環境構築の教育事業(株)コムスを創業、退職後、袋井市自治会連合会副会長、浅羽ベトナム会代表、磐南文化協会副会長など。2000年から「浅羽佐喜太郎公記念碑」にちなむ歴史を伝える活動を、ベトナムを軸にして20年間行う。
著作/ 通信教育・電子化ファイリング検定教科書、(社)日本経営協会機関誌1997.1特集「インターネットで始まった企業革新」「ベトナム独立への道」、浅羽佐喜太郎公記念碑100周年記念誌「日越友好の歴史」他
受賞/ 磐南文化協会・磐南文化賞、(財)企業経営研究所・国際交流功労賞、(社)ベトナム協会・日越友好功労賞、ベトナム諸国友好連合・友好賞、ベトナム外務大臣表彰、日本外務大臣表彰

本書「蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年」については、「仏領印度支那」と呼ばれたフランス植民地であったベトナムから、日本の力を頼って来日したファン・ボイ・チャウと阮王朝皇族のクォン・デを援けた日本人たちの物語と、著者は「まえがき」で述べているが、また、一方で、本書の帯には、それだけでなく、”明治維新から短期間で富国強兵を実現した日本に学ぶベトナム青年たちの日本留学運動となった歴史は、日本政府の介入があり挫折瓦解したが、本書は、なぜこの歴史が、日越友好の歴史とされるに至ったかを俯瞰した100年の物語”とも記されている。本書は序章+3章構成で、本書の第一章はファン・ボイ・チャウ苦難の闘争の時代、第二章はクォン・デが仏領ベトナムの象徴の存在となり日本軍の仏印進駐にもつながっていった時代、第三章は現代編として日本国家が潰したベトナム独立運動の負の歴史が「友好の歴史」と言われるに至った経緯の記録となっていて、まさに、まずは、現代編としての第三章も付け加えられていることで、「蘇る日越史 仏印ベトナム物語の100年」という本書タイトルの意味が明瞭になってくる。

ベトナム独立運動の指導者 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ、1867年~1940年)は、自分たちのために私財を投じて援助してくれた医師・浅羽佐喜太郎に対し、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込め、1918年(大正7年)3月に、浅羽佐喜太郎の出身地である東浅羽村(現・静岡県袋井市梅山)に村の人々の協力を得て浅羽佐喜太郎公記念碑を建立しているが、本書の著者・安間 幸甫(あんま・ゆきほ)氏は、その記念碑が残る静岡県袋井市在在住の方で、2000年から「浅羽佐喜太郎公記念碑」にちなむ歴史を伝える活動を、地元・袋井市からベトナムを軸にして長年にわたり精力的に行ってこられ、現代編としての第三章の報告記録についても、当事者として関わり体験されてきた内容が多くなっている。日越国交樹立30周年にあたる2003年、浅羽佐喜太郎公記念碑85周年記念事業実行委員会が地元で立ち上がり、東遊運動100周年の2005年には、地元で浅羽ベトナム会が発足し、その浅羽ベトナム会代表として、本書の著者・安間 幸甫 氏は、様々な活動を通じ、研究者や郷土史家など一部の人以外は、ほとんど知られていなかった浅羽佐喜太郎公記念碑の存在と、浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの交流の話を、郷土史「浅羽佐喜太郎公記念碑」レベルでは終わらせずに、「日越友好の歴史の象徴」と言われるまでに引き上げる事に大いに貢献をされる。

浅羽佐喜太郎公記念碑の存在と、20世紀初めの浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウの交流の歴史は、ベトナム国家にとっても、非常に価値の高い歴史遺産と位置付けられていくが、2014年3月16日~19日のチュオン・タン・サン国家主席(1949年1月生まれの第5代国家主席。任期2011年7月~2016年4月)の国賓訪日時、3月17日の宮中晩餐会や3月18日の日本の国会演説の場で、チュオン・タン・サン国家主席から、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の真摯な友情と交流の歴史について公式の場で語られる。当時の天皇皇后両陛下(上皇ご夫妻)が最後の国際親善で初の訪問国となったベトナムでは、2017年3月4日、フエのファン・ボイ・チャウ記念館を訪問。更には、2018年11月27日、当時の天皇皇后両陛下(上皇ご夫妻)は、在位の最後の私的旅行地として静岡県袋井市を訪れ、ファン・ボイ・チャウが建立した浅羽佐喜太郎公記念碑が建つ常林寺をはじめ、袋井市郷土資料館・近藤記念館を視察され、浅羽佐喜太郎の功績やファン・ボイ・チャウとの交流について理解を深められた。

天皇皇后両陛下の浅羽佐喜太郎公記念碑訪問の2018年は、浅羽佐喜太郎公記念碑建立100周年記念事業の年でもあり、この一つの節目のタイミングで、いままで浅羽ベトナム会が担ってきた活動を発展的に移行し日越友好親善の活動を広めていく目的で、2019年6月に、袋井ベトナム友好協会が発足。浅羽ベトナム会代表を長らく務めた安間幸甫 氏は、郷土誌「磐南文化」などにも、「浅羽佐喜太郎公記念碑」にちなむ歴史を伝える文章を寄稿してこられたが、これまでの文章を再構成し、更に新しい視点でも詳しく加筆し、2021年10月に単行本として出版したのが本書。ファン・ボイ・チャウの「東遊運動」と記念碑と題した本書の第一章では、1904年10月、日本に初入国したファン・ボイ・チャウの「東遊運動」の話だけでなく、1909年3月のファン・ボイ・チャウの日本退去後にも続くファン・ボイ・チャウの苦難の闘争の生涯が紹介されているが、ファン・ボイ・チャウのベトナム独立に向けた不屈の闘志と行動力はもちろんだが、ファン・ボイ・チャウの浅羽佐喜太郎への忘れぬ報恩の気持ちの強さにも驚く。ファン・ボイ・チャウに共鳴賛同するベトナム皇族クォン・デはじめベトナム人の支持者たちとの繋がり、日本滞在中のファン・ボイ・チャウに支援する犬養毅・大隈重信・柏原文太郎などの日本人有志や梁啓超・章炳麟などの中国知識人たちとの交流の様子も注目。

が、なんといっても、浅羽佐喜太郎(1867年~1910年)の義侠心には感動が止まらず、高潔で立派な日本人がいたことが誇らしい。また、ファン・ボイ・チャウが1918年3月に浅羽佐喜太郎の石碑建立に訪れた時の東浅羽村長の村人を前にした演説に示された日本人の気概ぶりも非常に感動的だ。浅羽佐喜太郎は、慶応3年(1867年)3月、遠江国山名郡梅山村(現・静岡県袋井市梅山)に生まれ、帝国大学医科大学を卒業後、前羽村(神奈川県小田原市)に浅羽医院を開業し、物心ともに地域の人々を支えた篤志家で、1907年(明治40年)の春、単独で日本に入国したベトナム人留学生の阮泰抜が路頭で行き倒れになり苦しんでいたところを助けたところから、東遊運動の志士たちとのかかわりが始まるが、浅羽佐喜太郎は、ファン・ボイ・チャウがフランスの圧力で国外退去命令を受け1909年3月に日本を去った翌年の1910年9月25日に43歳で病死した人物。尚、慶応3年(1867年)3月に生まれた浅羽佐喜太郎の出生地は、遠江国山名郡梅山村(現・静岡県袋井市梅山)となるが、東浅羽村出身とも紹介され、また、ファン・ボイ・チャウが1918年3月に浅羽佐喜太郎の石碑建立に訪れた東浅羽村は、1889年の町村制の施行により静岡県山名郡東浅羽村が発足後、1896年に所属郡が変更し静岡県磐田郡東浅羽村に変更。この東浅羽村は、1955年3月に隣接村と合併し浅羽村が発足し東浅羽村は廃止。1956年に町制となり浅羽村が浅羽町となり、2005年4月1日、袋井市と合併し、浅羽佐喜太郎公紀念碑の建つ常林寺の住所も、現在は静岡県袋井市梅山となっている。

本書の第一章の内容で、非常に特筆すべき点は、浅羽佐喜太郎の娘のゆき江さんと孫の和子さんや、浅羽病院のあった旧前羽村周辺の地域史が伝える浅羽病院時代のことを紹介した後、浅羽家に伝わる話や浅羽家には日本のどこにもないクォン・デの写真が残されていて、これらのことが、クォン・デと浅羽家との特別な関係を物語るとし、本書の著者・安間 幸甫 氏は、クォン・デは浅羽病院の一室に部屋があり、特別な要務もない時にはこの部屋にいたのだろうと推察している点。クォン・デの浅羽病院滞在説は定説には無く、本書で初めて知ったが、得心が行く内容。クォン・デは1907年末に順天堂医院を退院後、病気の静養が必要で、湘南の保養地である国府津に別荘があった大隈重信は帝国大学医科卒業の佐喜太郎とも面識があって、クォン・デの世話を浅羽病院に頼み、クォン・デが浅羽病院に長く居住することになり、この縁があり、浅羽佐喜太郎は、会ったこともなかったファン・ボイ・チャウからの手紙の要請で大金を支援したり、また、国外退去命令で日本を去らねばならなかったファン・ボイ・チャウが小田原の浅羽病院を訪ね、初めて佐喜太郎と会ったのも、これまでの支援へのお礼のためもあったが、浅羽病院にいるクォン・デと日本退去後のことを話し合っておく必要もあったと見ている。

更に、本書で、驚きの内容がたくさん詰まった第2章全体は、非常に興味深々の話となっており、ベトナム独立運動の後半クォン・デ編とも言える内容。ファン・ボイ・チャウの東遊運動の日越間の歴史については、よく取り上げられ、広く知られるようになってきているが、1909年の東遊運動の終焉、1925年には、ファン・ボイ・チャウが上海で捕らえられてハノイへ送還され、ベトナム革命運動が沈滞し、クォン・デが失意のどん底にあった時期から、クォン・デが仏領ベトナムの象徴の存在として行動するようになり、日本軍の仏印進駐にもつながっていった、一般的に知られてこなかった時代を、クローズアップしたもの。本書帯の裏には、”ベトナム独立運動には、犬養毅、頭山満、大川周明、松井石根などアジア連隊の思想に連なる巨頭と言われる支援者がいたことをご存じでしょうか。その独立運動の主導者であるファン・ボイ・チャウの著作が日本の雑誌で公開された史実には、驚くような背景の発見がありました。”と記されているが、ファン・ボイ・チャウが対仏闘争の生涯をまとめた「獄中記」の日本語訳が1929年6月の政教社発行雑誌「日本及日本人」臨時増刊号の記事に言及。

このファン・ボイ・チャウの「獄中記」の日本語訳の訳者は「南十字星」と名乗るが、この人物は、何(が)盛三という人物と以前から特定する説が定説となっていたが、何盛三(1884年~1948年)の実父は退役後に静岡県磐田に住んだ海軍中将・赤松則良で、著者・安間幸甫 氏の住む静岡県袋井市の隣の静岡県磐田市にある赤松記念館の展示にある赤松家の系譜・縁戚者から、驚くべき関係を発見し、クォン・デを仏領ベトナムの象徴として再登場させていくアジア全体を視野に入れた動きへの繋がりが見えてくる。更に、ファン・ボイ・チャウの「獄中記」の日本語訳の序文は、「南凕(なんめい)」と名乗る人物によるものだが、この人物は、上海総領事の後に横浜正金銀行に移り取締役として日中間の開発案件を中国専従で処理した責任者・小田切萬壽之助(おだぎり・ますのすけ)(出羽国米沢出身、1868年~1934年)であると、本書の著者・安間幸甫 氏は、いろいろな状況証拠から結論付けている。また、何(赤松)盛三と小田切萬壽之助との関係、小田切萬壽之助と「辛亥革命三尊」の一人である章炳麟(1869年~1936年)、更には、松井石根が主導し近衛文麿や広田弘毅らと立ち上げた「大亜細亜協会」との関係など、クォン・デ再登場の大きな流れについての詳述が続き、興味が尽きない。クォン・デを支援した日本人の「アジア主義者」たちとして、犬養毅、頭山満、松下光廣、大川周明、松井石根らが紹介されている。

第三章は現代編として日本国家が潰したベトナム独立運動の負の歴史が「友好の歴史」と言われるに至った経緯の記録で、本書の著者・安間幸甫氏は、2005年発足の浅羽ベトナム会代表としての活動以前の2000年から、「浅羽佐喜太郎公記念碑」にちなむ歴史を、日本のどこにもないベトナム独立運動の歴史を世に出そうと、色々と工夫をし精力的に活動を展開してきた当事者であるだけに、20年に近い活動経緯については、非常に詳細に具体的に記録されている。2000年代初の活動スタート段階では、浅羽佐喜太郎公記念碑は、町指定文化財になったばかりの一つの村の歴史ではあったものの、郷土史家以外にはまだその存在に関心など全くない時代で、地方の小さな民間団体の市民レベルの活動を、ほとんど何もない状態から、ベトナムを軸にして活動の展開を広げ繋げていく様子は、素晴らしく痛快でもある。2013年に日越国交樹立40周年を記念して、日越共同制作で作られたファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎との友好の歴史の記念テレビドラマ、2014年のベトナム国家主席の国賓訪日挨拶、2017年の天皇皇后両陛下の初のベトナム訪問でのファン・ボイ・チャウ記念館訪問や、ゲアン省でのファン・ボイ・チャウ生誕150年記念事業を経て、2018年11月の天皇皇后両陛下の浅羽佐喜太郎公記念碑訪問など、時の運も重なり、その展開は劇的。

浅羽佐喜太郎公記念碑の物語性や、日越の友好交流の素材性、歴史的な位置づけが高まってきた東遊運動の歴史の証しとして、浅羽佐喜太郎公記念誌の存在が大きな意味を持って認められるようになってきたが、「浅羽ベトナム会」の活動の成功には、ベトナムでの活動の後ろ盾になってくれたベトナム歴史学会会長ファン・フィ・レ先生の存在や協力が非常に大きいし、また、2007年初めに、ベトナムからの留学生が制作した映像作品ドキュメンタリー「ファン・ボイ・チャウが見た二つの日本 浅羽の義に泣く」が、ベトナムや日本各地でドキュメンタリー上映会に活用できたことも重要だったはず。なお、本書の巻末には、関係年表、引用・参考文献の掲載以外に、講演録の参考資料が掲載されている。一つは、川本邦衛慶応大学名誉教授が「東遊運動と日本人」と題した講演記録で、2003年7月27日に、浅羽佐喜太郎公記念碑建立85周年記念事業として浅羽東公民館で開かれた講演。もう一つは、2010年11月7日に、ハノイのベトナム日本人材開発センターで行われたファン・ボイ・チャウ没70年、浅羽佐喜太郎没100年記念行事でのファン・フィ・レ ベトナム歴史学会会長の挨拶文。

この日越友好の歴史の象徴にまでなった浅羽佐喜太郎公記念碑については、この記念碑のある浅羽町(現・静岡県袋井市)で、この歴史が認識されるようになったのは、『ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝 ー日本・中国を駆け抜けた革命家の生涯』(芙蓉書房)の著者・内海三八郎氏が、1964年に浅羽佐喜太郎公記念碑を訪ねて浅羽町役場に来たことからという事に驚く。当時は、浅羽町役場だけでなく郷土史家も含め誰一人として記念碑の存在さえ知らなかった時代で、内海氏は東京外語大学の仏文出身で、戦前からベトナムで貿易業務に従事する中で関心を持っていたファン・ボイ・チャウの著作『自判』の写本を入手し、そこに詳しく書かれた浅羽佐喜太郎公記念碑の存在に特に関心を持ち、帰国後にその記念碑が静岡県浅羽町にあることを知ったという経緯。ファン・ボイ・チャウの著作『自判』も、浅羽佐喜太郎公記念碑の存在にも誰も関心を向けていなかった時代があり、この1964年の内海三八郎氏の浅羽町訪問以降、研究者や郷土史家により歴史研究が進み、またベトナムからも、ファン・ボイ・チャウ研究者の浅羽佐喜太郎公記念碑調査訪問も多くなっていくが、地元の浅羽町(当時)では、内海三八郎氏の浅羽町訪問より約40年後の日越国交樹立30周年にあたる2003年に、その後の浅羽ベトナム会発足のきっかけともなる浅羽佐喜太郎公記念碑85周年記念事業が生まれたことになる。

目次

まえがき

序章 天皇皇后両陛下による浅羽佐喜太郎公記念碑訪問

第1章 ファン・ボイ・チャウの「東遊運動」と記念碑
1.日本が舞台であったファン・ボイ・チャウのベトナム独立運動
ファン・ボイ・チャウら日本へ
2.浅羽佐喜太郎の支援
ファン・ボイ・チャウと佐喜太郎とのこと/ ファン・ボイ・チャウが浅羽佐喜太郎公記念碑を建てる/ 佐喜太郎の孫や地域史が伝える浅羽病院時代のこと/ 浅羽病院にはクォン・デの部屋があった
3.  関係の人物象と日本退去後のこと
・浅羽佐喜太郎(1867年生~1910年没)・ファン・ボイ・チャウ(1867年生~1940年没) ・クォン・デ(1882年生~1951年没)・阮泰抜/李希亮/阮超/阮豊胎?(生没年不明)・李仲柏/劉燕丹(生年不明~1928年没)・柏原文太郎(1869年生~1936年没)
日本退去後のこと/ 「維新会」から「越南光復会」に体制を変える/ 3年間の獄中生活

第2章 クォン・デの独立運動と日本軍の仏印進駐
1.『獄中紀』とクォン・デと何盛三の関係
『獄中記』序文にクォン・デ、南溟、南十字星の関係が見えてくる/ 南十字星こと何盛三/ 何盛三の生い立ち/ / 赤松家の縁戚者/ 南溟は上海総領事もした人物 小田切萬壽之助(おだぎり・ますのすけ)/ 小田切萬壽之助のこと/ 小田切萬壽之助が訪ねた辛亥革命の三尊の人物/ 『南溟叢書第二版』と『大亜細亜協会』との関係
2.仏印ベトナムの象徴に
アジア主義の背景/ 『ベトナム復国同盟会』を立ち上げる/ 日本軍の仏印進駐
3.クォン・デを支援したアジア主義者たち
・犬養毅(1855年生~1932年没)・頭山満(1855年生~1944年没)・大川周明(1886年生~1957年没)・松井石根(1878年生~1948年没)/ 大南交司社長松下光廣、大川周明、クォン・デと何盛三の関係

第3章 100年後、日越史になる
1.日越友好の象徴になる
日越間の歴史となる/ 二人の生誕150年記念年は歴史の大転換になった/ 日越友好記念年の記念テレビドラマになる/ 留学生制作のドキュメンタリー作品効果があった/ 国際交流基金の市民青少年交流事業となる/ 教育領域でも使われる歴史になった
2.地域からベトナムへ
『浅羽佐喜太郎公記念碑』 の歴史を広く世に出す活動/ 記念碑建立85周年行事の記録から/ ベトナムでの『東遊運動100周年』記念に出席/ 2013年 国交樹立40周年のこと/ ファン・ボイ・チャウ家のこと/ ファン・ボイ・チャウの関係地ゲアンとフエと浅羽
3.ファン・フィ・レ先生語録
ファン・フィ・レ歴史学会会長との覚え/ ドキュメンタリーの製作者ファン・ディン・アン・コアさんの協力

終わりに
関係年表
引用・参考文献
参考資料 ー講演録
・「東遊運動と日本人」川本邦衛慶応大学名誉教授
・ファン・フィ・レ ベトナム歴史学会会長の挨拶文
あとがき

■関係年表 (*太字は、ファン・ボイ・チャウ、クォン・デ関係史。*普通字は、本物語の周辺出来事)
・1867年:チャウと佐喜太郎生まれる
・1904年:維新会結成
・1905年:チャウら3人が日本へ
・1905年:小田切萬壽之助総領事退職、横浜正金銀行へ
・1906年:林董の外務大臣(任期1906年5月~1908年7月)
・1907年:阮泰抜 日本入国、日仏協約締結
・1908年:東遊運動に解散命令。佐喜太郎1700円を贈る
・1909年:チャウ、クォン・デの日本退去
・1910年:浅羽佐喜太郎 没
・1912年:維新会を越南光復会に改組
・1918年:浅羽佐喜太郎公記念碑建立。何盛三 北京官話文法(初版)発行。
・1919年:猶存社発足、何盛三ら参加
・1925年:チャウ 逮捕されベトナムへ送還される。
・1926年:小田切萬壽之助 横浜正金銀行を退職。
・1927年:南凕が上海の老将軍宅でクォン・デと会う。
・1928年:南凕叢書第一編(天乎帝乎)発行。
・1929年:雑誌『日本及日本人』で「獄中記」記事になる。
・1930年:「おおもと」でチャウの記事、何盛三の広東事件。
・1932年:犬養毅 5・15で暗殺される。満州建国。
・1933年:大亜細亜協会発足。南凕叢書第二編発行?
・1936年:小田切萬壽之助 没。
・1937年:松下光廣 サイゴン追放~ 1941年
・1939年:ベトナム復国同盟会発足。台湾から放送。
・1940年:日本軍 北部仏印進駐。ファン・ボイ・チャウ没。
・1941年:南部仏印進駐。日米開戦。
・1943年:松下光廣・何盛三のサイゴン受け入れ承諾(大川日記)
・1945年:日本軍のベトナム占領、敗戦。
・1951年:クォン・デ没。

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