論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」(18)

論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」
終章 そして、ささやかな疑問が残った

(蔵屋敷滋生 くらやしき・しげお 投稿時:出版社役員,59歳、千葉県柏市在住)

以上がワヤット氏の論文である(冒頭部分を掲載。論文翻訳内容は次回全文掲載)。なかなかの力作だと思う。職業柄なのか「権威」には「すべてを疑え」で対応してきた。だから、翻訳後ささやかな疑問が残った。そんなことを以下にまとめてみた。むろん蛇足であるかもしれません。

1.壁画の主題とみられたジャータカ物語にあるクハッターナの物語が果たして「孤児」を題材にしてものなのか、である。いきなり「論文」の主題に疑問を呈して恐縮だが、まずそれを感じた。ジャータカ物語に知識のない筆者には判断できない。知識のない分だけ「孤児」ではない別のテーマがあるような印象を受ける。なぜならば、壁画の場面にワヤット氏が「同情」しているほど、クハッターナ自身が「孤児」だからと嘆き、悲しむ場面があるのだろうか。端的に言えば「インドラ神を父に持った子供が、神である父が側にいないからといって自分自身を“孤児”だと思うのだろうか」ということである。ワヤット氏の分析どおりなら、神話の世界で地上に降りた神が人間に生ませた子供はすべて「孤児」であり、同情すべき存在となる。そうかな~……。専門家に任せるしかない。

そもそも基本的な点から「ささやかな疑問」が出発したので、以下のようにどうも納得できないことが生じた。

.壁画の製作年次をワヤット氏は1894年と断定している。つまりプーミン寺の完成は1874年7月5日、盛大な落成式は1875年5月21日。完成から落成まで10カ月ある。この間に壁画が描き上がったとするのが、それまでの説であった。たしかに壁画を製作する時間としたら10カ月は短すぎる(寺院竣工、即壁画に着工――この推測もノンブア壁画の画家と同一人物とするならば矛盾するが――としても10年である)。例えば、ター・ワン・パーにあるワット・ノンブアの完成は1862年、壁画の製作開始はその5年後の1867年、製作に22年を費やし壁画の完成は1888年だとしてある(寺の案内板より)。どうやらワヤット氏もこの製作期間(約20年)を知っていたのではないだろうか。つまり、プーミン寺の完成は1874年+20年=1894年?。いたって単純な公式が成立する。

3.ワヤット氏はプーミン壁画がノンブア寺と同じく寺院の完成から20年後、1894年とした。「ナーンの悲劇」にこだわる彼は1893年のシャム(ラタナコーシン王朝)・フランス条約による領土割譲に着眼し、その「悲劇」ともいえる事実と「孤児」を結びつけたのだろう。そして翌1894年が壁画の完成年次とする。つまり最初に壁画の完成年次をノンブア寺の例から20年、1894年と決め、それからシャム・フランス条約=「孤児」「最大の犠牲者」を想定した、とも考えられる。

.しかもワヤット氏は、ノンブア寺とプーミン寺の作者はタイルーの同一画家だとしている(同一のタイルー画家グループという意味でボクも賛成するが)。ボクも会社にいる美術の専門家に二つの寺の壁画写真を見比べてもらった。彼の結論は「画風」「画家の個性を示す顔の造作が同じ」などで同一の画家だと断定した。ただし壁画のすべてを一人の画家が描いたとは特定できない、と付け加えた。この点は、美術家にとってはそう難しくはない判断だと思う。

彼の説どおりだとすると、プーミン寺の壁画は、同一の画家が、ノンブア寺壁画を完成(1888年)させた後の6年間で描き上げたことになる。この描く時間には問題はないだろう。だが、シャム・フランス条約は彼が壁画完成とする1年前のことなのだ。つまり1年前に起こった出来事――フランス人の婦人、軍隊の情景――をクルンテープから入手し、題材の光景を描き上げたことになる。全体の製作期間を20年間としながら、キーとなるフランス人の情景はわずか1年以内で、本当かな?

.ボクもノンブア寺を訪れている。プーミン寺と同じジャータカ物語を壁画の題材にしてあるが、ノンブア寺の壁画にはフランス人の情景はない(そればかりか外国人=白人の情景はなかったと思う。カレンや褐色の肌の男は描かれているが)。つまりプーミン壁画を描かせたナーン公王は、ノンブア壁画の完成する前後に「フランス人と軍隊」を描かねばならなかった「出来事」を体験したのではないのか。だからノンブアにはない「フランス人」を描くよう指示したのではないか。それはそんな突拍子もない推測ではない。

つまり画家に「ナーンの悲劇」の象徴として1893年出来事を描かせたのではなく、シャム王国も承認したフランスによる実質的なラオス占領(1888年)をヒントとし、「ナーンの悲劇」は描かれたとする方が時間的に付合する(現在の国境は1904年2月のシャム・フランス条約として調印された)。1888年にはノンブア寺の壁画は完成していたのだから(このことはもう一度、後記する)。

.つまり、ボクは壁画の情景はなにも1893年にこどわる必要はないと考えている(いずれにしてもナーンには小国の「悲劇」があるのだから)。なぜならシャムに外国の使節団(もちろんフランスも含めて)が訪れたのは17世紀の後半からである。1684年にはアユタヤのナライ王はフランスに大使を派遣している。また商人などの「旅行記」の類は16世紀初のものさえある(シャムは16世紀までは鎖国状態)。

つまり1822年の英国使節団などシャム湾に外国の艦船が訪れる機会は多々あったはずだ(ワヤット氏は1843年に初めてシャム湾に蒸気船が寄港したと書いている)。その模様が「情景」とともに伝わらないわけがない。彼が1894年製作の根拠としたフランス女性の10年単位に刻んだ服装による時代設定にはかなり無理があるのではないか、と思う。むろん服飾史に知識はないので、ここも専門家の任せるしかない。

7.「タイ族」の歴史をみるとラオスのランサン王国、タイのナーン国はもともと一つのムアン、あるいは頻繁に行き来できる「兄弟国」のような関係ではなかったのか。したがって一つの文化圏を形成していたともいえる。ランサン建国のファーグム王は国から追われナーンで客死したと史実は伝えている。また、ランサン王国の来歴を伝える「クンブローム年代記」は、諸国にちらばる「タイ系民族」の王としてクンブロームをインドラ神が天界から下界に使わしたと書いている。壁画のナーン王は実はクロブロームを模したのではないか?彼の足下には大蛇が描かれている。ルアンパバーンはクンブロームの長男クンローが支配し、即位したところでもある。さらにはナーンがラーンナー国の下にあった時に、ラーンナー国がビルマに破れたことを知ったナーンの領主はルアンパバーンに逃亡したとの記録もある。

8.ワヤット氏はナーンの領地がルアンパバーンにまで及んでいたとの「記録」を引用しているが、すでにその時代のルアンパバーンはシャム国の占領地である(1770年代にラオスはシャムの軍門にくだった)。ナーンもまたラタナコーシン王朝の属国であったわけだ。つまり1893年当時のルアンパバーンはナーンの領土ではない。当時の宗主国、属国の関係は、①属国はシャム王国に朝貢する、②シャム王国は属国の王の任命権を持つ、③だが、シャム王国は属国の行政、徴税、宗教、軍事には干渉しないと、かなり支配が緩やかであったことはうかがえる。だがしかし、それと属国であるナーンがシャム王国の領地を「支配」することとは異なる。

.ワヤット氏は「ナーン年代記」に1893年の事件が一切記載されていないと書いている。その背景にナーン領主は1788年、中央のラタナコーシン王朝に忠誠を誓っていたことが指摘できる。しかし上記「8」で指摘したように、ナーンは、1931年にシャム王朝の統治が確立するまで比較的緩やかな半自治が認められていたのだ。1893年にシャム・フランス条約によるナーン「領土」のフランスへの割譲よりも、1888年にメコン川以東の(ナーンが長い間盟友としてきた)ラーオ地域がフランスの実質的な領土となったことの方が「悲劇」ではなかったのか。つまり1893年の条約は単に1888年の「ナーンの悲劇」を追認したに過ぎないのだから。

10ワヤット氏の「ナーンの悲劇」には共感する。だが、ボクは直接的(象徴的)な原因は、1893年のシャム・フランス条約ではない、と考える。いってみれば、13世紀前半の建国以来、ビルマ、同じ「タイ族」のランサン王国、スコータイ王国、ラーンナー王国、ラタナコーシン王朝の狭間で、ある時は大国と結び、ある時はその運命に翻弄され、あるいは支配され、裏切られる小国の「運命的な悲劇」、「歴史的な宿命」にあったのではないだろうか。だからワヤット氏が不思議だと思ったシャム・フランス条約が「ナーン年代記」に記載されていないのだと思う。つまり「壁画」とシャム・フランス条約とは直接関係ないことからだと考える。プーミン壁画はもっともっと長い歴史の産物だったといえまいか。

ナーンの人達の眼はクルンテープではなく身近なラオス、中国、ベトナムに向いている、とさえ思えてくる。中央に相手にされない、従って当てにしない、当てにすれば「裏切られる」。これは14世紀からの「小国」であるがゆえに培った教訓、心理的には気概が、孤高の気高さを生み、自立心を生み育てたと、ボクは感じている。

そんなナーンの人達に会ってみようとは思いませんか……?

                    終わり 

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