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メコン圏と日本との繋がり 第15回 「広南従四位白象と象小屋(象厩)の跡(東京都中野区本町)・宝仙寺(東京都中野区中央) 」
メコン圏と日本との繋がり 第15回 「広南従四位白象と象小屋(象厩)の跡(東京都中野区本町)・宝仙寺(東京都中野区中央) 」
(写真下:「象小屋(象厩)の跡」案内板(東京都中野区本町)<*2024年9月5日午後訪問撮影>
象小屋(象厩 きさや)の跡
江戸名所図会に「中野に象厩を建ててこれを飼はせられたりし」と書かれている中野の象小屋は、このあたりにあったといわれています。江戸時代、象は人々の好奇心をそそり、「象史」「馴象論」「馴象俗談」などの書物が出版され、象にちなんだ調度品、双六や玩具類もさかんに作られました。中野に来た象は、享保13年(1728)中国人貿易商鄭大威が8代将軍徳川吉宗に献上するため、ベトナムから連れてきたものです。途中、京都で官位を与えられ、中御門天皇と霊元法皇の謁見を受けました。その後、江戸に着いて吉宗が上覧し、しばらく浜御殿で飼われていました。のち中野村の源助に払い下げられ、成願寺に近いこのあたりに象小屋を建てて飼育を続けましたが、寛保2年(1742)に病死しました。死後、皮は吉宗に献上され牙一対は源助に与えられました。この牙は、宝仙寺(現・中央2丁目)に保存され、戦災にあいましたが、その一部がいまも残っています。 令和5年(2023年)3月 中野区教育委員会
(写真下:「象小屋(象厩)の跡」案内板がある中野区立朝日ヶ丘公園(東京都中野区本町)<*2024年9月5日午後訪問撮影>
8代将軍徳川吉宗(1684年~1751年、在職1716年~1745年)の命で、江戸幕府は享保年間、長崎で通商を行なう清国商人に象を発注。享保13年(1728年)6月13日、ベトナム中部の広南国(広南阮氏)より、オス、メスの2頭の子象を乗せ、清国商人の鄭大威の唐船が長崎港に到着。安南人(ベトナム人)の男女2名の象使いに、福建省・広東省出身の2名の清国人の通訳も同行。長崎に上陸後は、市中を遠回りして主だった町内を巡回し長崎の人々に見物させたうえで唐人屋敷に入る。2頭のうちメスの象は、この年の9月11日に長崎で病死してしまうが、オスの方は長崎で越冬。中部ベトナムの広南産のオスの象は、翌享保14年(1729年)3月13日、陸路で江戸に向かい長崎を進発。3月25日には船に乗り関門海峡を渡り、象は、享保14年(1729年)4月20日に大阪に入り、更に同年4月26日に入京。象の京都での宿泊場所は、御所に近い浄土宗寺院の清浄華院。象の入京に先だち、象といえども無位無官の者が参内するのは問題で、京都で中御門天皇に拝謁するために「従四位」に叙し、「広南従四位白象」と称されたととも伝わるが、この位階については真偽は不明。
こののち、象は享保14年(1729年)4月29日に京都を出発し陸路で東下し、江戸には享保14年(1729年)5月25日に到着。象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)に収容された。享保14年(1729年)5月27日には、将軍徳川吉宗は象を江戸城に召し、象と対面。5月27日江戸城内で将軍上覧があった後、象は浜御殿で飼われることになった。
が、飼育費などの経済的な負担もあって、享保15年(1730年)6月30日には、早くも象払下げの触が出されるが、10年以上も払い下げ先が定まらず、また、寛保元年(1741年)には象が象使いを叩き殺すという事件も起こり、象は中野村(現在の東京都中野区)の百姓源助に払い下げられた。結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになる。象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや、象小屋)を建てて寛保元年(1741年)2月に完成し、4月27日に引き渡された。しかし、約1年8カ月後の寛保2年(1742年)12月13日に、オスの象は中野村で病死。象の遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ下賜されたが、その骨と牙は中野の宝仙寺に納められた。ただ、1945年5月25日、米軍の空襲で中野一帯は焼け野原となり、宝仙寺も全焼。焼け跡から炭化した牙が見つかり、非公開の寺宝となっている。
(写真下:「宝仙寺」(東京都中野区中央)<*2024年9月5日午後訪問撮影>