情報DB(歴史人物):情報DB(歴史人物)「 神本利男(かもと・としお)」(1905年~1944年)


神本利男遺影:昭和17年(1942年)3月、シンガポール陥落直後、シンガポールにてF機関工作員制服姿の神本利男。神本利男の次男・神本不二家氏より、マレーシア興亜青年道場へ寄贈。(『神本利男とマレーのハリマオ  マレーシアに独立の種をまいた日本人』(土生良樹 著、展転社、1996年刊より)

1905年(明治38年)9月18日に北海道の十勝川流域で開拓農民の次男として生まれ、昭和19年(1944年)9月30日、潜水艦で帰国途上の南シナ海にて戦死(享年39歳)した神本利男(かもと・としお)(1905年~1944年)は、大東亜戦争開戦前夜、マレーのハリマオ(虎)こと谷豊を救出し、単身説得して日本軍のマレー作戦に協力させた活躍があるが、その前後にも、満州やビルマ・シャン州で、満州国の警察官や、日本陸軍の特務機関員として活躍しており、その生涯は、『神本利男とマレーのハリマオ  マレーシアに独立の種をまいた日本人』(土生良樹 著、展転社、1996年)に詳しい。また、小説『死ぬときは独り』(生島治郎 著、1969年、文藝春秋社)は、神本利男を主人公のモデルとした小説。

 神本利男年譜
・明治38年(1905)9月、北海道で出生
(9月18日、父神本利七と母ツルの次男として北海道十勝国中川郡本別町仙美里で出生)
・大正9年(1920)4月、島根県立浜田中学校入学(15歳)
・大正15年(1926)3月、島根県立浜田中学校卒業(20歳)
・大正15年(1926)4月、拓殖大学予科入学
・昭和5年(1930)5月、拓殖大学ボート部が大島早漕ぎ渡海(24歳)
・昭和6年(1931)3月、拓殖大学商学部志那語科卒業(第27期121名)(26歳)
・昭和7年(1932)1月、満州赴任(26歳)
・昭和7年(1932)12月、ハルピンで張道順老師と邂逅(27歳)
。昭和8年(1933)4月、千山無量観入門(27歳)
・昭和11年(1936)5月、道教19代允許、国境警備隊赴任(30歳)
・昭和13年(1938)6月、リュシコフ大将を捕縛(32歳)
・昭和14年(1939)1月、陸軍中野学校入校(特別第2期生)(33歳)
・昭和14年(1939)7月、満州国帰任(33歳)
・昭和16年(1941)1月、ハルピンで参謀本部の電報受理(35歳)
・昭和16年(1941)1月、昭和通商嘱託でバンコク潜入
・昭和16年(1941)2月、英領マラヤ潜入
・昭和16年(1941)2月、ハリマオをハジャイ監獄から救出
・昭和17年(1942)12月、ビルマへ移る(37歳)
・昭和17年(1942)12月、ビルマ・シャン族の工作担当
・昭和19年(1944)7月、インパール撤退作戦に挺身(38歳)
・昭和19年(1944)7月、風土病に感染しマラリア再発
・昭和19年(1944)9月、南シナ海にて戦没(39歳)

北海道十勝での生い立ちと、旧制島根県立浜田中学校卒業まで
1905年(明治38年)9月18日、北海道十勝川流域に入植した開拓移民の父・神本利七と母ツルの次男として、北海道十勝国中川郡本別町仙美里(せんびり)(現・北海道十勝総合振興局内の中川郡本別町仙美里)で生まれる。神本利七とツル夫妻は、長男・三家雄(みかお)、次男・利男、三男・不二家(ふじいえ)の3人の息子に、久代・松恵・三千世の3人の娘を授かる。父・神本利七は、島根県浜田市近郊の那賀郡三隅町出身で、1899年(明治32年)、神本利七とツル夫婦は、北海道での開拓農業を志して十勝国へ入植。当時は、1875年(明治8年)から始まった北海道防衛の屯田兵制度(1875年~1903年)の末期。

父・神本利七の本家は、現・島根県浜田市三隅地域(神本利男出生時は、1882年より島根県那賀郡三隅村。その後、島根県那賀郡三隅町と改称し、20005年、三隅町は浜田市と合併し三隅町は廃止)。神本家の本家は、尼子十勇士の一人、神本仁右衛門にまで遡ることができる山陰地方の武門の旧家。神本利男の父・神本利七は、神本家の7男で、神本利七の兄・仲五郎の長男・神本利右衛門が神本家の本家を継いでいたが、平成8年(1996年)2月逝去。神本利男と従兄弟にあたる神本利右衛門は、終戦まで満州に在住し、同じ満州で戦前、勤務していた神本利男とたびたび会っていたとのこと。

神本利七とツル夫婦の最初の北海道での入植地は、十勝川流域の北海道十勝国中川郡本別町仙美里(現・北海道十勝総合振興局内の中川郡本別町仙美里)で、十勝の山林原野を拓き、新種の大豆や小豆を栽培し、さらには植林と20数頭の馬の放牧も行っていた。が、開拓途上の未開地であった北海道の十勝川流域の曠野には、まだ尋常小学校がなく、長男・三家雄と次男・利男が小学校へ入る年齢になり、子供たちの教育の為に、せっかく開拓に汗を流した北海道十勝国本別(現・北海道十勝総合振興局内の中川郡本別町)の開拓地を手放し、新たなる居住地を、十勝川上流の利別川(としべつ)流域の北海道釧路国足寄郡足寄村愛冠(現・北海道十勝総合振興局管内の足寄郡足寄町愛冠(あいかっぷ))に定めて移住。足寄郡(あしょろ)足寄村は、かつては釧路国に帰属していたが、1948年に十勝国に帰属先が変更され、現在は十勝総合振興局管内。

1912年(明治45年)神本利男は、北海道釧路国足寄郡足寄村の愛冠小学校尋常科(開拓地の家から徒歩で片道2時間かかつ遠くて小さな学校)に入学。愛冠小学校尋常科を修了し、辺境の未開地での孫の上級教育を考えた祖父が、兄・三家雄に引き続いて、神本利男を、島根県の神本家の本家である祖父宅で預かり、神本利男は、1918年(大正7年)4月、島根県那賀郡三隅村三隅小学校(現・島根県浜田市立三隅小学校)高等科に入学し1920年(大正9年)三隅小学校高等科(2年間通学)を卒業。1920年(大正9年)4月、旧制島根県立浜田中学校(現・島根県立浜田高校)へ入学。浜田中学時代は、島根県浜田市内の品川宅に下宿したが、浜田中学では2年生の時に進級試験に落第し、のちに学校の近くの川添宅に下宿を移る。1926年(大正15年)3月、浜田中学卒業。浜田中学では柔道とマラソンの名選手で、柔道では「背負い投げの神本」という異名で呼ばれる。

拓殖大学時代
1926年(大正15年)3月、旧制島根県立浜田中学校を卒業後、1926年(大正15年)4月、東京の拓殖大学予科に入学。1931年(昭和6年)3月23日、拓殖大学商学部志那語科(中国語科)を卒業。第27期の卒業。拓殖大学時代は、当時、短艇部といわれたボート部で、「拓大に名コックス(舵手)神本あり」と名を馳せる。1931年(昭和6年)拓殖大学卒業は、1900年(明治33年)の創立から第27期の卒業で、卒業生121名の1人。拓殖大学27期生の同期には、西郷隆秀(1907年~1985年、西郷隆盛の孫、西郷隆盛の子で第2代京都市長を務めた菊次郎の3男、1925年4月拓殖大学入学、1931年3月拓殖大学卒業、1955年から1964年まで拓殖大学理事長を務める)や土屋申一(中国語の宮原民平教授門下の逸材で、母校拓殖大学教授としても、中国語の権威としても著名)が名を連ねる。

神本利男が教えを受けた恩師は、台湾総督府民政局長や満鉄の初代総裁などを務めた第3代拓殖大学学長・後藤新平(1857年~1929年、拓殖大学学長は1919年~1929年の10年間)の他、明治36年(1903年)に台湾協会学校(現・拓殖大学)を卒業した第1期生で日本人イスラム教徒の始祖と言われる田中逸平(1882年~1934年)がいる。在学中に北京に赴き、その後、日露戦争の際、陸軍の従軍通訳官として満州の戦場に行き、その後は満州の地下資源調査団で調査活動に従事し、さらに中国山東省の済南で中国研究と中国青年の教育に専念。大正13年(1924年)には済南でイスラム教に帰依し、同年中国人ムスリム青年教徒とともにメッカに第1回の大巡礼を行う。日中両国の架け橋となり、中国事情、アジア事情、更にイスラム文化とイスラム圏諸国事情を伝えていくが、大正14年(1925)に大東文化学院に招かれ教授に就任。そのかたわら、田中逸平は、母校拓殖大学のボート部合宿所を拠点に母校の学生を教導。その門下生の一人が神本利男。

神本利男が教えを受けた恩師には、拓殖大学校歌の作詞者としても知られる台湾協会専門学校(現・拓殖大学)4期生の宮原民平(1884年~1944年)もあった。宮原民平は、在学中に日露戦争が勃発し従軍通訳官に志願し満州の戦場に従軍。戦争終焉後、母校に復学し最優秀の成績で卒業。同時に母校の教員に採用され北京大学に校費留学を修めて帰国後、母校の教授に就任。以後、昭和19年(1944年)東京で病没するまで、一貫して拓殖大学の教授を務め、中国語と中国文学教育に尽力。更に、大川周明(1886年~1957年)も、満鉄東亜経済調査局在籍中の大正9年(1920年)後藤新平学長の招きにより、拓殖大学教授に就任しており、拓殖大学で欧米列強諸国の「植民史」と「植民政策」や、植民地支配の下のアジア諸民族の「アジア事情」、イスラム研究内容を講じる。神本利男が拓殖大学に入学する4年前の大正11年(1922年)大川周明教授を囲む「魂の会」を学生たちが結成。この「魂の会」の首脳メンバーで代表的な大川周明の門下生が拓殖大学ボート部の神本利男の3期先輩の宮崎専一(1903年~1973年)。

尚、拓殖大学そのものは、明治33年(1900年)、後に首相となる桂太郎(1847年~1913年)が台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任。台湾協会学校は、明治37年(1904年)専門学校令による私立台湾協会専門学校となり、その後、経営母体である台湾協会が東洋協会と改称したので明治40年(1907年)東洋協会専門学校と改称。大正5年(1915年)には東洋協会植民専門学校と改称。大正11年(1922年)6月に施行された文部省の新大学令に基づき、5年制の大学に昇格し、校名も「東洋協会大学」と変わり、さらに後藤新平学長によって大正13年(1926年)拓殖大学と改称。

大学卒業後、病床の父親の為に一時帰郷した後、満州に警察官として赴任
神本利男も、恩師宮原民平教授の推薦を得て、昭和6年(1931年)3月の拓殖大学卒業後直ちに満州へ赴任することが決まっていたが、前年の暮れから健康を害していた北海道の老父が病床に伏し、神本利男の帰郷を切望していたため、満州への赴任を断念して、病床の老父が待つ北海道へ帰郷。長兄三家雄とともに父の農場で働くが、昭和6年(1931年)11月に病床の父親が逝去。その後、地元の釧路の警察に勤務し始めるが、神本利男の近況を、拓殖大学ボート部の3期先輩で拓殖大学卒業後、満州国警務本庁に勤めていた宮崎専一が、満州各地を視察旅行していた母校拓殖大学の恩師・宮原民平教授から聞き、神本利男を満州国の警務本庁への転勤を実現。尚、神本利男を満州に招き、始終目をかけ、神本利男との関わりが極めて濃い拓大24期の先輩・宮崎専一(1903年~1973年)は、昭和19年(1944年)満州の新京特別区の警察副総監に就任。シベリア抑留を経て、佐賀県玄海町長に当選するも、西郷隆秀拓大理事長に請われ、任期半ばで拓殖大学講師兼同大海外事情研究所調査局長に就任。昭和46年(1972年)には同大学友会会長に就任。

1932年(昭和7年)1月、神本利男は、海を渡り満州に赴任。1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖(溝)事件に端を発して満州事変が勃発し関東軍により満州全土が占領され、その後、1932年(昭和7年)3月11日、満州国建国に至る。神本利男の満州赴任の当初、満州国建国後には首都となった新京(長春)の警務本庁に所属していたが、1932年(昭和7年)11月には、間もなく新設された満州国治安公署の分室調査課へ移動。同公署のハルピン分室に勤務。この時期のハルピンには、ソ連の共産革命でのコサック兵による虐殺を逃れた中央アジアの多数のイスラム民族がシベリアを経由して満州へ流亡し、その大半がハルピンに居住していた。満州国治安部の治安公署のハルピン分室に勤務する神本利男の職務は、これら多数のイスラム民族の流亡者(難民)の保護が主要な任務であったが、同時に、これら難民から広大な中央アジアのイスラム民族の動向調査も行っていた。

満州で道教の総本山寺院・千山の無量観に入門
1932年(昭和7年)12月、神本利男はハルピンで張道順老師と邂逅。翌
1933年(昭和8年)4月、満州第一の霊山・千山(現・中国遼寧省鞍山市)にある道教の総本山寺院・無量観に入山。張道順老師の弟子となり修練することが許されるが、職務上でも、満州国警務本庁の宮崎専一や、神本利男の直属の上司である満州国治安公署の五嶋徳二郎(ごしま・とくじろう、1904年~1995年2月)の尽力により、満州国治安公署分室の調査課から千山に派遣されることになった。派遣の目的は、満州のみならず、広く中国全土の庶民の宗教である「道教研究」と「武当派拳法修練」。以降3年間、葛月潭老師に次ぐ大長老の張道順老師に師事し、中国民衆の精神的な生活規範である道教を学び、さらに道教の訓えを実践するための必須科目でもある武当派拳法を、千山の無量観で修練する。1936年(昭和11年)5月、無量観の大長老である葛月潭老師より直系道門(清門)19代の一員としての允可を受け、正式に入門を許される。

なお、神本利男の千山への派遣に尽力した直属の上司である満州国治安公署の五嶋徳二郎は、神本利男とは不思議な縁で結ばれており、後に、神本利男を大東亜戦争開戦前夜のバンコクに招き、神本利男の活躍の場となるマレー半島との結びつきを作ったのが五嶋徳二郎。

図們国境警備隊の琿春分遣隊赴任とリュシコフ大将を捕縛し、東京に護衛で長期出張
1936年(昭和11年)5月、葛月潭老師より道教19代の允可を受け正式に入門を許された直後、神本利男は、千山を下山し、新京(長春)の満州国治安公署と警務本庁に帰任を申告したが、満州の東部と朝鮮の国境に近い図們国境警備隊の更に約50キロ国境よりの琿春分遣隊(警備主任)への転勤命令を受け、そのまますぐに赴任。赴任後2年余が過ぎた1938年(昭和13年)6月13日、ソ連のスターリン首相の血の粛清を恐れ、亡命を試み単独で満州に越境してきた、シベリア極東圏の政治行政の中心地ハバロフスクに本部を置くソ連極東内務人民委員会長官(GPU)長官・ゲンリッヒ・サモイロヴィッチ・リュシコフ三等政治大将(1900年~1945年)を、図們国境警備隊琿春分遣隊の警備主任の日本人警官・神本利男が捕縛。

リュシコフはすぐに特別機で東京に移送され、当初は赤坂の山王ホテルを宿舎とし、1938年(昭和13年)7月13日、山王ホテルにて記者団と会見する。リュシコフの所在は極秘扱いで転々と変わるが、神本利男は、東京でのリュシコフの世話役と警護の任にあたり、満州国国境警備隊主任の職務のままで東京に長期出張となる。

陸軍中野学校特別二期生に、民間人としてただ1人、入校
1939年(昭和14年)1月、神本利男は、リュシコフ大将の世話役と護衛の任をとかれて、ただちに満州へ帰任する予定だったが、1938年(昭和13年)に開設され後に「陸軍中野学校」と呼ばれた特殊諜報要員の養成学校の創立者の1人で、リュシコフ大将の身柄を預かり調査の責任者であった陸軍参謀本部の秋草俊中佐(1894年~1949年)に誘われ、軍人でない民間人としてただ1人、特別第二期生として急遽入校する。

甘粕機関ハルピン分室に転任
1939年(昭和14年)7月、中野学校での6ケ月の研鑽を修め、約1年に及んだ東京出張を終えて、本来の勤務地である満州国に再び帰任。満州国民政部の初代警務司長(警視総監)を務め、1934年(昭和9年)に警務司長退任後は満州映画会社理事長なども務めるが、民間の特務機関「甘粕機関」も主宰していた元憲兵大尉の甘粕正彦(1891年~1945年)からの要請により、満州国治安公署から甘粕機関のハルピン分室へ転任。以前にも担当していた中央アジアのイスラム民族の動向調査を再度担当し、ソ連の共産革命を逃れてシベリアを経由し満州へ流民(難民)となって渡来し、ハルピンに定住した多数のトルコ系イスラム民族の保護に携わり、多年にわたるイスラム研究を継続。

昭和通商嘱託としてバンコクへの潜入
昭和16年(1941)1月、神本利男は、ハルピンで、東京の陸軍参謀本部第八課の門松正一中佐から、急ぎ上京呼び出しの詳細不明の電報を受理し、すぐに新京に立ち寄り大連から日本郵船の客船で神戸へ、更に列車で東京に入り、陸軍参謀本部に出向く。門松中佐から、「先週、バンコクの田村大佐から、腕利きを1名派遣してくれといく緊急電報がきて、誰を派遣しようかと検討していたところへ、満州の治安公署の神本さんを指名した第二信があって、新京の治安公署へ急ぎ打電した」と説明を受けるが、田村浩大佐(1894年~1962年)がどうして神本利男を指名してきたのか、またバンコクでどういう任務を期待されているかは分からず。

驚くべきことは、神本利男のハルピンからの東京行きは、満州国治安公署からの出張という形でこの後、神本利男は、二度と満州に戻ることは出来ずに、マレー半島とビルマ奥地で、獅子奮迅の働きをするが、神本利男の身分は、満州国治安公署に所属したままで、満州国政府の警察官であり、軍人ではない民間人の一人として、アジア植民地解放の戦場へ赴き、驚天動地の活躍をしていること。尚、東京の陸軍参謀本部で、今後の田村大佐との連絡を担当する藤原大尉を紹介されるが、この藤原岩市(1908年~1986年)が南方総軍参謀・F機関長としてマレー作戦、第15軍参謀としてインパール作戦に従事し、神本利男と深い絆で結ばれていく。

昭和16年(1941)1月、昭和通商バンコク支店へ派遣される嘱託という身分で、大阪商船で神戸を出航しバンコクに潜入する。昭和通商は、昭和14年(1939年)に上海に設立された日本陸軍系の国策会社で、三井物産・大倉商事・三菱商事の3社が出資。3社は多数の社員を出向させて、東南アジア各地に支店を設けて、軍需物資を購入。同時に、各地の日本大使館や領事館の駐在武官だけでは、人員の絶対数が不足していた陸海軍の諜報工作員が、昭和通商(海軍系の国策会社は、万和通商)の社員や嘱託の身分で各地の支店へ派遣され、駐在武官を補佐する諜報任務についていたが、神本利男も、昭和通商の嘱託という立場を参謀本部から用意されてバンコクに赴き、バンコク日本大使館の陸軍武官であり、南方各地の諜報活動の最高統括者であった田村浩大佐の補佐役となる。神本利男が田村大佐に推薦された背景は、神本利男の直属の上司であった満州国治安公署の五嶋徳二郎主任が昭和通商に移り、新設のバンコク出張所長となっていたため。

マレーのハリマオ探しと救出、更に日本軍のマレー作戦に協力させることに成功
実情や所在が分からないが、マレーのハリマオ(虎)と呼ばれていたマレーの盗賊団を率いる日本人を、マレー半島で活動できる工作員として味方にできないかと考えた陸軍参謀本部からの指示で、神本利男は、イギリス植民地政府のお尋ね者であったハリマオ探しに取りかかり、南タイのハジャイの中国系から南タイのバンプラ(ナラティワット)のタイ人経由で紹介されたバンプラ(ナラティワット)に住んでいたマレー人カリムの伯父で、ハリマオを庇護していたタイ国境線南のマレー領ジェリ村のモハマッド・ヤシン長老を紹介される。昭和16年(1941)2月、ヤシン長老を訪ね、南タイから国境のジャングルを越え英領マラヤ潜入。そこで、マレーの虎(ハリマオ)こと谷豊(1911年~1942年3月)が南タイのハジャイ監獄に投獄されているという情報をつかみ、昭和16年(1941)2月、南タイのハジャイ監獄から谷豊を釈放救出。神本利男は、更に単身で説得して日本軍のマレー作戦に協力させることに成功する。以降、1942年(昭和17年)3月、日本軍のシンガポール占領から1ヶ月後、谷豊は、マラリアのためにシンガポールの陸軍病院で生涯を閉じるまで、マレーの虎(ハリマオ)こと谷豊と行動を共にする。

マレーのハリマオが病死した後のシンガポールでのマラヤ軍政部での業務
マレー・シンガポール作戦が一段落し、この作戦を側面から支えたF機関の役目が終わり、F機関の藤原少佐が南方総軍に還り、ビルマ作戦の第15軍へ移るためシンガポールを去り、第25軍のマラヤ軍政部に残った神本利男は、F機関のころと同様にマレー人青年の保護を担当し、軍政監・渡辺渡大佐(1896年~1969年)が立案していた昭南(シンガポール)興亜訓練所、マラッカのマラヤ興亜訓練所、さらに日本へ留学生を派遣する南方特別留学生や徳川義親公の徳川奨学生などの実施計画に参画。

光機関に転属し、ビルマ北部・シャン州での工作
1942年(昭和17年)11月、神本利男は、藤原少佐の懇請を受けて、シンガポールを去り、ビルマのラングーンに新たに設けられた光機関に転属。ビルマ奥地のシャン高原では、シャン州都タウンジーの
の州首長モン・トントン宅に定住し、国境をへだてた中国雲南省から侵入する中国軍ゲリラ対策を担当したが、中国軍ゲリラ部隊との戦闘は、シャン州に駐屯する日本軍部隊にまかせ、シャン州首長モン・トントンの長男モン・トンミンたち約300人のシャン人青年の指導に専念。尚、このシャン族出身のモン・トンミンは、ビルマからの南方特別留学生第一期生23名の1人に加わり、1943年(昭和18年)6月、マラヤ、ジャワ・スマトラの留学生たちと一緒に日本に留学し勉学と訓練に励んだが、日本敗戦後、GHQ英軍代表部により、ビルマに強制送還された。後にカレン解放戦線議長、シャン州政府首相を歴任。1996年2月逝去。

インパール作戦撤退に挺身、マラリア感染し帰国途上で南シナ海で戦没
昭和19年(1944)1月、インパール作戦が認可され3月に作戦開始。神本利男も、シャン族青年部隊を率いてナガ族やチン族の居住地域へ潜入する準備を整えるが、インパール作戦開始直後の4月下旬には戦況は絶望的になっていて、インパール作戦が中止となったのは作戦開始から4ヶ月後の昭和19年(1944年)7月。この時期、神本利男は、山岳ジャングルに慣れたシャン族青年部隊の半数に、日本軍の背後にあるチンドウィン河西岸に設けられた補給基地から、食料や弾薬、医療薬品などを前線のインド国民軍各部隊へ補給することを任せ、自らは残りのシャン族青年部隊を率いて、ナガ高地の奥地へ潜入し、英印軍からのインド人将兵の離脱工作に挺身していたが、
昭和19年(1944)7月、風土病に感染しマラリア再発。

チンドウィン河の東岸の野戦病院で病床に伏すが、シャン高原のタウンジーに担架に担がれて一旦帰り着くが、昭和19年(1944)8月、同じくマラリアに感染した藤原岩市中佐がタウンジーに見舞い、藤原中佐の説得により一緒に帰国することとなる。神本利男は藤原岩市とともにタウンジーから列車でラングーンに下り、海軍の飛行艇でペナンの海軍基地へと運ばれ、それぞれ別の潜水艦で帰国することとなった。ただ藤原岩市は潜水艦内で再び発熱したので急遽シンガポールに寄港し病院に収容される。神本利男が便乗した潜水艦はシンガポールには寄港せず南シナ海へと進んだが、1944年9月30日夜、夜間浮上航行中に米軍機のレーダーに発見され、撃沈され、南シナ海にて戦没(39歳)。

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  9. メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著)

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  10. メコン圏が登場するコミック 第17回「リトル・ロータス」(著者: 西浦キオ)

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