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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第64話 「オオクニヌシとスクナヒコナ」
- 2005/10/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
魏志倭人伝をヒントに神話に伝えられる2人の人物を解明してみると歴史上に実在?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
第64話 「オオクニヌシとスクナヒコナ」
この神話中の二人の人物の名前を解明してみたいと思います。まずオオは「大」を、スクナは「小」を表す修飾辞と考えられましょう。クニは「国」、ヌシは『魏志倭人伝』に見える伊都国の官(藩王)の「爾支」のことでしょう。伊都国に一家言を持つ梶原大義が「爾支」をニシと読み、ヌシに通じるとしています。伊都国は後に飴(本当はリッシンベン)土県となり県主(アガタヌシ)が置かれますが、ヌシ(爾支)の語がまだ生きていますね。オオクニヌシの意味は「大国爾支」で、大国伊都国の王を呼んだものでしょう。
かつての任那が臨海の港や邑などの「百余国」のゆるやかな連合体だったことを思い出しましょう。委奴国(伊都国)は57年に漢に使節を派遣し金印を授かっていますが、かつての任那連合の新たな代表者として、その威令は朝鮮海峡の両岸はもとより山陰・北陸まで及んだものと考えられます。神話におけるオオクニヌシの行動範囲がその痕跡を遺しているのではないでしょうか。
さて、一方のスクナヒコナですがヒコナの「ナ」は『古事記』も『日本書紀』も「那」の字が使われています。これは任那の「那」で「国」を意味するものです。ヒコは『魏志倭人伝』に見える対馬国の官(藩王)の「卑狗」、壱岐国の官(藩王)の「卑狗」のことでしょう。『魏志倭人伝』によれば対馬国には千余戸、壱岐国には三千家ばかりが住むと見えます。これに対する伊都国は万余戸、伊都国は対馬国よりおよそ十倍大きく、漢に使節を派遣したころはさらに巨大だったのではないかと思われます。スクナヒコナの意味は「小卑狗那」で、小国対馬を「小さな卑狗の国」と呼んだものでしょう。つまりスクナヒコナは対馬国から伊都国に来たマレビトで、伊都国の人たちから「小さな卑狗の国」という渾名を頂戴したものと思われます。
神話ではこの二人の神様のコンビが各地で国土開発を進めますが、立派な国ができあがったのを見て「小卑狗那」は、俺の仕事は終わったとばかり去ってしまいます。それほどの国ではなかった委奴国(伊都国)が発展して旧任那連合の代表として57年に漢に使節を送ったことで、「小卑狗那」は頃は良しと判断したのでしょう。ところで「小卑狗那」が対馬国から伊都国にやってきたきっかけは何でしょうか。44年に韓の蘇馬諟が漢と通交したことでしょう。にわかに勢力を増強した六加羅連合による正面からの圧力を避けて対馬国から伊都国に来たのではなかったでしょうか。ねらいは北九州を中心に任那連合の再編成を図ることにあり、委奴国(伊都国)の「大国爾支」と意見が一致したように思われます。
旧任那連合の海上ネットワークは十分に生きており、だからこそ「小卑狗那」が対馬国から伊都国に来て歓迎されたり、「大国爾支」とのコンビで山陰・北陸まで足を伸ばすこともできるわけですね。この間、44年から57年までの約13年間と考えられます。この時代はまだ王のことをコニキシやコキシと呼ぶ新羅や百済はまだありません。また王のことをキミ、オオキミと呼ぶ海人系の勢力も国を形成してはいません。委奴国(伊都国)の王は爾支(ニシ、ヌシ)と呼ばれ、対馬国の王は卑狗(ヒコ)と呼ばれていたのです。それは『魏志倭人伝』に書かれた倭国の3世紀前期まで続いていました。
歴史が好きな人は帝国・王国・汗国などの言葉を知っていますが、卑狗が治める国を呼ぶ卑狗那(ヒコナ)という倭人の俗な言葉があったとすれば(僕はスクナヒコナのヒコナをそう解釈しますが)、爾支那(伊都国)もあり、多模那(不弥国)もあり、弥弥那(投馬国)もあり、『魏志倭人伝』に記されたさまざまな王号を冠した俗な国の名が、旧任那連合のネットワークで結ばれていた倭人および韓人たちの口の端にのぼっていたのではないかと想像されます。ともあれ『魏志倭人伝』をヒントに「大国爾支」と「小卑狗那」が歴史上に実在し44年から57年までの約13年間、神話に伝えられるような国土開発が行なわれたのではないかいう楽しいイメージを考えて見ました。