コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第39話 「漢字と泰・越語(6)」

コオロギを表す漢字やメコン圏各語族の語、菖蒲酒の風習と古代の楚の国の文化の広がり

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第39話 「漢字と泰・越語(6)」

秋に鳴くコオロギのことを漢字では「蟋蟀」と書きますが、この字を広東音で読んでみますと「シッソッ」、ベトナム音で読んでみますと「タッスアッ」となります。これらの音からコオロギやキリギリスの声が聞こえてきませんか。『揚子方言』という中国の古い本によりますと、コオロギを表す漢字は蜻という字と「虫ヘンに列」という字から成る蜻蛉(とんぼ)によく似た印象のものが標準語だそうで、「蟋蟀」というのは楚の地方の方言だそうです。日本では昔は中国といえば「もろこし(諸越)」と呼んだことからも明らかなように、楚の地方の文化が流れ込んでいますから、「蟋蟀」の字が辞書に載り、蜻という字と「虫ヘンに列」という字から成る標準語が載っていないことは驚くに足りません。五世紀に書かれたという『荊楚歳時記』に五月五日の節供に長江中流の楚の地方の人々が菖蒲酒を飲む風習が記されていますが、菖蒲酒を飲む風習は主に西日本の各地に伝わっています。広西省のタイ系のチワン族について書かれた本を読んでいましたら、五月五日の節供にやはり菖蒲酒を飲むそうで、古代の楚の国の文化の広がりにあらためて驚かされました。

さて、本題に帰って蜻という字と「虫ヘンに列」という字から成る標準語の二文字を、広東音で読んでみますと「ツィンリッ」、ベトナム音で読んでみますと「ティンリエッ」となります。むしろこの音の方から、日本人の耳になじんだ「チン、リーリーリー」という虫の声が聞こえてくるように僕は思います。これらコオロギを示す二種の漢字の組み合わせは、楚の方言にしても、また古代の標準語にしてもコオロギやキリギリスの声を漢字に音写したものであることは、字の成り立ちからして疑いのないところでしょう。ではこれらの字に示されるふうに虫の声を聞いた人たちは誰だったのでしょうか。

カンボジアのクメール語ではコオロギを「チャンレー」と言います。モン・クメール語族の人たちはもっとも古く長江流域にいた民族で、現代クメール語の「チャンレー」が「ティンリエッ」の音にもっとも近い感じがします。また標準タイ語では「チンリー」と言い、これもかなり「ティンリエッ」の音に近い感じです。古代のコオロギの標準語の二文字の撥音とL音またはR音が、現代のクメール語と標準タイ語に残されているのです。いつごろの古代かちょっと特定はできませんが、中国の古代の文化の中心に、古代のクメール人と古代のタイ人の耳が聴いた虫の声から造られた漢字が使われていたと考えるのも楽しいことです。

さてモン・クメール語族の多くが南下して、その後の長江流域には苗族(HMONG族)が広く住むようになりました。現代の苗語ではコオロギは「チーリー」と言います。古代の苗族の人たちが先住のモン・クメール語族の人たちと雑居しつつ、「チャンレー」の言葉を訛って受け継いだのかもしれません。また北タイのランナー語では「チーヒー」、古いタイ語の面影を残すといわれるタイ・ダム語でも「チーヒー」です。ただこれらの語では撥音が消えてしまっており、この点、楚の方言である「蟋蟀」につながる可能性もあります。とくにL音またはR音を持たないランナー語、タイ・ダム語にその傾向が強いと思われます。

広西省に住むタイ系のチワン族の言葉には、ものの本によれば大別してトァーパウ方言とウーミン方言とがあって、コオロギのことをトァーパウ方言で「チッシッ」、ウーミン方言で「タッカウ」と言います。「蟋蟀」の広東音の「シッソッ」、ベトナム音の「タッスアッ」にそれぞれつながる感じがします。「蟋蟀」の漢字が生まれるもととなる虫の声を聞いた耳は、あるいは古代のチワン族の耳だったのかもしれません。また「蟋蟀」の漢字が楚の地方に生まれたということは、もしかすると古代のチワン族の一派が楚の地方に住んでいたということかもしれません。菖蒲酒の風習も楚の地方とチワン族のつながりを証することになりそうです。なにしろ長江水系はそれだけでひとつの世界帝国を形成する条件を備えており、楚の国は中国史の地方国家というよりも、生態的にはむしろひとつの世界帝国と考えるべきだと僕は思うのですが、その地を舞台にさまざまな民族が錯綜したであろうことは想像するまでもないでしょう。ちなみにベトナム語でコオロギは「チャウチャウ」、潮州語では「クワックワッ」と呼ばれています。これは上述したものとは別の第三の発音のようです。

 『揚子方言』にはまた楚の地方の南部ではコオロギを「ヴォントン」と言うと記していますが、仙人はこれに近い発音を残す言葉を目下、追跡中であります。ご声援を。

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