コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第17話 「倭武天皇」

中国の史書にのみ名が見える倭の五王とは?また「常陸風土記」に登場する倭武天皇とは?

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第17話 「倭武天皇」

魏の後継王朝である晋が呉を滅ぼして中国を統一したのは280年のことです。これに乗じて北九州では卑弥呼に始まる「親魏倭国」が漢の金印を持つ伊都国を滅ぼして、名実ともに唯一無二の国際的に認められた「倭国」になります。伊都国の民は遠く伊豆半島に遷り、また呉を支援していた海人勢力は呉の亡命王族・貴族らとともに韓国の南端の加羅・いわゆる新羅(アメノヒボコの故郷としての新羅)、それから南九州(狗奴国)へと押し寄せ、人口爆発によって加羅・新羅の勢力は播磨に進出し、また南九州の勢力は大和に遷りました。これら三つの倭人の勢力(他にも山陰・北陸・信濃・関東に大勢力が存在した模様です)は、それぞれ均衡を保ってきましたが、4世紀の後半に至り、九州の倭国がアメノヒボコの故郷の新羅に攻め入って服属させ、この新羅と一体であった播磨の勢力は新羅救援・北九州の倭国(熊襲)討伐の軍を起こして、逆に北九州で降伏した後、かえって神武の後継勢力がいる近畿征伐に向ってこれに成功します。播磨の勢力をあやつる九州の倭国はここに朝鮮半島から近畿さらには伊豆にまで威令を及ぼす大倭国を築き上げ、高句麗の南下を抑えた後、413年、伊豆の大船を連ねた倭王讃の東晋への朝貢となりました。

 卑弥呼から倭王讃までのダイナミクスを上のように僕は考えるのですが、岡田英弘によると、『晋書』には東夷の諸国との交渉は、国名が省略されて国数の総計だけが書かれてあるといいます。だから晋の史書には高句麗とか倭国とかの具体的な名前は消えてしまうのですが、晋の中国統一を祝う使節を九州の倭国が出さなかったとは考えられません。その後、晋の宮廷に混乱が起こり、やがて匈奴の勢力に逐われて南遷する(東晋の成立)のですが、5世紀に至って倭王讃が使節を送って、かつての魏・晋と親魏の卑弥呼および後継王朝の「倭国」との関係を復活するわけです。

 讃に始まる倭王の朝貢は、倭王珍・倭王済・倭王興・倭王武と65年間続きます。いずれも中国の史書に見える名前で、『古事記』『日本書紀』には見えません。いったい中国は正統ということを重んずる国で、後のはなしになりますが、1223年道元が中国にわたったとき、比叡山の大乗戒を受けており、鑑真の伝えた唐の大乗戒を受けていなかったために当初は僧侶として認められませんでした。鑑真の渡日(753年)から道元の渡宋まで470年の隔たりがあり、しかも中国は唐から五代を経て宋へと王朝が変わっているにもかかわらず、かくも正統にこだわるのです。卑弥呼の死から倭王讃の朝貢まで、わずかに166年、東晋が卑弥呼の後継王朝たる唯一無二の正当な倭国をさしおいて、他の倭人の勢力の首長を倭王として待遇するでしょうか。まして近畿総督にすぎない応神・仁徳以下の貴人たちを倭の五王に比定するのはスジが違うのじゃないかなあ。

 中国の史書には、また新羅王楼寒が前秦に朝貢した記録や、新羅王募秦が梁に朝貢した記録が見えますが、統一新羅の正史にはそういう王の名前は見えません。ちょうど統一日本の正史に倭の五王の名前が見えないのと同じです。倭はその昔、百余国ありました。その中で最終的に統一日本の王位についた者が、自分の家系を中心に正史を編纂することは、むしろ当然でしょう。新羅もまたおなじで、その昔は、アメノヒボコのように新羅の王子や王を称する勢力がいろいろあったとしてもおかしくありません。なにしろ倭は百余国なのですから。新羅が何ヶ国かあってもいいわけです。新羅にせよ日本にせよ、正史で抹殺されてしまった国のことが、中国の史書には保存されていると考えてはどうでしょうか。

 『常陸風土記』には3人の天皇の名が見えます。美麻貴天皇・品太天皇・倭武天皇です。最初のミマキ天皇とは、後に崇神天皇と呼ばれるミマキイリヒコのこと、二番目のホムダ天皇とは、後に応神天皇と呼ばれるホムダワケのことです。そして最後の倭武天皇、『常陸風土記』の主役はこの天皇で、各地の地名起源伝説にこの天皇の言行がかかわっています。常陸以北征討のために先に着いた倭武天皇は、後から到着した皇后オオタチバナヒメと、アキタの里で天皇は鹿を狩り皇后は海の幸を漁って競争し、楽しく大宴会をおこなったことが見えます。倭武天皇は普通ヤマトタケルのことと言われていますが、僕は九州倭国の倭王武ではないかと思います。美麻貴(ミマキ)・品太(ホムダ)と漢字が音読みされていることから、倭武は「ワブ」と読むのが正しいと思います。『常陸風土記』にはまた「倭武天皇、巡狩天下」と見え、倭王武が大倭国をあまねく巡幸したことが記されています。もちろん伊豆の大船で海路巡幸したのでしょう。しかしこの天皇には後になって崇神とか応神とかの名が付けられませんでした。九州倭国の王だったからです。そして倭王武があまねく各地を巡ったために、この王の伝説が各地に根強く残り、後の近畿王朝はヤマトタケルの御伽噺を創作しなければならなかったのではないでしょうか。

関連記事

リニューアル公開への準備作業中

2023年2月下旬のリニューアル公開に向け、サイト再構成の準備作業中です。

カテゴリー

おすすめ記事

  1. メコン圏を描く海外翻訳小説 第16回「おとなしいアメリカ人」(グレアム・グリーン著、田中西二郎 訳)

    アメリカの対アジア政策を批判したものと受けとめられ世界的に話題となった、第1次インドシナ戦争中の…
  2. 馬 登雲

    2001年9月掲載 昆明の回族出身の革命活動家。1927年に共産党に入党し19歳で刑死  (191…
  3. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
  4. メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」(伴野 朗 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」 「九頭の龍」 著書:伴野 朗  徳間文庫、199…
  5. バー・モウ

    2000年10月掲載 ビルマ民族運動の先駆的指導者で、元ビルマ国家元首 バー・モウ 1893年~…
  6. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
  7. コラム(江口久雄さん)「メコン仙人たより」 第12話 「倭国の遣使」

    コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」 第12話 「倭国の遣使」 〈前漢末期、倭の百余国によ…
  8. 石寨山古墓群遺跡

    2002年3月掲載 雲南古代の滇王国とその青銅器文化の存在を2千年以上の時を経て実証した王墓群発見…
ページ上部へ戻る