メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第37回「ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの「戦場にかける橋」」(永瀬 隆 著訳 )

メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第37回「ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの「戦場にかける橋」」(永瀬 隆 著訳 )


「ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの「戦場にかける橋」」( 永瀬 隆 著訳、社会思想社<現代教養文庫1266> 、1988年6月発行)

<著訳者略歴> 永瀬 隆(ながせ・たかし)(1918年~ *2011年)<本書紹介より、本書発行当時>
1918年、岡山市の医家に生まれる。青山学院文学部卒。
太平洋戦争勃発とともに、陸軍通訳を志願、南方総軍を経て、タイ国駐屯軍司令部付、カンチャナブリー憲兵分隊に勤務。敗戦後、連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事。復員後佐原女子高校教諭を経て倉敷市で英語塾を経営。一方、泰緬鉄道での体験を、反戦平和の立場から訴えつづける。著書に『「戦場にかける橋」のウソと真実』(岩波ブックレット)。訳書に、レオ・ローリングズ著『イラスト・クワイ河捕虜収容所』(教養文庫)がある。

<著者略歴> ジャック・ホールダー・リーマン Jack Holder Leeman(1910年~ 1962年)<本書紹介より、本書発行当時>
1910年、オーストラリア、ニュー・サウス・ウェールズ州に生まれる。第二次大戦勃発で陸軍に志願、戦争墓地部隊へ入隊。1944年8月のカウラ事件にて自殺攻撃した231名の日本人捕虜の遺体確認と埋葬に活躍。終戦後、オーストラリア戦争墓地委員会より泰緬捕虜捕虜墓地調査のため派遣される。1946年帰還後、すでに民間組織となっていた戦争墓地委員会に職を得、1948年横浜市保土ケ谷の連合軍戦争墓地の管理主事として来日、1952年帰国。1962年死去。
<著者略歴> ヘンリー・C・バッブ Henry C.Babb(1987年没)<本書紹介より、本書発行当時>
従軍牧師としてマレー作戦に加わり、シンガポールにて降伏、その後泰緬鉄道建設作戦に狩り出され、捕虜とともに辛酸をなめる。とくに病人には士気を鼓舞し、死に行く人々には慰めと平安を与えた。終戦後多くの同胞がなお眠るジャングルを離れがたく思っていたとき、墓地捜索隊のことを聞き志願する。これはその記録の一部である。イギリスへ帰国後はオックフフォードおよびケンブリッジで悠々自適の生活を送り、1987年死去。81歳。この記録はロンドン戦争博物館に収蔵されている。

本書の著訳者・永瀬 隆 (1918年~2014年)氏は、戦時中、陸軍憲兵隊通訳としてカンチャナブリー憲兵分隊に勤務し泰緬鉄道建設に従事、また敗戦後も連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事するが、復員後、多くの犠牲者を出した泰緬鉄道建設の悲劇の贖罪と和解の活動に一生をささげ、またタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動を長年にわたって続けた社会活動家。永瀬隆 氏は、1918年、岡山市の医家に生まれ青山学院文学部卒で、太平洋戦争勃発とともに陸軍通訳を志願。復員後、米軍の通訳、高校の英語教師などを務め、昭和30年(1955年)倉敷に帰り、私塾の英語学校経営を始めるが、一般人の海外渡航が自由化された1964年からは、日本人が戦時中に行ったことを悔い、犠牲者を慰霊するため、タイへの巡礼を始め、1976年には建設現場の一つであるクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者が再会する事業を実現。また、復員にあたってタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動など、息の長い草の根活動を続ける。

永瀬 隆 氏による著作は、最初の訳書として『イラスト クワイ河捕虜収容所 ー 地獄を見たイギリス兵の記録』(絵と文:レオ・ローリングズ、訳:永瀬 隆、社会思想社<現代教養文庫1109>、1984年6月)の後に、自ら著した最初の著書として、1941年(昭和16年)12月の東京・渋谷での臨時徴兵検査の頃に始まり、1943(昭和18年)には陸軍憲兵隊通訳として泰緬鉄道建設と関わりを持ちはじめ、1943年(昭和18年)9月にはカンチャナブリー憲兵分隊に配属される時から、本書刊行の1986年までの経歴や活動が時系列的にまとめられた『「戦場にかける橋」のウソと真実』(永瀬 隆 著、岩波書店<岩波ブックレットNo.69>、1986年8月発行)がある。本書「ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの「戦場にかける橋」」は、その2冊の発行の後の1988年6月に、社会思想社の現代教養文庫として発行された書籍。第二次大戦の直後、泰緬鉄道建設をめぐる捕虜虐待の証拠収集のため、連合軍による墓地捜索隊が結成されたが、永瀬 隆氏自身が泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に連合軍の通訳として、連合軍による墓地捜索隊に加わっているが、その時の貴重な体験記が、「虎と十字架」というタイトルの体験記で、本書に収録されている。

第2次大戦の直後、泰緬鉄道建設をめぐる捕虜虐待の証拠収集のため、連合軍による墓地捜索隊が結成されたが、その連合軍の一行は計13人。うち、10人は元捕虜の生き残りで泰緬鉄道で苦役した人たちで、収容所から解放されると志願して居残り戦争墓地委員となり、死んだ戦友の墓地捜索調査を買って出たメンバー。マレー連邦義勇軍のブルース大尉が一行の指揮官で、他には、オーストラリア軍大尉のホワイト大尉。大尉待遇のイギリス人牧師ヘンリー・C・バッブ、オランダ軍中尉のシュローダー中尉に、他6人の下士官、兵は全員オーストラリア軍人という構成。さらに、イギリス本国軍中尉のエルドリッジ中尉、オーストラリア軍中尉のリーマン中尉。ロイド・ランキン軍曹の捕虜体験をしていない3名が加わっている。行程は1945年9月22日から同年10月10日までの約3週間。著者の永瀬隆 氏は、原隊ともいえるタイ国駐屯軍司令部が終戦処理司令部と名前が変わり、投降兵になっていたものの、上部の判断で著者の名前は憲兵隊の名簿からは消され、そのおかげで収容所にも入らず、戦犯にも問われなかったが、そのかわり、終戦処理司令部で終戦処理業務として、連合軍への武器返納や使役の通訳をし、さらに、終戦処理司令部は、泰緬鉄道の地理に明るい通訳を出せという連合軍の命令を受け、バンコクのサートン路にある日本軍終戦処理司令部から派遣され、連合軍捕虜墓地捜索隊に通訳として同行することになる。

「虎と十字架」という著者自身の体験記は、1945年(昭和20年)9月22日、ナコンパトム駅で連合軍将兵の到着を待つところから始まっている。。前夜はナコンパトム日本軍兵站宿舎に宿泊し、9月22日の初日はバンポンマーイも宿泊。西方のビルマ方面に鉄道で向かい、9月23日はブランカシイ駅に到着し宿泊。9月24日には、タイ・ビルマ国境ニーケに到着。更にビルマ領に入り、マラリア熱病猖獗を極める地区アパロン、アナクイン駅を通過し、泰緬鉄道の終点、ビルマ側からすれば起点のタンビサヤ駅に到着。ここから連合軍の墓地捜索を行いながら、往路をまた、ビルマ側からタイ側に戻り、10月2日は、比較的長く滞在することになったタイ側における泰緬線の中間地点として基地になっているキンサイヨーク、10月9日にはカンチャンブリーを経て、10月10日にナコンパトム駅に到着している。連合軍の捕虜墓地捜索隊の仕事ぶりと合わせ、終戦直後のタイやビルマ領内の様子が、終戦処理業務の遂行や、日本軍将兵の動揺も含め、記されている。日本軍将兵の動揺については、とくに捕虜虐待で、とかく戦争中から噂のあった泰緬鉄道は、新たに捕虜となった日本兵が連合軍の報復強制労働に連行されて、代わって就労させられると噂があったとのことで、また、日本軍鉄道隊、捕虜収容所部隊および憲兵隊は三大戦犯部隊として指定されていて、その部隊の各員、特に憲兵隊員は、バンコク市郊外のバンクワン監獄②各地より続々と収容中で、連合軍の一部隊は泰緬鉄道で行われた捕虜虐待の戦争犯罪、人道にもとる犯罪の証拠収集の任務を遂行中と聞かされ、戦時中、陸軍憲兵隊通訳としてカンチャナブリー憲兵分隊に勤務し泰緬鉄道建設に従事した永瀬 隆 氏も大いに動揺する。

泰緬鉄道沿線奥地のタイ、ビルマ国境付近一帯は、武装強盗団が横行し、アジア人労務者を襲撃し、また虎が出没して危険極まりない状況との報告も入り、そのうえ、タイ側は終戦処理業務がはかどっているのに対し、ビルマ側では、在留の日本軍の指揮系統が乱れていて、敗戦撤退兵が集結するビルマ側のタンビザヤ地区では、連合軍墓地捜索隊との間に不穏な空気が流れ、永瀬通訳が非常に慌てながらも苦労して場を収めた時の話も紹介されている。泰緬鉄道沿線に散らばる連合軍捕虜墓地の捜索、調査には、泰緬鉄道全線に渡って日本軍将兵の全面的協力が必要となるが、本書を読む限り、日本軍将兵は、連合軍の捕虜墓地捜索や清掃などにも協力的。連合軍捕虜墓地に対しては、日本側が先手をうって、連合軍の捕虜基地の整頓を手掛けたが、アジア人労務者の墓地は酷い状態で放置されたままだったが。敗戦後も残留の日本軍の堕落した下士官には驚くが、ビルマ側から軌道車を運転して捕虜墓地捜索隊と行動を共にした鉄道第五連隊第四大隊の岩本兵長と林一等兵は、連合軍捕虜墓地捜索隊メンバーたちとの交流も見られ、また、連合軍の捕虜たちに親切だった日本兵と、連合軍捕虜墓地捜索隊の元捕虜たちが再会する場面も紹介されている。日本軍の戦争犯罪者に関わる名簿などが捕虜の墓の中に隠して密封されていたのを見つけるシーンには特に圧倒されるが、連合軍側の執念や強靱な生き様には、日本人の永瀬隆 氏自身非常に衝撃を受けたようだ。連合軍と日本軍との連合軍側各国の軍隊は事務はほとんど将校の担当で、連合軍側はテキパキと仕事を片付けるのに対し、日本軍側では、将校はいい気分になり尊大に振る舞っていることについて、効率を重視する連合国側と体裁を重視する日本軍側との違いを挙げ、日本軍と連合軍の階級制度の違いから人間としての存在を認める社会的習慣、文化の違いにまで、著者は日本軍に批判的に言い及んでいる。

本書『ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの戦場にかける橋』(永瀬 隆 著訳、社会思想社(現代教養文庫1266)、1988年6月発行)には、連合軍墓地捜索隊に通訳として同行した永瀬 隆 氏による同行記録「虎と十字架」の文章以外にも、この連合軍墓地捜索隊のメンバーだった、同行のオーストラリア軍中尉ジャック・リーマン、イギリス従軍牧師ヘンリー・バッブ両氏による手記も収録されているが、これらの連合軍側の記録も非常に貴重。この連合軍側で墓地捜索隊に参加していた2手記手記を翻訳掲載しているのが、永瀬 隆 氏であるため、同氏が本書の著訳者となっている。「幸福な墓掘り」と題した手記は、連合軍墓地捜索隊一行13名のうち、泰緬鉄道の苦役経験の元捕虜でない3名の1人で戦争墓地委員のオーストラ軍の軍のジャック・ホールダー・リーマン中尉(当時)(1910年~1962年)。リーマン夫人によると、この手記はリーマン氏が亡くなる直前に脱稿。原稿は家宝として夫人が保管しており、コピーがキャンベラのオーストラリア戦争博物館の公文書記録所に収められていると、訳者注釈が付されている。このリーマン氏の手記は、かなり異色というか、自由に思いのままの手記に見える内容。泰緬鉄道苦役に関わらず元捕虜でもないことからか、連合軍墓地捜索の仕事のことについても、もちろん、記述はあるものの、捜索隊の指揮官だったマレー連邦義勇軍のブルース大尉への批判の文章が並ぶことには驚き。これに対し、連合軍墓地捜索隊の一員でビルマ側墓地捜索指揮官として活躍した、オーストラリア軍のホワイト大尉に対しては、かつて捕虜時代にビルマ側で収容所計理士官として鉄道沿線を隈なく往来した実績があり完璧な仕事ぶりと絶賛。

リーマン氏の手記では、完璧な通訳だったと、永瀬隆 氏のことを褒めているし、特に、鉄道第五連隊第四大隊の林一等兵に対しては、人をまごつかせるほどの優しさを、その心の温かさ温かさをしみじみと感じれたと、べた褒めで、他日本日本軍の協力で捜索隊の仕事が実行できたと感謝している。日本式の五右衛門風呂も面白がっているし、日本軍側の歓待にも素直に喜んでいる様子が覗える。リーマン氏の手記の中で、カンチャナブリーの連合軍捕虜収容所では、反オランダ感情が特に顕著だったという記述も目を引く。オーストラリア軍人は緒戦におけるジャワ島での、オランダ軍側が日本軍へ寝返りした行為に我慢できなかったし、その結果オーストラリア軍人が捕虜生活を強いられる結果になったことに忿懣やるかたなかったからとのこと。ビルマ側起点タンビザヤより50km地点のタンバヤでは、墓地の十字架を調査した結果、6名の将校、757名の下士官、兵が埋葬してあるのが判明し、コレラ収容所の一つで、マレー捕虜収容所所属のFとHの部隊であったはずと述べられている。この部隊は、日本軍が泰緬鉄道建設を完成予定日までに終了させるため、マレーにあるマレー捕虜収容所から急遽応援部隊として、1943年3月に連行した捕虜たち。泰緬鉄道建設作戦地のタイ側にある日本軍第18方面軍管轄のタイ捕虜収容所からは無視あるいは厄介者とされる羽目となり、日本軍マレー駐屯軍司令部所属と主張しても容れられず、列車輸送も拒否され、長距離のジャングル内を強行徒歩行軍させられ、多数のオーストラリア兵、イギリス兵が死亡。リーマン氏は熱帯潰病棟での四肢切断の患者がころごろ転がっている光景に最も衝撃を受けたようだ。

さらに本書では、連合軍墓地捜索隊二同行したイギリス従軍牧師ヘンリー・バッブ氏による記録「泰緬鉄道墓地委員会記録(抜)」も収録されている。イギリス従軍牧師ヘンリー・バッブ氏は、従軍牧師としてマレー作戦に加わり、シンガポールにて降伏。その後泰緬鉄道建設作戦に狩り出され、捕虜とともに辛酸をなめる。終戦後多くの同胞がなお眠るジャングルを離れがたく思っていたとき、墓地捜索隊のことを聞き志願する。ヘンリー・バッブ氏自身、ある程度は墓地を知ってはいたものの、自分に課せられた主な仕事は、その日その日の一行の活動状況を、克明に記録することで、その記録の一部が本書に収録されているが、連合軍墓地捜索隊がバンコクに戻った1945年10月10日が、記録の序章の日付となっている。この記録で最も印象的で特筆すべき内容は、タイ・ビルマ国境近くのタイ領内のニーケで、わずか3ヶ月前の1945年7月に、あるオーストラリア兵が、日本兵に頭をハンマーで殴られ、その結果死亡した事件が起こっていて、その事件を起こした責任者である日本兵を発見するために、日本軍将校、下士官が尋問を受け、永瀬隆氏がその通訳にあたっている場面。尋問のやりとりが事細かに記録されている。尚、本書ではないが、『「戦場にかける橋」のウソと真実』(永瀬 隆 著、岩波書店<岩波ブックレットNo.69>、1986年8月発行)には、この連合軍による墓地捜索泰に通訳として同行した永瀬 隆 氏は、この犠牲者たちに、日本軍の一員だった者として、何をなすべきかを考えるようになり、そのジャングルの墓地で、いつかここにふたたび帰ってきて、犠牲者の冥福を祈らればならぬと、固く決心をしたとのこと。永瀬 隆 氏の立派なことは、ここから戦後、民間人1人の活動として、贖罪と和解の活動を始め長年続けられたことだ。

目次
序 伊藤桂一
はじめに ヘンリィ・C・バッブ 永瀬隆 訳

虎と十字架 永瀬隆
幸福な墓掘り ジャック・リーマン 永瀬隆 訳
泰緬鉄道墓地委員会記録(抜) ヘンリィ・C・バッブ 永瀬隆 訳
泰緬鉄道概要図
あとがきにかえて ー 泰緬鉄道建設作戦いまだ終焉せず ー 永瀬隆

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