明号作戦(仏印武力処理)

2004年1月掲載

1945年3月9日夜、第38軍司令官によって発動された仏印全土にわたる仏印武力処理作戦

1945年3月9日~5月15日

1940年4月、ヨーロッパではドイツ軍がデンマーク、ノルウェーを占領、5月にはフランス国境を突破して進撃を開始。6月17日、フランス軍はドイツ軍に降伏する。一方、日本政府はドイツ占領下のフランスで成立したヴィシー政府と協定し、軍を北部仏印にと進めた。目的は交戦中の中国軍に対する援助ルート(援蒋ルート)の遮断であった。翌1941年、日本政府はヴィシー政府に仏印の共同防衛と南部仏印の基地使用容認を要求、その結果、7月末、南部仏印に進駐を開始した。仏印は、1941年12月開戦とともに進駐したタイ国とともに、大東亜戦争における日本軍の最も重要な作戦基地ないしは兵站基地あるいは海運中継地で、これらの機能発揮のためにもこの地域の安定確保が必要であった。

こうしてフランスの主権下にあったインドシナでは、日本軍の仏印進駐以降、日本軍とフランス軍との奇妙な共存が開始された。戦勢が日本に有利に進展している間は大きな問題はなかったが、しかし日本の態勢が逐次不利となり特にヨーロッパ戦線において枢軸側が逐次敗退するに及んで仏印においてはド・ゴール派の活動が活発となり、1944年6月、連合軍がノルマンディーに上陸すると、親ドイツのヴィシー仏政府の支配力は低下の一途をたどり、日本政府はフランスに反枢軸政府が出現した場合の対処を迫られた。 1944年8月、連合軍がパリを解放し、ヴィシー政府が消滅すると言う事態を迎えると、日本軍にとって仏印各地に共存するフランス軍が、連合軍の侵攻に伴いいつ動き出すか判らない。連合軍の攻撃に対するインドシナ防衛の第1段階として、これを事前に処置すべく発動されたのが、仏印軍の武力処理「明号作戦」である。

1945年2月28日、大本営は南方軍総司令官に対して3月5日以降武力を行使して仏印を処理することを命じ、第38軍は3月上旬作戦準備を概成した(大本営はインドシナの戦力強化を図り1945年12月20日インドシナ駐屯軍を第38軍に改編)。武力処理発動の期日は3月9日と決定され、通常ハノイにいるドクー仏印総督がサイゴンに出かける時期をとらえ、3月9日午後7時(現地時間午後6時)、サイゴンで日本(松本大使)と仏印(ドクー総督)間ですでに合意されていた米の供与に関する調印式を行う事とし、その直後に日本側の要求を提示し仏印の回答を迫ることにした。

1945年3月9日午後7時(日本時間)、日本政府は松本大使を通じて、ドクー総督に対して軍隊を含む全機能を日本軍の統一指揮下に置くよう、通告を行った。松本俊一特命全権大使はフランス側のドクー総督に会い、まず米の供与に関する調印式を行い、ついで、「仏印軍および武装警備隊を日本の統一指揮下に入れること。仏印の全機能に対し、日本の要請に全面的にかつ忠実に協力すべき旨を即時司令すること」を要求、要求に応じない場合は、武力を行使して仏印を処理するとして、全面的許諾の回答を午後10時(日本時間)までにサイゴンにあった第38軍司令部にある松本大使のもとに届けるよう迫った。

3月9日午後10時10分、北部仏印の一部において通信手の誤りからすでに攻撃の開始されたことを知った第38軍司令官・土橋中将は、仏印総督の回答を待たず1945年3月10日午後10時21分、全部隊に武力発動を命じた。3月9日の外交交渉において、仏印総督が日本の要求を受諾した場合は「3・3・3」の連続発信、拒絶し武力発動のときは、「7・7・7」の連続発信を第38軍司令部通信室から各部隊に連絡することが事前に決められていた。武力発動命令を受けた各部隊は直ちに行動を開始し、仏印全土にわたり一斉に武力を行使し既定目標の処理にあたった。

北部インドシナのハノイ、ランソン、中部インドシナのフエ、クイニョンにおいてはその抵抗が強く、ハノイ、ランソンは3月10日午後にようやく降服した状況であったが、南部インドシナでは大きな抵抗もなく処理が終わった。3月10日、主要要地の仏印軍の処理をおおむね完了した日本軍は、引き続き交通要線上にある諸都市機関の占領、撤収を開始するとともに交通通信機関、施設の運営を開始した。以上の処置を終えた日本軍は、直ちに奥地に逃亡した仏印軍の掃蕩を開始したが、逃亡した仏印軍は険峻な地形を利用して巧みに行動し容易に捕捉できず、他方、北部インドシナの北方ではヴェトミンが跳梁し始め、当初予定の4月上旬をもって作戦を終了することは困難であった(当初の計画では約1ヵ月のうちに作戦を終了することになっており、作戦第1日から第3日までの第1期では主要地域の仏印軍の処理:作戦第4日から第10日までの第2期では、交通要線にある諸都市機関、保安隊の占領撤収:作戦第11日から作戦第30日までの第3期では、奥地に逃亡する仏印軍の掃蕩と計画されていた)。しかし日本軍にとって長く軍隊を分散配置することは不利であるのでその成果は必ずしも十分ではなかったが、戦局全般の情勢上、1945年5月15日をもって仏印軍の討伐を中止し、明号作戦を終了した。

土橋第38軍司令官は次期作戦準備とともにインドシナ統治の問題にも取り組むこととなった。尚、日本軍の武力処理発動により、フランスの統治権が一時停止した好機に乗じ、インドシナ3国はそれぞれ一方的に保護条約を破棄して独立宣言を行った。

◆ヴェトナム:アンナン皇帝(バオダイ帝)
・・・・・1945年3月11日に独立宣言

◆カンボジア:シアヌーク・ノロドム国王
・・・・・1945年3月13日に独立宣言

◆ラオス:ルアンプラバン国王(ティアン・サバン・バタナ王)
・・・・・1945年4月8日に独立宣言

*引用参考文献
『戦史叢書 シッタン・明号作戦』(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、1969年12月)
『フランス外人部隊』(柘植久慶 著)
『前進か死か1【インドシナ】』 (柘植久慶 著)

関連記事

おすすめ記事

  1. メコン圏現地作家による文学 第11回「メナムの残照」(トムヤンティ 著、西野 順治郎 訳)

    メコン圏現地作家による文学 第11回「メナムの残照」(トムヤンティ 著、西野 順治郎 訳) 「…
  2. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
  3. メコン圏対象の調査研究書 第26回「クメールの彫像」(J・ボワルエ著、石澤良昭・中島節子 訳)

    メコン圏対象の調査研究書 第26回「クメールの彫像」(J・ボワルエ著、石澤良昭・中島節子 訳) …
  4. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
  5. メコン圏に関する中国語書籍 第4回「腾冲史话」(谢 本书 著,云南人民出版社)

    メコン圏に関する中国語書籍 第4回「腾冲史话」(谢 本书 著,云南人民出版社 ) 云南名城史话…
  6. メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著) 「インドラネット」(桐野…
  7. メコン圏を描く海外翻訳小説 第15回「アップ・カントリー 兵士の帰還」(上・下)(ネルソン・デミル 著、白石 朗 訳)

    メコン圏を描く海外翻訳小説 第15回「アップ・カントリー 兵士の帰還」(ネルソン・デミル 著、白石 …
  8. メコン圏が登場するコミック 第17回「リトル・ロータス」(著者: 西浦キオ)

    メコン圏が登場するコミック 第17回「リトル・ロータス」(著者:西浦キオ) 「リトル・ロー…
  9. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第19回「貴州旅情」中国貴州少数民族を訪ねて(宮城の団十郎 著)

    メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第19回「貴州旅情」中国貴州少数民族を訪ねて(宮城の団十郎 著)…
  10. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第24回 「激動の河・メコン」(NHK取材班 著)

    メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第24回 「激動の河・メコン」(NHK取材班 著) …
ページ上部へ戻る