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「高丘親王(真如法親王) (799年~865年?)」


高丘親王(たかおか・しんのう、真如法親王、延暦18年(799年)~貞観7年(865年)?)

平安時代初期の皇族・僧侶。延暦18年(799年)、父は後の第51代天皇・平城天皇(774-824)<第50代天皇・桓武天皇(737-806)の第一皇子>の第三皇子として生まれる。大同4年(809)4月、平城天皇の譲位を受け、平城天皇の同母弟のの賀美能(神野)親王が譲位し第52代・嵯峨天皇)となり、この時に(809年)数え年11歳で、第52代・嵯峨天皇の皇太子となる。

しかし、大同5年(810)9月、高丘親王の父・平城太上天皇が、同母弟の第52代・嵯峨天皇と対立し、平成太上天皇の変(薬子の変)が起こる。この平成太上天皇の変(薬子の変)での嵯峨天皇側の勝利により、平城太上天皇は出家に追い込まれ、寵姫の藤原薬子(生年不詳~810年)は服毒自殺。藤原薬子の兄・藤原仲成(764年~810年)は射殺された。この平成太上天皇の変(薬子の変)に連座し、高丘親王は、数え年12歳で皇太子を廃された。

平城(へいぜい)天皇(774年~824年)
第51代天皇(在位806年~809年)。第50代・桓武天皇の第一皇子。第52代・嵯峨天皇は同母弟。高丘親王の父。809年、譲位後、平城上皇は旧都である平城京に移り住み、平安京から平城京への遷都を目論んで起った810年の平城太上天皇の変(薬子の変)以降も、平城上皇は出家に追い込まれるも、太上天皇の尊号と礼遇を受けている。
●嵯峨(さが)天皇 (786年~842年)
第52代天皇(在位809年~823年)。第50代・桓武天皇の第二皇子。第51代・平城天皇は同母兄。高丘親王は、嵯峨天皇の兄(平城天皇)の子で甥にあたる。
●藤原 薬子(ふじわらのくすこ、生年不詳 -810年)
藤原式家の藤原種継(737-787)の娘。中納言・藤原縄主の妻で
三男二女の母。幼少の長女が桓武天皇の皇太子・安殿親王(平城天皇)の宮女となるとこれに伴い宮仕えにあがるも、やがて薬子自身が安殿親王(平城天皇)と深い関係になり、一度は憤激した桓武天皇から薬子は東宮から追放されるも、806年、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位すると、薬子は再び召され尚侍となり、天皇の寵愛を一身に受けた薬子は政治に介入するようになり、兄の藤原仲成とともに専横を極めた。809年、平城天皇は病気のため同母弟の皇太弟・神野親王(嵯峨天皇)に譲位し平城京に移った。このため平安京と平城京に朝廷が並立するようになり、薬子と仲成が平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図ったため二朝の対立は決定的になった。大同5年(810年)9月10日、嵯峨天皇は平安京にいた藤原仲成を捕らえて、薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発した。平城上皇は薬子とともに挙兵するため、住んでいた奈良の仙洞御所から川口道を東へ向かったが、嵯峨天皇は先手をうち、勝機のないことを知った平城上皇は平城京に戻って剃髮。薬子は大和国添上郡越田村(現・奈良市北之庄町)で服毒自殺、藤原仲成は射殺される。<平城太上天皇の変(薬子の変)

822年(弘仁12年)1月、高丘親王は、四品に叙され名誉回復がなされるが、このころ、数え年25歳で、親王は道詮律師のもとで三論宗を学び出家し、やがて東寺(創建796年、嵯峨天皇より823年、空海に下賜)に入り、空海(774年~835年)に師事し、のちに高弟の1人に数えられる。835年(承和2年)、数え年37歳の時に空海が入定すると、高僧の一人として高野山奥之院の岩室に葬送する。855年(斉衡2年)、地震で東大寺の盧舎那仏像の仏頭が落ち、修理東大寺大仏司検校に任じられ、東大寺大仏の修復に尽力する。このころ、真如と名乗る。861年3月、東大寺大仏の仏頭修理の開眼供養大仏会が行われている。また、高丘親王は、高野山に親王院を開き、親王院の壇上伽藍の御影堂に今も祀られている空海の姿を描いた御影を表した人物としても知られている。

弘法大師(空海)の十大弟子
真済、真雅、実恵、道雄、円明、真如、杲隣、泰範、智泉、忠延

貞観3年(861)、数え年63歳で、4月ころ、求法のため唐へ渡る勅許を得る。6月、奈良の池辺院を出立し、途中、巨勢寺に滞在。僧徒らの盛大な出迎えを断った。7月、難波津に到着。同月、難波津を出港し、8月、大宰府に到着。滞在中の過剰なもてなしを断る。10月、唐へ渡るため造船を命じる。翌862年5月、船が完成する。7月、60人の供を連れ、大宰府を出航。荒波にも動じず、9月、唐の明州(現在の寧波)に到着。各地を巡りながら、長安を目指す。864年5月、長安に到着。在唐40年になる留学僧円載(生年不詳~877年、日本への帰国時に船が難破遭難死)の手配により長安の西明寺に迎えられる。

しかし、当時の唐は武宗の仏教弾圧政策(会昌の廃仏)の影響により仏教は衰退の極にあったため親王は長安で求法は果たせず、10月ころ、仏教発祥の地・天竺(現在のインド)へ渡る決意をし。10月ころ、皇帝の勅許を得る。数え年67歳の865年1月、安展、円覚、丈部秋丸ら従者3人とともに広州より海路、天竺を目指し出立。その後の消息は不明。尚、高丘親王とともに862年,入唐し長安に赴いた宗叡(809年~884年)は865年に唐から帰国し、東大寺別当、東寺長者などを歴任。

その後16年を経て、881年、唐に渡った日本の留学僧から、羅越国(現在のマレー半島南端と推定されている)で亡くなったと伝えられ、虎の害に遭ったとも言われる。1970年、高丘親王が開いたとされる高野山の親王院により、マレーシアのジョホールバルの日本人墓地に、日本から御影石を運んだ高丘親王の供養塔が建立されている。実在の高丘親王は、澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』のモデル。尚、在原業平(825年~880年)は、平城天皇の第1皇子で高丘親王の長兄である阿保親王(792年~842年)の5男で、高丘親王の甥にあたる。

<主な参考文献:佐伯有清「高丘親王入唐記」(2002年、吉川弘文館)>

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