メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著)


「インドラネット」(桐野夏生 著、角川書店、2021年5月発行)
(初出:「小説 野生時代」2018年3,5,7,9,11月号、2019年1月号~2020年10月号。本書は左記連載に加筆修正を行い、単行本化されたもの)

<著者紹介> 桐野 夏生(きりの・なつお)
1951年生まれ。93年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞を受賞。99年「柔らかな頬」で直木賞、2003年「グロテスク」で泉鏡花文学賞、04年「残虐記」で柴田錬三郎賞、05年「魂萌え!」で婦人公論文芸賞、08年「東京島」で谷崎潤一郎賞、09年「女神記」で紫式部文学賞、10年、11年に「ナニカアル」で島清恋愛文学賞と読売文学賞の2賞を受賞。1998年に日本推理作家協会賞を受賞した「OUT」は04年エドガー省候補となる。15年紫綬褒章を受章。その他の著書に「バラカ」「夜の谷を行く」「とめどなく囁く」「日没」など多数

1951年生まれで石川県金沢市出身、1983に作家デビューし、江戸川乱歩賞、直木賞などをはじめ数々の賞を受賞し、様々なジャンルで独特な作風で際立つ女性作家・桐野夏生氏による、カンボジア各地を舞台とした長編小説で、本書は、2018年から2020年にかけて「小説野生時代」で連載初出された作品が2021年5月に単行本として発行されたもの。単行本発行の同じ月の2021年5月には、桐野夏生氏は、1921年創立の日本ペンクラブ第18代会長に就任(女性初の会長)。本書もストーリーが後半に入り一気に雰囲気が変わるとともに、桐野夏生氏らしい驚くべき結末が用意され、その余韻が半端ない。

ストーリーの主人公、八目晃は、平凡な顔、運動神経は鈍く、勉強も得意ではない――何の取り柄もないことに強いコンプレックスを抱いて生きてきて、東京の東中野のぼろぼろのアパートで一人暮らしをしている25歳の若者。IT企業の子会社で非正規雇用で給与も安く、仕事にやる気が起きなくて、ネットに悪口を書き込んだり弱い立場の職場の女性に意地悪ばかりしていて、職場ではセクハラ野郎と告発されたりゲームしか夢中になれない無為な生活を送っていた。そんな彼の唯一の誇りは、都立高校の同級生で、カリスマ性を持つ野々宮空知と、美貌の姉妹と親しく付き合ったことだった。家が比較的近く高校1年の時から野々宮家に入り浸っていた関係。

ただ、仲が良かったのは高校時代までで、親友の野々宮空知は美大に進学し大学半ばで突然アジアに旅行に出てそのまま行方が分からなくなりカンボジアで消息を絶ち、ほとんど同時期に姉妹も日本から消えていなくなり、連絡も取れなくなっていた。ある日、八目晃は、実家の母親から、高校時代の親友の父親、野々宮俊一が亡くなったという電話を受け、葬儀に参列したことに端を発し、葬儀に参列していた人たちから、多少の金をもらって野々宮空知と姉妹の行方を捜すことを依頼され、会社を辞めて、一人、カンボジアに向かうことになる。

ストーリーの前半は、旅慣れぬ主人公の日本人若者が、シェムリアップの安宿ゲストハウスをベースに遭遇する、アジア貧乏旅行で出くわしそうな出来事が中心だが、人探しの手掛かりが徐々に掴めてくkるに従い、ストーリーの後半は、一気に展開が変わり、展開場所も、プノンペン、トンレサップ湖の水上村チョンクニア、更にはシソポン経由で、カンボジア北西部のアンピル近辺に向かい、タイとの国境の街ポイペトに寄り、そしてシアヌークビルにと、めまぐるしくカンボジア各地を移動することになる。

ストーリーの展開時代については、プノンペン在住の日本人女性ブロガーが主人公の若者に、「あなたみたいな若い人は、政治になんか興味がないでしょうけど、今、カンボジアは独裁政治にななってきているのよ。去年、総選挙があったでしょう?それは、フン・センの人民党の一人勝ちだったの。野党は陰謀でつぶされて、ファシズム状態よ」と語るシーンがあり、2018年7月29に実施された5年に一度開催のカンボジアの国民議会選挙(総選挙)の事とはっきり分かる。

1979年1月のポルポト政権崩壊、1989年9月ヴェトナム軍のカンボジアからの完全撤退、1991年10月の紛争4派のカンボジア和平協定締結、1993年5月のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)による総選挙までの波乱のカンボジア現代史だけでなく、1993年9月の新憲法公布と現在のカンボジア王国発足以降も、5年に一度、1998年、2003年、2008年、2013年、2018年のそれぞれ7月に実施された国民議会選挙(総選挙)を中心とした今に至るまでのカンボジアの政治状況も本書ストーリーの背景となっている。

本書でも重要な役割の人物として、人民党のフン・センの対抗勢力の政治家として、架空の人物チア・ノルが登場するが、1949年生まれでポル・ポト時代にはフランスに留学していて、カンボジアに帰国したのは1978年でそれからカンボジアを再建しなければという思いから政治活動に身を入れ、サム・ランギットというランギット党の党首と仲が良く、95年にランギット党が第1党となった時、財務大臣を務めるも、その後、フン・センを名誉棄損したという罪で告発され、財務大臣を辞めざるを得ず、その後国内逃亡し中国人の後妻も殺され、本人も2014年に何者かに射殺されたという設定。

チア・ノル自身は架空でフィクションの経歴だが、1949年生まれでフランスに留学していて財務相も務めたというあたりは、1995年クメール国民党設立し初代党首、サム・ランシー党の初代党首、カンボジア救国党(2012年~2017年)初代党首のサム・ランシー(1949年~)に似た部分もあり、その他の実在の人物や事件を思わせるようなものとなっている。”一番怖いのは、人間の悪意だ。目的のためには手段を選ばないというけれど、高邁な目的があるうちならまだいい。闘争が続くと、悪意が生まれる。悪意は執拗で、どんどん広がって大きくなる。”という語りが本書の中で登場するが、カンボジアの政争の事も示しているのかもしれない。

また、主人公の青年が信頼を寄せたシェムリアップのゲストハウスとミニコンビニ店を経営する女性のニェットさんは、シェムリアップで教師の家に生まれ、裕福な生活を送っていたが。1976年にポル・ポト政権になり、インテリの父は捕えられて処刑され、兄と弟はどこかに連れ去られ、当時16歳で母親と一緒に女性ばかりの更生労働キャンプに送られるが、一人、大変な苦労の末、タイの難民キャンプに逃れ、杉並のカソリック協会の神父の尽力でで、難民として受けいられれ、教会で暮らしながら日本で高校、大学まで出て、25歳の時に、遺跡修復NGOの働きかけで、カンボジアに戻ることができたという経歴の設定。

非常に驚くのは、カンボジアのプノンペンを拠点に活動する日本人の特殊詐欺グループの様子が生々しく描かれ、またストーリーの終盤に、シアヌークビルのリゾートホテルが登場するのだが、今年(2023年)4月にシアヌークビルのリゾートホテルを拠点とした日本人の特殊詐欺グループ摘発の大きく報道されたことだ。尚、気になる本書タイトルの「インドラネット」であるが、本書で、チア・ノルが息子に語った「チア・ノルの子供たちは、どこに行っても繋がっている光るインドラの網に絡まる宝石で、インドラの網にある宝石は、そのひとつひとつが、他の宝石を映し出す宇宙だ」という言葉が登場する。宮沢賢治の短編寓話にも「インドラの網」があるが、バラモン、ヒンドゥー教の神のインドラに関連する宇宙観を表す言葉。

目次
第1章 野々宮父の死
第2章 シェムリアップの夜の闇
第3章 ニエットさんの青唐辛子粥
第4章 さらば青春
第5章 冷たい石の下には
第6章 インドラの網

関連テーマ・ワード情報
・カンボジアの日本人特殊詐欺グループ拠点
・カンボジアの民主派とカンボジア救国党
・カンボジア、シアヌークビルにおける中国資本進出
・カンボジア日本人文民警察官死傷事件(1993年5月4日)
・ポイペト・プノンペン間鉄道、タイ・カンボジア間鉄道再開(2018年、2019年)

ストーリーの主な展開時代
・2019年
ストーリーの主な展開場所
カンボジア(シェムリアップ、プノンペン、トンレサップ湖、チョンクニア、シソポン、アンピル、ポイペト、シアヌークビル)
・日本(東京/東中野、西新宿など)

ストーリーの主な登場人物
・八目晃(やつめ・あきら、25歳)
・八目晃の母(54歳。私鉄駅前の手芸店で、編み物を教えるパート)
・野々宮空知(ののみや・そらち、八目晃の都立高校の時の同級生の親友)
・野々宮橙子(野々宮空知の7歳上の姉)
・野々宮藍(野々宮空知の3歳下の妹)
・野々宮俊一(空知の父、ゼネコン勤務後、建設会社を経営。その後倒産)
・野々宮雅恵(野々宮俊一の妻、多摩の大地主の愛人の子)
・安井行秀(アパレル会社社長で、野々宮橙子の元夫と名乗る男)
・三輪(野々宮藍の元マネージャーでクラシック音楽家のプロダクション社長と名乗る男)
・ニェット婆ちゃん(シェムリアップのゲストハウス&ミニコンビニ店経営)
・ソック(ニェット婆ちゃんの31歳次男。ゲストハウス経営も任されている)
・吉見(バックパッカーの40代前半らしい日本人女性)
・鈴木盧舎那(すずき・るしゃな。奈良出身のバックパッカーの30歳日本人女性)
・ミネア(太り肉で白髪のプノンペンの日本人女性ブロガー)
・木村(KIMURAN建設会社社長で半分ヤクザで30年近く在住のカンボジアの日本人社会の顔)
・サガミ(木村の会社の専務)
・リン(カンボジア国王の異母弟の愛人)
・ヤット(現国王の異母弟)
・エレーヌ(カンボジアでのベトナム難民を助けるカンボジア人女性のNPO活動家)
・チュアン(テッド。35歳のシソポンのタクシー運転手)
・ヨシダ(特殊詐欺グループの現場責任者の白髪頭の初老男)
・タカ(特殊詐欺グループの一番年下の若者)
・八目晃の勤務先の女性チーフ(40代の既婚者)
・野々宮俊一の中国茶の先生
・プリアベン村村長
・チア・ノル(カンボジアの民主派の政治家)
・ソラ(チア・ノルの息子)
・ソル(ナン島の持ち主で小柄な男。合成ドラッグを製造販売)
・リー(シアヌーク・プレステージ・スパの中国系のフロントマン)
・パリス(ナン島在住のオーストラリア出身の若い女性)

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