メコン圏現地作家による文学 第4回「アンコール・ワットの青い空の下で」(ベン・セタリン 著)


「アンコール・ワットの青い空の下で」(ペン・セタリン著、1999年12月(初版)、てらいんく)

本書は、カンボジア出身のペン・セタリン氏による1997年度シハヌーク国王文学賞受賞作品(カンボジア語)の日本語版で、日本にきて今年で27年になる著者自身(1990年12月に日本国籍を取得)による日本語での出版で、横浜の新しい出版社てらいんくから1999年に刊行された。

著者ペン・セタリン氏は、1954年11月プノンペンで、8人兄弟の長姉として生まれ、1974年日本文部省の国費留学生として日本に留学後、ポルポト政権の暴政下で、両親、4人の弟妹と、6人の家族を失っている。ポルポトの惨劇を生き延び難民として1980年に長姉ペン・セタリン氏を頼って来日した妹のポンナレット氏が、今年(2001年)4月、自身の半生を描いた『色のない空』(春秋社)を出版したが、この本にも、著者ペン・セタリン氏のことや、ポルポト政権下のカンボジア時代だけでなく、日本で暮らすようになってからの家族の生活の様子が書かれている。

 本書の主人公ユワディは、著者ペン・セタリン氏と似たような境遇のカンボジア人女性の設定だ。主人公ユワディは、日本に留学中、ポルポト政権による暴政が始まり、結婚を約束したカンボジア青年プラシットの消息も祖国の混乱でわからないままになり、また祖国の両親と連絡もとれず送金も途絶えてしまう。それでも異国・日本での孤独・経済苦・哀しみを乗り越え、東南アジアの歴史の研究者・田中貴と出会い、田中貴の母親には認められないものの、2人は国際結婚をし、夫の理解と支えによって日本の大学で学士をとる。

 もう一人の重要な主人公は、カンボジア人女性ユワディと、大学で東南アジア史を教える田中貴との間に生まれた陽子だ。陽子は1992年5月、カンボジアでの医療NGOチームの通訳として、初めて母の出生の地を訪れる。そして医療協力で訪れたタケオで、クメール織の織り手でありながら、詩も書き文学も愛するカンボジア男性と運命的な出会いをする。若い彼女の恋や学業・仕事での悩み、社会・文化への理解と関心が、この物語でどう展開していくかは、最後まで興味をそそられる。

 本書は、若き日のユワディと田中貴の愛と国際結婚、ユワディとプラシットとの愛と別れそして再会、陽子の恋愛と結婚、それに田中家の家族愛が描かれる主要登場人物の愛の物語でもあるが、日本とカンボジアの「国際的な相互理解」も別の大きなテーマであろう。本書ではクメールの4つの心、ジャヤーヴァルマン7世の哲学・思想の「愛・慈悲・平等・寛大」という言葉が何度か登場するが、このことも含めて著者は、ユワディはもちろん、田中貴、尾崎医師、プラシット、陽子等の語りを借りて、いろんなことを読者に問いかけ考えさせると同時に、広くは知られていないカンボジアの現代史(特にカンボジアの対日賠償放棄や1941年5月の東京条約などのカンボジア現代史と日本との関わり)や、クメール織をはじめとするカンボジアの文化についても教えてくれる。日本や日本人の国際理解、生活態度などについての苦言や、またカンボジアやカンボジア人についての誇りと嘆きも、随所で述べられている。

 著者自ら、カンボジアに関わるNGO活動を積極的にやってこられた方だけに、本書でも、陽子が関わるという形でカンボジアでの医療支援に取り組む日本のNGO活動を紹介し、ユワディが「・・そうした支援活動の在り方を知った。人々が何かの活動をするということは、会員外の人々にはとても想像できないほどたくさんの努力と忍耐が必要だということを、身を持って理解した。そして、何もできない自分たちの代わりに祖国の不幸な人々の苦しみをいやしに足を運んでくれている人々に対して、感動と感謝の気持ちでいっぱいだった。」と語っている。(一方、ユワディの夫・田中貴は、「私が知っている多くの日本人の中で ・・・最初だけ熱を上げて、すぐ冷める人もいれば、ボランティア活動に行くと言いながらも、裏では、見返りを期待する人や、現地の人たちより自分の方が高いところに居ると思い込み、わがまま勝手なふるまいをする人がすくなくありません。」と語るとともに、本書最後では「カンボジアの戦争孤児を支援する会」の結成に奔走している)

 本書表紙の装画には、平山郁夫氏による「アンコールワットの遺跡 カンボジア」が使われており、更に巻末には、元国連事務次長の明石康氏による「解説」が掲載されている。明石康氏が国連の特別代表としてカンボジアPKOの総指揮をしていた頃、1993年正月元旦、著者ペン・セタリンさんと初めて会ってNHKの特別企画に共演しアンコールワットの日の出を迎えたとのことだ。この明石康氏が、著者ペン・セタリン氏のことを、”祖国カンボジアに愛着と誇りを持ちつづけ、また日本を第二の祖国として愛し、日本の「国際化」を心から願っているひとである。私は彼女のにこやかな表情の裏に、気丈な生きる意志と、にじみでる気品のようなものを感じている。」と紹介している。

 本書結びには、著者と似た境遇のユワディが、咲き始めの桜を見て”突然両親と切り離され、日本で独りぼっちになった当座、咲き始めた桜の下で「私はどうしてここにこうしているのでしょうか」と天に問いかけたものだが、天に代わってかれんな桜たちが「でも、生きなくちゃ。ほら、素晴らしいよ。青い空、心地よい風、人々の遊び声。一生懸命咲かなくちゃ」と慰めてくれたと、孤独や哀しみを乗り越え前向きに生きてこれたことを振り返っている。と同時に、まぶたを閉じて、別れた日のまま、一向に年をとらない両親の姿を思い浮かべ、両親への感謝の念を忘れないユワディの姿には、『色のない空』(春秋社)で著者の両親や弟妹に起こった悲しい出来事を知っていただけにより一層哀しく心を打たれた。

著者紹介:ペン・セタリン Penn Setharin
・1954年11月16日、プノンペン生まれ
・1973年、プノンペン大学文学部フランス語学科および教育学部フランス語、クメール語学科入学
・1974年、日本文部省の国費留学生として来日東京外国語大学付属日本語学校に入学
・1975年、東京学芸大学教育学部学校教育学科入学
・1979年同大学教育学部学校教育学科卒業。
・同年、東京学芸大学大学院教育学部社会心理学科入学
・1981年、同大学大学院修了
・1981年~83年、社会福祉法人セイワ川崎授産学園の指導員として勤務
・1985年~ エスニックレストラン「アンコール・トム」を東京都町田市に開店
・1988年~ 大学書林アカデミーカンボジア語講師
・1989年~ 大和市教育相談委員
・1992年~ 東京外国語大学講師
・1997年~ 桜美林大学生涯学習センターカンボジア語講師
通訳・翻訳やNGO活動、各地での講演活動など多彩な活動をされている
主な著書
「私は水玉のシマウマ」(講談社)
「カンボジア語テキストブップ」 (カンボジア語)
「アンコール・ワットの青い空の下で」(カンボジア語、1997年シハヌーク国王文学賞受賞作)
主な活動
NHK,テレビ朝日、朝日新聞、郵政省通訳、翻訳、在日カンボジア人に対する救援や地域ボランティア活動で活躍。カンボジアの子供に教科書を送る運動、CAPSEA(東南アジア文化支援プロジェクト)の創立 カンボジアのバンジプン村に女性自立センター、カンボジアの伝統織物研究保存会設立。カンボジアから見た日本という文化比較、人権問題を日本各地で講演。V,ラジオ、新聞、雑誌に数多く活動が取り上げられる(1999年時の発刊の本訳書より)

関連テーマ
●UNTACとPKO活動
●クメール織
●ジャヤーヴァルマン7世
ジャヤワラマン7世・アップサラ(天女)・ラマヤナ物語・影芝居(スバエーク・トム)・ピンピアット音楽、アホリ音楽カンボジアの対日賠償放棄・カンボジア料理・金糸菓子・1941年5月の東京条約トロバエク・プレイという花・1992年5月流血事件(タイ)・アンコール・トム寺院と四面菩薩・バイヨン寺院・砂糖椰子の木・ポチェントン空港 ・クロマ・セントラルマーケット・王宮・国立博物館・クメール・ソヴエットの大通り・西バライ・クーレン山・サラー・アンコール・ワット(ノコー・ワット)・スリヤワラマン2世・マハバラダ物語・バンミアリアー地方・乳海攪拌 テワダ/アシュラ/ナーガ/アマリタ ・ブラフマ/テボダ・バヨン寺院・須弥山・チャム ・プノン・バカエン ・カンボン・トム州 ・ニアン・チェクとニアン・チョムの姉妹像 ・クメール・ルージュ ・再教育キャンプ ・ポルポト体制 ・アンタック景気 ・グランドホテル ・バンティアイ・スレイ ・ニァク・ポアン ・ロルォス ・チェク・テッ ・チェク・ミァス(ゴールデンバナナ) ・ブーゲンビリア

ストーリー展開時代
1992年~1996年
(回想1975年頃~ )注:本書のストーリー設定年代と登場人物の年齢が一部どうしても計算があわない点がある)・1992年カンボジアに行く前の田中陽子は大学生で19歳の設定になっているが、とすると母親のユワディが日本に留学さえする前に生まれたことになってしまう など

主なストーリー展開場所
カンボジア(
・プノンペン・シエムリアップ・タケオ)
日本国内(・東京 成城(世田谷)/目黒/表参道・大阪・京都)
タイ(・バンコク)
フランス(・パリ)

主な登場人物
・田中ユワディ
・田中陽子(ユワディの娘)
・田中貴(ユワディの夫)
・プラシット(中国系カンボジア人)
・尾崎医師
・林(医師)
・智子(看護婦)
・長谷川医師(日本カンボジア医療チームのプノンペン代表)
・グオン
・トーン
・チューン
・クンティア(看護婦)
・中山明(ユワディとは両親同士が親友で、明は田中貴と親友)
・中山健太郎(中山明の父親)
・中山美智子(中山明の母親)
・田中貴の母親
・田原教授
・玉井(田中家の隣人)
・モラ・ハナコ(デザイナー)

関連記事

おすすめ記事

  1. メコン圏現地作家による文学 第11回「メナムの残照」(トムヤンティ 著、西野 順治郎 訳)

    メコン圏現地作家による文学 第11回「メナムの残照」(トムヤンティ 著、西野 順治郎 訳) 「…
  2. メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第19回「貴州旅情」中国貴州少数民族を訪ねて(宮城の団十郎 著)

    メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第19回「貴州旅情」中国貴州少数民族を訪ねて(宮城の団十郎 著)…
  3. メコン圏が登場するコミック 第17回「リトル・ロータス」(著者: 西浦キオ)

    メコン圏が登場するコミック 第17回「リトル・ロータス」(著者:西浦キオ) 「リトル・ロー…
  4. メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第24回 「激動の河・メコン」(NHK取材班 著)

    メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第24回 「激動の河・メコン」(NHK取材班 著) …
  5. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
  6. メコン圏を描く海外翻訳小説 第15回「アップ・カントリー 兵士の帰還」(上・下)(ネルソン・デミル 著、白石 朗 訳)

    メコン圏を描く海外翻訳小説 第15回「アップ・カントリー 兵士の帰還」(ネルソン・デミル 著、白石 …
  7. メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第41回「インドラネット」(桐野夏生 著) 「インドラネット」(桐野…
  8. メコン圏に関する中国語書籍 第4回「腾冲史话」(谢 本书 著,云南人民出版社)

    メコン圏に関する中国語書籍 第4回「腾冲史话」(谢 本书 著,云南人民出版社 ) 云南名城史话…
  9. メコン圏対象の調査研究書 第26回「クメールの彫像」(J・ボワルエ著、石澤良昭・中島節子 訳)

    メコン圏対象の調査研究書 第26回「クメールの彫像」(J・ボワルエ著、石澤良昭・中島節子 訳) …
  10. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
ページ上部へ戻る