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北東インド旅行記 ~「辺境」の地を訪ねて~ 第1回 ナガランド編(1)(中園琢也さん)
- 2024/2/20
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北東インド旅行記 ~「辺境」の地を訪ねて~ (中園琢也さん)
第1回 ナガランド編(1)
中園琢也:
都内在住の一般企業勤務。学生時代よりアジア各地を旅行。旅先での関心領域は食文化を中心とした生活文化全般、ポップカルチャー、釣りなど。
1.はじめに
(1)北東インド7姉妹州(セブンシスターズ)
(2)旅程
2.ナガランド州
(1)基礎情報
(2)ナガランド州と周辺地域の地図情報
(3)ナガランド州概要
①ナガの人々 ②言語 ③宗教 ④歴史 ⑤文化 ⑥食 ⑦産業 ⑧観光業 ⑨自然環境 ⑩その他
1.はじめに
2023年11月、勤務先の長期勤続休暇で14日間の休暇をとることができた私は、長年憧れだった北東インド、通称「セブンシスターズ(七姉妹州)」のうちの三州を旅してきた。地図で見るとインド本土から離れた一見飛び地のように見えるこの地域は、一般的にイメージされる「インド的」なものとは異なる世界が広がっている。そして、「七姉妹州」と呼ばれるものの、民族・言語・宗教に大きな隔たりがあり、それぞれ個性的で多様な文化をもたらしている。また、各州においても多種多様な民族・文化が内在しており、より一層複雑なものとしている。
この地域は、近年まで外国人に閉ざされていた上に、ここ数年コロナ禍もあって、わざわざ訪れる旅行者はあまりいないらしく、まずは情報集めに苦労した。ガイドブックや関連書籍はおろか、旅行記などネットの情報もごくわずか、Google翻訳を駆使しながら現地の英語サイトを調べ、Google Mapで宿や食堂、移動手段を探し、集めた情報をメモにまとめ、試行錯誤しながら旅のプランを検討した。こうして手探りで得た情報、旅の記録を自分だけのものとするには惜しく、せっかくなのでメコンプラザに寄稿し、この地域を目指す旅行者、関心がある人々の理解の一助になればと思った次第である。
インド全図(出典:Wikipedia)(1)北東インド7姉妹州(セブンシスターズ)
インドの地図を見ると、北東部に一見飛び地のような形をした地域を見つけることができる。ここが北東インドの通称「セブンシスターズ(7姉妹州)」と呼ばれる地域である。ちなみにこの地域にシッキム州を加えた8州が行政上の北東部とされる。この地域とインド本土を僅かに繋ぐ「シリグリ回廊」は幅30km弱と地図で見ると「飛び地」だと見まがうほど狭く、別名「鶏の首」とも呼ばれるインド国防上の生命線である。
この地域は、アルナーチャル・プラデーシュ州、アッサム州、ナガランド州、メーガーラヤ州、マニプール州、ミゾラム州、トリプラ州の7つの州で構成される。面積は25万5511 km²でインドの総面積の7%を占める。日本の本州(22万7938 km²)より若干広い面積となる。人口は、2022年度で5167万人と推計され、インドの総人口の3.6%程度を占める。これら7つの州は「七姉妹」と呼ばれるものの、民族・言語・宗教的に大きな隔たりがあり、それぞれ個性的で多様な文化をもたらしている。そして、各州においても多種多様な民族・言語・宗教が内在しており、より一層複雑なものとしている(別表「インド北東7州の基礎情報」参照)。
なお、インドでは、国防上または治安上等の理由により一部の州について外国人の入域が制限されている。この地域ではアルナーチャル・プラデーシュ州全域が対象となっており、外国人には入域は通常許可されていないが、希望する場合には、インド政府当局から入域許可を取得する必要がある。また、マニプール、ナガランド、ミゾラム各州については、従来外国人の入域が制限されていたが、2010年1月より事前に入域許可を取得する必要がなくなった。代わりにこれらの州に到着した後、24時間以内に同地の外国人登録所(FRO)において登録を行うことが必要。
経済面では、地域の大半が山間部で交通インフラが未発達、各地で部族間抗争や分離独立運動が続き、これまで投資先として敬遠されてきた。インド政府は東南アジアとの経済連携を図る「アクト・イースト政策」の下、結節点である北東部の開発に日本の協力を仰いでいる。日本政府は、それに応える形で近年同地域の開発支援に力を入れており、隣接するバングラデシュと一体化した経済圏構築を目指している。この地域にインフラ整備を中心に日本が投じた政府開発援助(ODA)は累計約4020億円に上る。一方の日系企業は、インドに進出する約1440社のうち、北東部8州に生産拠点を置く企業は皆無である。2023年3月に訪印した岸田文雄首相は「自由で開かれたインド太平洋」実現に向けた新行動計画を発表。北東部をその重要地域に挙げた。円借款を活用して建設中のバングラデシュ南部のマタバリ港を開発のエンジンとして、北東インドと同港とのアクセスを向上させ、産業活性化につなげる青写真を描いている。雇用を吸収できる産業を育てることで地域の安定化を図るほか、中国の影響を受けるバングラデシュを日印の側につなぎ留めたい思惑もある。
また、日印が北東部の開発に力を入れるのは、安全保障上の要衝であることも大きい。周辺地域への影響力を増す中国を封じ込める狙いもある。アルナーチャル・プラデーシュ州の一部は中国との係争地となっており、また、同州とナガランド州、マニプール州、ミゾラム州の4州は国境付近で少数民族と国軍が内戦状態となっているミャンマーとも全長1643kmにもわたって接している。中国政府は中国と国境を接するミャンマー国内の少数民族を支援しているといわれているが、国境を越えてミャンマーと繋がりのある民族が暮らすインド北東部にも間接的に影響を及ぼしている。
インドとミャンマー両政府は長らく現地の人々が貿易や親族を訪問するためにビザなしに国境を自由に行き来することを認めてきた。そして、2018年には、「アクト・イースト政策」の一環として、自由移動制度(FMR)を正式に決定した。インド国民またはミャンマー国民で国境の両側16km以内の地域に居住するすべての山岳民族は、1年間有効の国境パスで国境を越えることができ、1回の訪問につき最大2週間滞在できる。しかし、インド政府は、2024年1月2日、同制度を撤回し、それらの地域にフェンスを設置、先進的なスマートフェンシングシステムを設ける意向を示した。インド政府は、開放された国境が域内の暴力をあおる「不法移民」の侵入を許しているとの認識を示し、移民が麻薬や武器を密輸し、民族融和を乱していると主張している。
(2)旅程
今回の旅程は14日間という日数の制約もあり、移動のしやすさ、食文化などの関心領域などからナガランド州、マニプール州、アッサム州の三州の主要都市とその周辺を廻った。デリーIN⇒(空路)ディマプル⇒コヒマ⇒インパール⇒(空路)グワハティ⇒デリーOUTとなる。
北東インドと旅程(出典:Wikipedia)
2.ナガランド州
(1)基礎情報
(2)ナガランド州と周辺地域の地図情報(出典:GoogleMap)
(3)ナガランド州概要
①ナガの人々
ナガランド州は、アルナーチャル・プラデーシュ州に次いでインドの東端に位置し、ミャンマーと国境を接している。「ナガランド」とは、「ナガ」の土地という意味で、この「ナガ」とは部族集団を指す。
「ナガ」という呼称は特定の民族を指すような明確なものではなく、いくつもの部族から構成されている。地理的には、インド北東部、ミャンマー国境上に沿うナガ丘陵一帯に暮らすモンゴロイド系の民族を指す。「ナガランド州」という行政区分を超えて、隣接するマニプール州などインド各州や国境を越えてミャンマー領(ザガイン地方域ナガ自治区)にも分布する。なお、ナガランド州の面積は16,579㎢で、日本で二番目に大きな都道府県の岩手県(15,279㎢)より1割近く大きい。
この地域には多数の少数民族が居住しており、かつて付近のアッサム一帯の統治者となったイギリスが便宜上分類するための呼称として、この地域に住む各少数民族の総称としたのが「ナガ族」である。ナガの人々は当時自らを「ナガ」と呼ぶことはなかったが、現在では一般的なものとなっている。人口は約200万人程度とされる。ちなみに「ナガ」とは、諸説あるがこれらの部族がつける耳飾りの名称に由来するといわれる。なお、発音は似ているものの、インド神話に起源を持ち、南・東南アジアでよく知られる蛇の精霊あるいは蛇神「ナーガ」とは無関係である。
②言語
彼らはチベット・ビルマ語派系の言語を話すが、各部族間の言語の相違は大きく、それが各部族の独自性を強く残す原因となっている。各部族の言語以外に、ナガミーズ(ナガ語:英国が統治時代に拠点があったアッサム語をベースに標準語として広めた)、英語が一般に普及している。英語は学校教育や公的な場で使用されており、英語によって学校教育を受けているため老若男女普通に話すことができるとのこと。いわゆるインド英語のような聞き取りにくい巻き舌ではなく、ボソボソ話す感じで、これはこれで聞き取りにくかった。また、街中の看板や掲示、レストランのメニュー、バスターミルの案内など、全て英語表示であった。なお、日帰りで遠出した際に同行したガイドが言うには、ナガミーズは非公式な場で他部族と話すのに使われており、例えば他部族の友人知人とおしゃべりしたりする際に使用しているそうだ。しかし、宿のオーナーや街の人の会話に聞き耳を立ててみると、日常会話は英語とナガミーズが混在している印象であった。挨拶や御礼など会話の所々で英語を使っていた。また、主要公用語であるヒンディー語もテレビや映画などを通して普及していて、地元の人も理解できるとのことであった。
③宗教
宗教的には元来アニミズムであったが、19世紀に米国人キリスト教団の積極的な布教活動(イギリス東インド会社は反発を招きかねない布教より経済活動を優先した)により現在は大半がキリスト教プロテスタントの一教派バプテストに改宗し、信仰している。ナガランド州は「世界で唯一のバプテスト教会が多数派の州」「世界で最もバプテストが多い州」として知られる。州人口の約90%がキリスト教徒で、残る10%はヒンドゥー教徒やイスラム教徒などであるが、これらの人々はインド本土からの移住者であり、インド本土との玄関口である最大都市ディマプル近辺に偏在している。多くの人々は熱心なキリスト教徒で、日曜日は安息日として商店や飲食店のほとんどは閉店(バスターミナルおよび公共バスも休業していたのには閉口した)、人々は礼拝のため教会に集う。特に州都コヒマは大小様々な教会が各地で見られ、日曜は礼拝のため周辺各地から正装で着飾った人々が集結し、街中が何かのお祭りのような混み具合であった。
写真:コヒマの教会
写真:コヒマの教会
写真:コヒマのカトリック大聖堂。ナガの伝統家屋の様式を取り入れた珍しい建物。
写真:コヒマのカトリック大聖堂内部
④歴史
歴史的にナガの人々は、山岳・丘陵地帯に居住していたこともあり、近隣の歴代王朝とは支配関係になかった。インドを植民地化し、アッサムに拠点を置いたイギリスは一部地域を支配下に置いたが、ナガ部族からの襲撃に対して防衛に腐心、警戒しつつも不干渉の政策をとった。その後、第二次大戦ではインパール作戦における日英激戦の舞台となった。イスラム国家のパキスタンとインド連邦の分離独立と同時期、キリスト教徒であるナガの人々の間でも民族主義的な独立運動が高まりインド独立前夜の1947年8月14日に自ら独立を宣言したものの認められず、その後もナガランドはアッサム州の一部のままとなった。インドからの独立運動は続いているが、インド政府は大量の軍・警察を派遣し徹底的な弾圧を行ってきた。その犠牲者は20万人を超えるともいわれている。近年インド側では情勢が落ち着いてきているが、国境を越えたビルマ領サガイン管区に広がるナガの居住地では、近年ミャンマー国軍との紛争が激化している。
⑤文化
ナガの文化で特徴的なものとしてよく知られているのは、「首狩り」と「犬肉食」である。「辺境の地」にいる上に、こうした独自の文化によって、ナガの人々はインドでは「野蛮」であると偏見を抱かれることも多い。首狩りは、ナガ全ての部族で行われてきた。英領時代に一時期禁止にされ、キリスト教布教によって収束したものの、第二次大戦後しばらくまで続いた。
ナガの各部族ではそれぞれの独自性と表裏一体となるものとして部族間での紛争が絶えなかった。彼らは外敵から身を守るために見晴らしが良い山頂や尾根に集中して住居を構え村落を作った。砦を作り、周囲に石積みの塀と門を作って村落を守った。要塞化した村落の下に棚田や段々畑が拡がっている。
ナガの成人男性は敵対する村を襲撃し、首を狩って持ち帰り、自宅に並べて飾る風習があった。首を狩った男性は一人前の成人として認められ、それができないものは結婚が許されなかった。狩った首の数によりその強さを誇示した。
写真:コノーマ村の砦
写真:コノーマ村と棚田。家屋が見晴らしの良い尾根に密集し、その下方周辺に棚田が拡がる。
⑥食
ナガは山岳・丘陵地帯に住み、元来、農耕や牧畜に不利な土地柄だったことから、食材に禁忌がなく、可能なものは何でも食用とする。山や森では野生生物を狩猟によって捕獲し、果実や種子、山菜やキノコ、昆虫などを採集し、村落では家畜や家禽を飼育し、田畑で農耕を行うなど様々な手段で食材を調達する。市場では、牛、豚、鶏、家禽、野鳥、山羊、犬、鹿、鼠、魚介類、蛙、昆虫など様々な蛋白源、我々にも馴染み深い野菜・果物類から山菜、キノコなど様々な食材を目にすることができる。
なお、肉食が一般的で、インドで多く見られるベジタリアンはごく少数派である。食用肉は圧倒的に豚肉が多く、生肉や乾燥肉を煮込んで食すことが多い。他には牛肉、犬肉、鶏肉が同程度に食べられるようであるが、街の食堂では豚肉のみの所が多い。料理は肉類の煮込み料理をメインに副菜として茹でたり和えたりした野菜が付く。煮込み料理では肉とタケノコ(発酵、生、乾燥)、アクニ(納豆)、アニシ(ヤムイモの葉をパテにして燻製し乾燥させたもの)、ヌオシ(ヤムイモの葉を発酵させてパテにしたもの)などを組み合わせたものが多い(豚肉と発酵タケノコの煮込など)。
スパイスは主に唐辛子、花椒などを使用しており、特に肉の煮込み料理は激辛だが、インド本土のように様々なスパイスやハーブによる複雑な風味ではなくシンプルに辛い。スパイス類は少ない一方で、唐辛子の辛味に、肉や干し魚、納豆や漬物の発酵の旨味が加わった風味のものが多かった。なお、かつて世界一辛い唐辛子として知られたブート・ジョロキアはこの地域含む北東インドおよびバングラデシュ産の品種であり、市場でよく目にすることができる。
写真: ブート・ジョロキア
写真:巨大なスズメバチの巣。幼虫を食すが、時々羽化した成虫が出てきて危険。
写真:ハツカネズミ。他にはモルモットのようなネズミも売られていた。
写真:イモムシ。昆虫は野菜と一緒に売られている。
写真:キノコ類など。右にある葉っぱに包まれたものはアクニ(納豆)かヌオシ(ヤムイモの葉を発酵させてパテにしたもの)のどちらかだと思われる。
写真:野菜売り。カリフラワーやトマト、ナス、インゲン豆など我々が普段食べる野菜も多い。
写真:豚肉売り。肉は豚肉や鶏肉、犬肉など種類ごとに店舗が異なる。
写真:鶏肉売り。鶏はどこの店も生きたまま売られている。もはやここで養鶏している雰囲気。
写真:米屋。米は長粒・短粒、うるち米・もち米、白米・黒米・赤米と様々なものが売られている。
食材の多くは東南アジアの山岳地域でもよく目にするものが多いものであるが、この地域特有の特徴的な食材は犬肉である。近年では批判的な動きもあり、目立つものではないが、市場では犬肉を目にし、庶民的な一部の食堂では犬肉料理を食べることができる。滞在中何人かに犬肉について尋ねたが、犬肉はやや高価で、臭みがあって苦手、わざわざ食べることはないという人も多いようだ。女性や子どもは動物愛護の観点からも食べない人も多いとのこと。中国や朝鮮半島と同じく精力剤的な用途で男性に食されることもあるようだ。
また、米は、インディカ種のバスマティライスやタイ米ともジャポニカ種の日本米などとも異なる雰囲気で、大きくてもっさりしている食感であった。カレーなど汁物によく合う。もち米も食するとのことだが、市場では見かけたものの食堂で目にすることはなかった。
なお、前述のように市場ではハチの子や芋虫などの昆虫やネズミなどの野生生物も見かけるが、宿泊した宿のオーナーがいうには、これらは高価で日常的に食べられるものではなく、お祭りや親戚一同の集まりなどで提供される特別な食材とのことであった。レストランなど飲食店で提供されるものでもないとのことだった。なお、オーナー氏は、ハチの子料理を特別に手配してあげようかと提案してくれたが、数匹試食できれば結構という私に、わざわざ手配する高価なものなので、それなりの量でないと難しいとのことで話は終わったのだが、貴重な機会だったので頼めばよかったと帰国後今更ながら後悔した。
また、飲料については、喫茶はインドで多く飲まれるチャイではなく、緑茶が主流である。また、アルコール類は法律で禁じられており、商店やレストランで目にすることはないが、民家では米を原料とする自家醸造の酒がつくられている。酒造法としては主に米粉を練ってカビを生やした米麹を用いる方法と稻籾(たねもみ)のモヤシからつくる稲芽酒=ライスビール(発泡したどぶろく、名称ズトー)の二つががある。後者は大麦を使ったビールづくりに似ており、世界の他の地域ではほとんど見られないユニークなものらしい。アルコール類が禁止されている分、ソフトドリンクは種類が豊富だった。多くの商店では国内ブランドが多く(コカ・コーラは一部大規模店のみ)、特に国内外のエナジードリンク類が多く見られた。また、一部大規模店では様々なノンアルコール飲料、例えばバドワイザーのノンアルビール、ノンアル発泡ワイン、ノンアルカクテル(モヒートなど)も見られた。
写真:ベーカリーと看板を掲げたコヒマ随一のソフトドリンク屋
写真:ノンアルコールスパークリングワインも豊富
写真:ノンアルコールビール(バドワイザー青リンゴ味)
写真:エナジードリンク(下段)は国内外ブランドの様々なものが売られている。日本でも人気のモンスターも種類が豊富。
写真:左はリフレッシングソフトドリンク(エナジードリンク)の「LIFT UP」(サウジアラビア製)、右はバニラコーク(マレーシア製)。どちらも輸入品だからか1本150ルピー(270円)もした。バニラコークは薄味のコーラにバニラ風味、隠し味にドクターペッパーみたいなケミカルな風味をプラス。LIFT UPは朝鮮人参とガラナ風味をつけたエナジードリンク。どちらもプルタブが昔懐かしい分離型だった。
写真:ノンアルカクテル(ミントモヒート)。味はアルコールが入っていないモヒートそのまま。酒飲みとしては禁酒なのは残念だが、ソフトドリンクは種類が多く、いろいろ試してみるのは面白い。
⑦産業
産業は、農業(米、野菜)、林業が州内総生産の大部分を占め、あとは鉱業(石炭、石灰岩、鉄、ニッケル、コバルト、クロム、大理石など)も盛んである。就労状況は、農村エリアでは政府からの補助金で現金収入を得つつ、農業で暮らしている人が多い。ただし、州都コヒマについては、ガイドが言うには州政府の官公庁など行政機関や大学など教育機関が集中しており、コヒマ市住民の多くは公的な職業に就いていることが多いとのことであった。また、コヒマは教育機関が多いことから、街中では若者が多く見られた。
⑧観光業
ナガランドの観光開発はまだ途上であり、ターゲットは外国人ではなくインド他地域からの旅行者が中心である。実際、ナガランド滞在中の6日間で外国人旅行者を見かけたのは1組のみ、日本人は見かけなかった(ちなみに他の2州でもゼロ)。私が泊まった宿の宿泊客名簿を見てみたが、過去数か月30人ほどの宿泊客うち外国人は私含め3人ほどであった(他の1人はスペイン人、もう1人は字が汚く国名不明)。宿のオーナーに日本人宿泊客が来ることはあるのか聞いたところ、たまにいるとのことであった。ただし、観光客ではなく調査に来た研究者とのこと。なお、今回の宿は個室ホットシャワートイレ付きで1泊Rs1500(1ルピー=1.8円)、2段ベッド4人同室のドミトリーがRs5-600程度の中級宿で、インドの辺境を旅するようなバックパッカーはもっと安い宿に泊まると思われるため、日本人旅行者はたまたま出会わなかっただけの可能性もある。
ナガランドの主な観光資源は各部族の伝統文化と風光明媚な山岳地帯(ハイキングやキャンピングなど)である。ナガランドの観光資源はユニークでポテンシャルはあると思われるが、これまでインド政府は、独立運動を抑え込むため、外国人はもちろんインド人のナガランドへの入域を制限し、人の移動とともに情報も封鎖してきた。州政府に観光局が置かれたのは1981年であったが、当初は州外部からの入域制限があり芳しいものではなかった。入域制限が一部緩和された2000年にようやく旅行業や交通、設備など観光関連の法整備が行われ、翌2001年には官民レベルで「ナガランド・ツーリズム・ヴィジョン」が立案され、観光振興への準備が進められた。外国人旅行者はその後も入域が制限されていたが、2010年1月より事前の入域許可を取得する必要がなくなった(入域後の届け出は必要)。その後、コロナ禍もあって、旅行代理店やホテルなどの観光業の振興はまだ盛り上がっておらず、今回の旅でも観光開発は進んでいないように見受けられた。こうした状況ではあるが、2000年から毎年、州政府主導で開催されているイベント「ホーンビル・フェスティバル」は好評である。
ナガランドを代表する鳥サイチョウの名を冠したこの祭りは、12月上旬に10日間、コヒマ郊外で開催される。失われてゆく伝統や風習、文化の保存を目的としたもので、ナガランド各地から16の主要部族等が参加する。それぞれの衣装を身にまとった舞踊や音楽など伝統文化がステージで披露され、地元アーティストが出演するロックフェスティバル、弓矢やレスリングなど様々な競技での部族対抗運動会など各種イベントが開催される。また、屋台では食べ物や地酒が振舞われ、手工芸品などお土産物を購入することができる。このイベントは文化保護やエスニックツーリズム的な観光振興に加えて、歴史的経緯もあってバラバラの部族を統合し「ナガ族」という共同体への所属意識、一体感を醸成することも目的としているように思われた。
テーマパーク的なイベントではあるが、広大なナガランド中の主要部族が一カ所に集い、各部族の伝統衣装や文化を一度に楽しむことができるこの祭りは大変貴重である。当初はこの祭りのタイミングでの旅行を検討したが、もともと数が少ない宿、高級ホテルから安宿、民泊までどこも満室で個人旅行者には確保することは困難であった。なお、集結する各部族の人々や旅行者向けにキャンプ場でのテント泊も可能らしい。以前は辺境に特化した日本の旅行代理店でもこの祭りを目的としたツアーを催行していたが、現在コロナ禍で中断している。当初、このツアーも検討していたため、旅行会社に問い合わせたのだが、需要はあるので、情勢が落ち着き次第再開したいとのことであった。
写真:ホーンビル・フェスティバルの光景(出典:公式サイト、公式Facebookより)
<参考>
ナガランド州観光局 https://tourism.nagaland.gov.in/
ホーンビル・フェスティバル公式サイト https://www.hornbillfestival.com/
⑨自然環境
また、自然環境関連についても触れたい。この地域は雨季と乾季に分かれている。滞在した州都コヒマについては、緯度は北緯25度で沖縄の宮古島と同じ程度。標高1500mの高地につき日差しは強い。過去の記録によると、滞在した11月の1日の平均気温は最高25度、最低12度程度。日中は、強い日差しで半袖でも汗ばむほどだが、日陰はひんやり冷えていて肌寒く感じる。日向でかいた汗が日陰で体を冷やし体調が悪くなりそうだった。人々の服装については、男性は長袖シャツ、女性は長袖セーターが多かった、人によっては半袖Tシャツもいれば、ブルゾン、薄手のダウンジャケットの人もいた。一方で夜間は12度程度なので結構寒い。薄手のフリースを着てもいいほどだった。
日照時間について、インドは東西の距離があるわりには標準時が1つだけのため、東端のナガランドは時計の針が早すぎて不思議な感覚に襲われた。しかも、日没は高い山の向こう側のため、体感では日没時間より早く夕方が訪れたように感じた。11月上旬のこの時期は、日の出が5:30、日没が16:30だったが、14時台から夕方の気配が漂い始めて15時を過ぎると夕方、17時くらいには既に夜。しかも街灯が少なく幹線道路も暗め、住宅地エリアは停電が多く真っ暗なことも多かった。レストランや商店は20時頃には既に多くが閉店、街は深夜の様相となった。コヒマの街は教育機関が多く、夕方には下校中の学生が多くみられた。ガイドに聞いたところ、学校はインド本土と同様に8時頃から15時頃までとのことで、冬季は終業して帰路に着く頃には外は真っ暗になるとのこと。明かりに乏しく道は悪く、中高生は遠くから公共交通機関で通っている生徒も多いと思われるが、子供たちは通学するのも一苦労だと感じた。
⑩その他
その他、現地の生活文化について。スマートフォンはやはり必需品で、ビジネスマンやホワイトカラー層だけでなく、市場の人々や幼さが残る宿の従業員、農村の人も普通に使用しているほど広く普及している印象を受けた。街中では手持無沙汰な人々はみなスマホを弄っていた。なお、その多くはiPhoneではなくAndroidが多い印象。食堂や街中でもテレビを見ている人は見かけなかった。
服装はときおり派手な若者を見かけるものの総じて地味な印象。日曜日の礼拝はまるで結婚式の参列者のように老若男女着飾っていた。旧知の友とのおしゃべりに盛り上がっている若者達を見ていると、礼拝が出会いの場にもなっているように思われた。結婚適齢期は、ガイドが言うには、男性は25から28歳程度、女性はそれより少し若いとのこと。それを超えての中年独身の人も結構いるような印象であった。出会った人々も、ごく少ないサンプルであるが、20代半ばの男性ガイド兼運転手2名、村落の住宅で営業しているモグリ飲み屋で一緒に飲んでインスタを交換した43歳男性、宿のオーナー家族でいろいろお世話になった女性(恐らくアラサー世代)もみな独身であった。