北東インド旅行記 ~「辺境」の地を訪ねて~ 第3回 ナガランド編(3)(中園琢也さん)

北東インド旅行記 ~「辺境」の地を訪ねて~ (中園琢也さん)
第3回 ナガランド編(3)

中園琢也:
都内在住の一般企業勤務。学生時代よりアジア各地を旅行。旅先での関心領域は食文化を中心とした生活文化全般、ポップカルチャー、釣りなど。

1.はじめに
(1)北東インド7姉妹州(セブンシスターズ)
(2)旅程

2.ナガランド州
(1)基礎情報
(2)ナガランド州と周辺地域の地図情報
(3)ナガランド州概要 ①ナガの人々 ②言語 
③宗教 ④歴史 ⑤文化 ⑥食 ⑦産業 ⑧観光業 ⑨自然環境 ⑩その他
(4)ナガランドの玄関口 ディマプル
(5)コヒマへの移動
(6)コヒマの宿
(7)戦跡 ①インパール作戦 ②コヒマの戦い

(5)コヒマへの移動
旅行3日目、いよいよ旅の目的地のひとつ、ナガランド州の州都コヒマへの移動。前日バスターミルで確認したところコヒマ行きのバスは第一便が6時発だったため、席を確保するために5時半到着するべく早起きして出発。ディマプルはさすが玄関口だけあって、バスターミナルは大きく、大型バス十数台は入るキャパシティ(サッカーグラウンド程度の広さ)。ここを起点に岩手県より一回り大きなナガランド州内全域に長距離バス網を張り巡らしている。速足でバスターミナルに向かったところ、昨日は混雑していたターミナルが閑散としていた。怪訝に思って近づくと入り口の門が閉まっており、休業となっていた。ナガランド州は、住民の9割がキリスト教徒、しかも厳格なバプテストが多く、日曜は安息日として商店などは休業、教会に礼拝に行く人が多いとは聞いていたが、まさか公共交通機関である長距離バスまで休業するとは・・・。

 バスターミナル前で途方に暮れていると、目の前の男性が連れて行ってやるとのこと。四駆の立派な車だったので、個人手配のチャーター便かと思い、「でも高いんでしょ?」と尋ねると330ルピーでいいとのこと(結局、宿の最寄りに下ろしてもらい70ルピー追加となったが)。バスの3倍の運賃とはいえ日本円で600円程度。あまりの安さにビックリして再度尋ねると、どうやら乗合タクシーとのことだった。助手席を詰めてもらい、前列3人、中列と後列4人ずつの11人で早速6時前に出発。

事前にネットで調べた最新の旅行者情報がコロナ禍前、既に4、5年前のものであったのだが、当時は未舗装の悪路を休み休み移動して75kmの道筋をバスで4、5時間かけて到着したとのことだった。しかし、この数年で開発が進んだようで、完全舗装済の道路を車はノンストップ猛スピードでかっ飛ばし、道中、いくつもの山を越え、山肌を走る車がカーブを曲がると、コヒマの街が突然現れた。コヒマまでの移動時間は2時間弱と想定より早く、午前8時過ぎには到着することができた。

州都コヒマは、人口約7.9万人とディマプルの2/3程度。標高1400mの山間部に位置している割には、州都だけに結構大きな街で、幹線道路沿いを中心に建物が山肌に貼り付くように成り立っていた。建物の間から突き出るように林立するいくつもの教会が、なんだか不思議な雰囲気であった。街のど真ん中のロータリー前で下車。宿はすぐそば。コヒマには4泊5日滞在予定。

ちなみに今回通ったディマプルからコヒマ経由でインパールに至る幹線道路、国道39号線であるが、ここからミャンマーまでの道は、インパール作戦における退却路、戦死者と同等かそれより多い3万から5万人の日本兵が病気と飢えで亡くなったため「白骨街道」と呼ばれている。

写真:バスターミナル前で客待ちをしている乗合タクシー。屋根の上に立って荷物を乗せている男性が運転手、手前の男性が声をかけてきた。
写真: ディマプル郊外、山岳エリアに向かうタクシー。コヒマまで75kmの道のり。アジアハイウェイ1号線の一部であるこの道は、コヒマを経由してインパールに向かう。

写真:コヒマの中心地、オキング病院前Y字路のロータリー。幹線道路は一本なので、一日中車の往来が盛ん。

(6)コヒマの宿
コヒマの宿は市街地ど真ん中、幹線道路から数十m奥まった静かな路地に面し最高の立地。簡素だが清潔な部屋にぬるく水量は少ないながらもホットシャワー、トイレ付き。しかし、毎日頻繁に停電が発生し、宿は自家発電の電灯がつくものの、給湯器が機能せず、しばしば水シャワーを浴びる羽目になった。緯度は北緯25度で沖縄くらいの位置にあるものの標高1400mほどなので東京と大差ない気温だった(調べたら12度だった)。結構寒いのに水シャワー。しかも停電時はスマホやモバイルバッテリー、デジカメは充電できず。宿の責任の範囲ではないが、結構不便だった。とはいえ、それ以外は満足度も高く、1泊1500ルピー(2700円)もしたが、決して高くはないと思った。

コヒマの街は、ホテルなど宿泊施設が少なく、ホテル予約サイトやAirbnbなど民泊サイトに登録されている宿も数が限られている上に、街外れで足が無いなど好立地なものが少ない。旅行数か月前からGoogle Mapで街の中心地でアクセス良好な宿を1つ1つ見つけては調べることを繰り返していたところ、ナガランドの観光産業を再定義し農村観光を推進しようとしている社会起業家の方のWebサイトに辿り着いた。このサイトによると彼女は妹と共に実家の建物を改装した宿泊施設を運営しているとのこと。姉は離れて暮らし、今は妹が管理運営を行っている。お問い合わせ先アドレスから、妹とメールで何度かやり取りし、この宿を確保することができた。また、近隣の村々への日帰り旅行の手配、ズトーと呼ばれる「どぶろく」(ライスビール)が飲むための手配、バスが運行中止となっているインパールへの移動手段など、旅行前も滞在中も連日相談し、大変お世話になった。

写真:宿の前の路地。幹線道路を下ってすぐ。

 写真:宿の玄関。入口階段上った2階が宿。

写真:宿の廊下。二段ベッドのドミトリータイプと個室タイプがある。
写真:今回泊まった部屋。オーナー(姉)の元居室をそのまま利用。キャビネットには家族写真や置物、バッグなどがそのまま残されており、僅かながら生活感が漂っていた。1泊1500ルピー(2700円)

写真:キャビネットにあった写真立て。オーナー(姉)氏の若かりし頃の写真。残念ながら現在は離れて暮らしているため、お会いするとはできなかった。同じモンゴロイドだけに日本人そっくりな容姿。

写真:部屋付きのバルコニー。

写真:部屋付きのシャワールーム。20Lほどの貯水量の電熱式給湯器。電源をオンにして30分ほど待つと熱湯になり、お湯と水を程よく調整して利用する。毎晩、頻繁に停電で加熱不可となった。

 写真:宿のロビー兼食堂。4泊5日の滞在中、宿泊客は3回ほどしか出会わなかった。

 写真:宿のキッチン。

 写真:早朝5時過ぎ、宿のバルコニーから日の出を眺めた。コヒマの街が一望できる。

 写真:朝7時過ぎの宿のバルコニー。眺望が好きすぎて、毎日何度も景色を眺めた。

写真:宿のバルコニーからの夜景。たくさんの明かりが灯るのを目にすると、山の中だが都市である実感がわく。

宿では、毎朝、ジャガイモと野菜(写真はズッキーニ?)をスパイスで炒めたものとチャパティ、チャイが朝食として提供された。簡素だが出来立てで美味しかった。

写真:朝食セット一式

 写真:ジャガイモと野菜のスパイス炒め。カレー風味。写真の時はズッキーニを使用。

 写真:チャパティは保温器で常に温かい状態で提供される。

 写真:朝食を準備する従業員の子。

宿のオーナー妹氏に、街中に伝統的なナガ料理が食べられるレストランが見当たらないので教えてほしいと尋ねたところ、うちの宿で夕食にナガ料理を作ってあげるよと言われ、宿のオーナーと従業員の子が作ってくれた。従業員の子は、丁稚奉公みたいな感じでまだ幼いながら(日本人でいうと、小学生高学年から中1くらいに見える)、テキパキと掃除など雑用全般やっていて、料理も上手で凄い。

 夕食は、豚肉とアクネ(納豆)の煮込、豚肉とアニシ(ヤムイモの葉を発酵させてペーストにして燻製にしたもの)の煮込、ダル(豆カレー)、チャツネ(唐辛子とトマトの和え物)、茹でたオクラ(原産地アフリカの名称に由来するが、インドでもオクラという呼び名だった)。

 写真:ナガ料理のターリー(定食)

 写真:豚肉とアクネ(納豆)の煮込

写真:豚肉とアニシ(ヤムイモの葉を発酵させてペーストにして燻製にしたもの)の煮込。

 写真:赤米と白米

 写真:トマトチャツネ(唐辛子とトマトの和え物)

 写真:定番のダル(豆カレー)

 写真:茹でたオクラ。塩と油をまぶしていて、なかなか美味しかった。ナガランドでは茹でた野菜が常に付くが、辛い料理の箸休めにちょうどいい。

(7)戦跡
①インパール作戦
日本では、ナガランドはあまり知られていないが、州都コヒマは第二次世界大戦におけるインパール作戦の激戦地の舞台として知られている。

 インパール作戦では、在印英国軍の主要拠点であるインパール(現・マニプール州州都)を攻略することで、日本の影響下にあったビルマを防衛し、中国への援蔣ルートを遮断するといった軍事的目的に加えて、インドの独立運動を誘発し植民地支配体制に打撃を与えるという政治的目的もあった。

 この戦いでは、インドの人々も、英領インド帝国の軍人と日本の支援で設けられたインド国民軍(INA)の両方に分かれて戦い、また、現地ナガを含むインドとビルマにまたがる少数民族の人々も戦争に巻き込まれることとなった。

 コヒマは在印英国軍の主要拠点であったインパールの東方60㎞に位置し、東インドの補給基地であるディマプルとインパールを唯一結ぶ幹線上にあった。ディマプルは、現バングラデシュ含むインド各地と繋ぐベンガル・アッサム鉄道とコヒマ経由でインパールまでを結ぶ道路の結節点で、補給物資の集積所になっていた。インド・ビルマ国境付近のイギリス軍のみならず、ビルマ全域の連合軍への補給拠点、中国からビルマを窺っていたアメリカ軍と中国軍の補給拠点(援蔣ルートの1つ)となっており、常に大量の補給物資が貯蔵されていた。その重要な補給拠点で交通の要衝であるディマプルと英国軍の主要拠点インパールを繋ぐ唯一の幹線上に位置するコヒマを攻略することは、日本軍にとって、インパール攻略に向けた重要な局面といえた。

ディマプルとコヒマ、インパール周辺地域の地図情報(出典:Google Map)
地形を見ると、対ビルマ前線としてインパールとディマプルがいかに重要な拠点だったかが分かる。

②コヒマの戦い
インパールと同時にコヒマにも進撃した日本軍のうち、佐藤幸徳陸軍中将率いる第31師団はコヒマを制圧した。

 英国軍は、コヒマ南方の高台に円周陣地を築き、何重もの塹壕や鉄条網を張り巡らし、多数の戦車や大砲、機関銃を配置した。日本軍は陣地を包囲し攻撃した。英国軍は空中補給で食料や武器、弾薬の補給を受けたのに対して、ビルマから徒歩で険しい山脈とジャングルを何百キロも超えてきた日本軍は大砲などの重火器はほとんど持っておらず、小銃と手りゅう弾だけで陣地への突撃を繰り返した。

 中でも、「ギャリソン・ヒル」という丘を巡る2か月半の戦いは苛烈を極めた。この戦いは英国では「東のスターリングラード」と呼ばれ、英国国立陸軍博物館は英国最大の戦いとしている。この丘には、インド省副長官の宿舎とテニスコートがあり、両軍はテニスコートを挟みボールの代わりに銃弾と手りゅう弾の応酬を繰り広げた。この戦いは「テニスコートの戦い」(日本名「コヒマ三叉路高地の戦い」)という名で知られている。この激戦地の斜面には、現在、戦死したイギリス連邦出身をはじめとした連合軍各国兵士の大きな墓地がある。

 その後、ディマプル侵攻を最も恐れた連合軍の猛反攻が始まった。さらには連合軍の強力な反撃でインパールを包囲していた日本軍が瓦解したため、コヒマでの攻防を指揮していた佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退した。このインパール作戦の失敗が東南アジア戦線の転換点となった。なお、インパールからコヒマに至る国道39号線(現在のアジアハイウェイ1号線)からミャンマーまでの退却路では、戦死者3万人と同等かはるかに多い3万から5万もの日本兵が病気と飢えで亡くなったため、「白骨街道」と呼ばれている。インパール作戦はその経緯や破滅的な結果によって、日本軍における「史上最悪の作戦」と評されている。

今回の旅では、コヒマとインパールの戦跡を訪れることも目的の一つで、宿から徒歩8分程度の距離だったため、コヒマに到着後すぐ戦争墓地を訪れた。

コヒマの戦争墓地は、英国軍で戦死した兵士を埋葬している。運営は英連邦戦争墓地委員会(Commonwealth War Graves:第一次大戦、第二次大戦においてイギリス連邦加盟国の軍役に就いた戦死者の墓地および記念碑に関する記録および管理を目的に、イギリス、インド、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカの6か国で構成される政府間組織)により管理されており、戦後80年ほど経った今でも芝生は刈られ綺麗に整備されていた。同委員会によると、英連邦の埋葬者1420人の墓標、法に従って火葬された917人のヒンズー教徒とシーク教徒の兵士の記念碑があるとされる。各墓標には、氏名、生年月日、戦死日、国籍、所属、階級、宗教などが刻まれていた。

写真:コモンウェルス戦争墓地委員会*によるコヒマ戦争墓地の看板

 写真:英国軍に従事した兵士の墓標。

写真:テニスコート跡に建つ十字架。コンクリートでコートのラインが引かれている。

 写真:一番高いところにある記念碑。墓標の代わりとして、英領インド軍に従軍し死亡したヒンズー教徒、シーク教徒の兵士の名前を記している。

 写真:墓地からの眺め。コヒマの街が一望できる。

 写真:墓地から800mほど南下したところ英国軍の戦車(M3中戦車)が残されていた。

写真:雨ざらしで80年間も放置されてきたが、将来的には建設中の建屋の中に保管されるようだ。

写真:観光客らしき若者たちを記念撮影

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