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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第15回「消え去った世界」あるシャン藩王女の個人史(ネル・アダムズ 著、森 博行 訳)
- 2002/8/10
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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第15回「消え去った世界」あるシャン藩王女の個人史(ネル・アダムズ 著、森 博行 訳)
「消え去った世界」あるシャン藩王女の個人史(ネル・アダムズ 著、森 博行 訳、文芸社、2002年8月発行)
《著者プロフィール》ネル・アダムズ(シャン名:サオ・ノウ・ウゥ) 1931年、ビルマ(現ミャンマー) シャン州生まれ。父はロックソック藩ソーボワ、母はチェントゥン藩ソーボワの娘。英国チェシャー在住
《訳者プロフィール》森 博行(もり ひろゆき)1953年1月、京都市生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了 (本の紹介文より・発行当時)
本書は、ネル・アダムス(Nel Adams)著の原著『My Vanished World』(2000年、英国の出版社より刊行)の邦訳本。著者ネル・アダムズは現在、英国籍なるも、本書翻訳本のサブタイトルに「あるシャン藩王女の個人史」とあるように、サオ・ノウ・ウゥというシャン名を持つシャン人女性。シャン州(Shan State)州都タウンジーの町から北西に80キロほど離れたところにある町ロックソック(Lawksawk)に、シャン藩王国同盟の一つであるロックソック藩ソーボワ(世襲藩主)の娘として1931年に生まれ、ラングーン大学卒業後、1959~1960年国費留学でビルマを離れて以来、英国で1960年12月英国人と結婚もし、英国に留まって生活をしている。
英文によるシャン藩王女の自伝というと、タイ・チェンマイの出版社(Silkworm Books)からも1994年以来数版発行されてきている英文書籍『Twilight over Burma – My Life as a Shan Princess』を思い浮かべる方がおられると思う。こちらの著者inge Sargentはシャン州北西部のシボー藩(Hsipaw)ソーボワ王子に「外」から嫁いできたオーストリア人女性であるのに対し、本書はシャン人世界の内側で育ち生きてきたシャン人のシャン藩王女が著したもので、その視点やシャンを思う気持ち、本に盛り込まれた情報やその史料価値など、おのずと違うものとなるのは当然だろう。
読者に、著者の育った環境や社会を充分理解してもらうために、まず第1章で「シャン藩王国同盟、英国政府とソーボワ」(全文添付)と題し、シャン州とそこに住む人々に関する歴史や政治状況や風土について、説明がされているので、シャン(Shan)のことを知らなかった人にとっても、新たにシャンに関心を持つことができ、興味を持って本書を最後まで読み切ることができるはずだ。
原著者が、原書の草稿をある出版社の編集者に送ったところ、彼女の読後の言葉は「なんとスゴイ話じゃないですか!」だったそうだが、本訳書を読めばまさに多くの読者が同じ言葉を発することになるのではないか。ロックソック藩王の娘としてでだけでなく、著者の母はシャン州最大の藩国であるチェントゥンのソーボワの娘ということもあって、家族・親族がシャン州支配層である中、まさに内側として、それもより直接的・現場的に、数々の重大な歴史的事件が、著者とその家族・親族にどう関わってきたかが綴られている。著者が生きた1930年代初からシャン州にふりかかった激動の時代、すなわち英植民地統治の末期の英国行政官たちとシャンのソーボワ支配制度、日本軍のシャン州への進出と日本軍占領時代、連合軍の反攻から短い英国支配の復帰、1947年2月の「パンロン協定」と1948年1月のビルマの独立、希望と混乱の中での新生独立ビルマの建国時代、そして1958年の軍管理内閣と1962年のネーウィンによる国軍によるクーデターによる現在に至るビルマ軍政登場というのが、時代背景となっている。
シャン世界の政治・社会の大きな変化以外にも、著者の愛され恵まれた幸せな幼年少女時代のいろんな思い出から、修道院寄宿学校や大学時代の教師、勉学、恋などの思い出、更に「ポイ」という祭りや「水掛け祭り」「灯籠祭り」などシャンの人々の祭りの様子や、ソーボワとその一族の生活とか領民との関係などについても語られている。最後のチェントゥンのソーボワとなるサオ・ディーララージ(サオ・サイ・ロン)(別名ショーティ)は、1947年19歳で英国政府からチェントゥンのソーボワに任命され1962年までソーボワであったが、1962年他のシャンのソーボワたちと同様、1968年出獄は許されたが、チェントゥンに戻ることは許されず彼の資産はすべて差し押さえられ、1991年には僧たちやチェントゥンの住民の請願にもかかわらず、ソーボワの宮殿はミャンマー国軍によって破壊、彼自身は1997年8月ラングーンで病死している。このショーティは著者にとって母の異母兄サオ・コン・タイ2世(著者の祖父が1935年病死後チェントゥンのソーボワに就任するが、1937年10月22日暗殺される)の息子にあたる人物で、ごく身近な人物として幼少時のトランプ遊びの時のエピソードなども語られ、大変興味深い。本の後半から最終章に近づくにつれて、ソーボワ制が終焉し、著者の身近な家族・縁者の人たちのその後の人生について記されているが、多くは哀しいものだ。
本書は、シャン州のいろんな町が、ロックソック、チェントゥンはもちろん、他にも当時の町の様子や、移動の道路交通事情などを伝え登場するのも、シャン州に関心を持つ人にとってはたまらなく、当時を偲んでシャン各地を旅をしてみたくなるはずだ。更に本書は、文章内容そのものもさることながら、他にもいくつかの特筆すべき点がある。まず巻末に12頁にわたってロックソック家系やチェントゥン家系についての詳細な家系図が付いていることだ。また掲載写真も貴重で、著者の家族のいろんな写真以外に、1932年ドゥルバルの後のタウンジーにてのシャン州評議会メンバーの記念写真(ロックソック、チェントゥンのソーボワである著者の父方、母方の2人の祖父に、イギリス総督、イギリス弁務官、タウンペン、センウィ、モンミット、ヨンホェ、シポー、モンヤイ、モンナイの各ソーボワ)や、イギリス皇太子(後の国王エドワード8世)ビルマ訪問時のマンダレーでの記念写真(イギリス皇太子、イギリス総督、父方、母方の祖父であるロックソック、チェントゥンのソーボワ、長姉の嫁ぎ先であるモンヤイ、シポー、ヨンホェの各ソーボワ)が掲載されている。
このような貴重な書籍の日本語版が刊行されるというのは、大変有意義であるが、英国の地方の小さな出版社から刊行されていたその原書が邦訳発行にいたるいきさつがまた面白い。何の接点もなかった原著者と訳者が、1年前にチェンマイのビジネスホテルのロビーで会話が始まったことにあるのだが、その詳細は本書あとがきに記されている。全く不思議な縁といえるが、原書を一読しすぐに価値を見出し自らいろいろと調べ翻訳にはまり込み出版までこぎつけた訳者の熱意があればこそであろう。本書冒頭で幼き日々の思い出とシャンの地を思う著者の気持ちが表されているが、最終章の後半では、故郷シャンの地とシャンの人々が荒され抑圧されつづけている現状に強い語調で憂いの気持ちを表するとともに、軍事独裁に対し強い非難を投げかけている。
本書の目次
序
第1章 シャン藩王国同盟、英国政府とソーボワ
第2章 父母と祖父母
第3章 幼年期
第4章 ロックソック 私の町
第5章 家族の死
第6章 当時の結婚
第7章 シャン社会の生活
第8章 学校時代
第9章 日本軍による占領
第10章 脱出
第11章 驚喜と悪夢
第12章 「パンロン協定」
第13章 最も悲しい日
第14章 人生は続く
第15章 大学生活
第16章 ソーボワ制の終焉
第17章 それぞれの人生
第18章 永遠の別れ
参考文献
家系図
偶然の出会い -訳者あとがき
■著者の家族
・父 サオ・クン・サー(1895~1961)ロックソック藩ソーボワ(在位1943~1958)祖父の唯一の子供
・母 サオ・ヴェン・キャオ(1903~1947)チェントゥン藩ソーボワの娘。1947年5月1日、モンヤイで死亡
・祖父(父方)サオ・クン・スック。1863年生、ロックソック藩ソーボワ(在位1900~1943)
・祖母(父方)サオ・ナン・ミィン。祖父の3人の妻の中で最年長
・祖父(母方)サオ・コン・キャオ・インタレン。1873~1935、チェントゥン藩ソーボワ(在位1896~1935)
・祖母(母方)サオ・ウォ・ティプ
・長姉 サオ・ニュン・チー(別名アグネス)1921年生。モンヤイ藩のケンモン(ソーボワの世継)、サオ・スー・ホム(別名ハロルド)と1938年2月結婚。1963年病死。
・次姉 サオ・ホム・ノン(別名オードリィ)。サオ・セン・オン(ヨンホェ藩ソーボワの息子)と1953年結婚。1998年10月移民先のアメリカで病死
・妹 サオ・サム・ケェイオ(別名ジーン)。エドワード・ウィン・チョウ(タウンジーの中国人実業家の息子)と1954年結婚。秘密裏に国外脱出しタイ経由アメリカへ移住。
・弟 サオ・オン・カム(別名デズモンド)1994年9月死亡
・末弟 サオ・カム・サー(別名ケンリック)1979年死亡
・長姉の夫 サオ・スー・ホム(別名ハロルド)。モンヤイ藩のソーボワ。1962年、軍事評議会によって1968年まで収監される。1993年72歳で死亡
主なシャン州地名 <本書掲載>
・アウンバン(Aungban)オレンジ産地に関する話の中で
・タウンジー(Taunggyi)
・シュェニィアウン(Shwenyaung)
・カロゥ(Kalaw)姉や著者が寄宿し学んだ聖アグネス修道院学校在り。海抜1400m避暑地
・ホーポン(Hopon)
・クンヒン(Kunhing)
・タコウ(Takaw)
・モンピン (Mongping)
・モンヤイ(Mongyai)
・ラショー(Lashio)
・パンタラ(ピンディヤ)(Pangtala)数千の仏像を収める 石灰岩の洞窟で有名
・プェラ(Pwela)
・シポー(Hsipaw)
・ロイレム(Loilem)
・ナムカン(Namkhan)
・チェントゥン(Kengtung)(Chiang Tung)
・ロイモイ(チェントゥン藩にある避暑地の一つ)
シャン州以外地名 <本書掲載>
・メイミョー(Maymyo)
・マンダレー(Mandalay)
・バモー(Bhamo)
第1章 シャン藩王国同盟、英国政府とソーボワ
私は、シャン藩王国同盟、ロックソック藩ソーボワの娘である。シャン州はビルマ(現ミャンマー)の4分の1、14万平方キロの土地を占め、1962年の軍事クーデタ以前には33の藩王国があり、各藩王国(モン)は複数の町と村を従え、それぞれの藩は中心となる町の名で呼ばれた。
シャン藩王国同盟=モンタイ[Mongはタイ語Muangムアンと同義、国。Taiは自称、タイ王国のThaiターイより短い音、Thai族はTaiをタイヤイと呼ぶ。方言差の同族] ソーボワ=サオ パー[Sao Hpa、藩王。タイ語チャオファー]
ソーボワは世襲の直系男子で、33ある各藩国を統治していた。ビルマ人、そして後のイギリス人も、シャン語の称号「サオ パー」(天の支配者)を誤った発音で、ソーボワと呼んだ。1886年、英国が上ビルマに侵攻するとソーボワ達は好んで英国統治を受け容れたばかりか、そのうちの幾人かは、例えば当時ソーボワの世継ぎだった私の祖父は、最後のビルマ王達を掃討する英軍に参加した。支配が確立すると、英国政府は、人口の大部分がビルマ人である中央ビルマには直接統治を敷いたが、シャン州とその他の「山地州」、カチン、チン、カレンには自治を許した。だから、地理的にはビルマにあっても、1948年まで、シャン州は、ビルマとは政治的に独立した立場にあったのだ。
英国政府は、シャン州の州都タウンジーに置いた中央政庁(ホワイトホール[ロンドンの一画]の官庁街を小型にしたようなもの)に、英国人弁務官1名とそれを補佐する6人の地方監督官を任じた。各監督官は、中央政庁とその受け持ち地域のソーボワ達との連携を行った。弁務官の下には、森林、農業、教育、衛生、輸送、環境担当の各政務官がおり、彼等もソーボワと協働した。
各ソーボワは、1人の宰相、数人の専門大臣、1人の判官の補佐によって各自の領地を治めた。ソーボワの俸給は領地収入に一定率を乗じたものであったから、広くて豊かな領地のソーボワは、小さくて貧しい土地のソーボワより多くの俸給を得た。領地収入の約35%は中央政庁に拠出され、残りは領地の統治に用いられた。
ソーボワの支配制度は幾人かの外国人の目には封建的と映るだろうが、ソーボワとは単にその領民のリーダーなのであって、他の多くの国のリーダーと同じく、その土地の法の上位にあったわけではない。賄賂を受け取ったソーボワや、公金を不正に使用したソーボワは称号と権力を剥奪され、投獄されさえした。
シャン(Tai)人はカルマ(運命)を信じている。つまり、ソーボワとその後継者達は社会の中で特権的な地位に生まれたのであり、それゆえ王族として遇されるのである。ソーボワは領民から慕われ崇敬され、領民を導き正しい忠告を与えることを期待されていた。その正妻マハディヴィは領国の母家長、ソーボワの息子と娘は王子と王女と考えられた。最年長の息子が、ケンモン(ソーボワの世継ぎ)であった。ソーボワとシャンの人々は大きな好意と尊敬と信頼の念を互いに持ち合い、それゆえ、安定し統合された平和な社会を何十年にもわたって維持することができたのだった。
シャン同盟の33国はおよそロックソックと同様のパターンで組織され、ただ大きさと支配地域が異なるだけであった。ロックソックと同じく大小の村々を従え、それぞれはソーボワが任命する「ヘン」(村の長)によって監督されていた。中央政庁のメンバーと33人のソーボワは、シャン州全体を統治する「シャン州評議会」を構成した。評議会は全体の政策と住民の福利を討議するために、州都タウンジーで定期的に開催された。出席者の間にできあがったお互いをよく知る関係は、物事が問題なく運び、全ての関係者がその仕事を効率的に行うことを可能にしていた。当時、政治と統治は厳として男の仕事で、女は社交の機会以外は充分に遠ざけられていた。社交の機会とは、例えば「ドゥルバル」と呼ばれた年に一度の総会の後、ソーボワとその妻はより友好を深める意味で、シャン州弁務官が主催する晩餐会に招かれたものだ。
シャン州には5百万の住民がおり、大部分はシャン(Tai)人だった。この地域の12世紀以前の歴史ははっきりしないとはいえ、シャン人が初めてビルマに現れたのは紀元前1世紀、中国中央部での混乱が多くの人々を他の地域に向かわせることになった時期である。南下してビルマに入った人々は、ナムマオ河(現在のシュウェリ河)の谷に定着した。移動の第2波は6世紀に起こった。これは、セーンという雲南省からの山地民で、その一部はインドのアッサムに至り、13世紀にはアッサム地方を征し、1540年には「アホム王朝」を建てた。セーンの移住者の主力はイラワジ河の東側、シャン高原に定着したが、一部はさらにシャム(現在のタイ王国)にまで進んだ。共通のルーツを持つものの、それぞれの集団はアッサム、シャン、シャムと自称する。新しい土地で、シャン移住者は近隣の地方からの攻撃や抑圧から自由であることを知り、自らを「自由な民」と呼んで定住した。
12世紀から14世紀に、T’ai族がまた雲南省からサルウィン河に沿って南下を始め、シャン高原に定着し、更にはメナム河沿いに現在のタイ王国にまで至った。これらの人々は、シャン州ではタイ(Tai)、シャムではターイ(Thai)と称する。もとは同一の移住民だったので、両者の言語には多くの共通した単語がある。しかし、長年にわたる方言とアクセントの変化が両者の現在の違いをもたらした。シャン語では、自分たちシャン人をタイ(Tai)と呼び、その国を「シャンの国」では無くモンタイ(タイの国)と呼ぶ。何故、シャン人がシャンとタイ(Tai)という二つの呼び名を持つようになったのかは知られていない。これは、タイ王国のタイ人も同様に二つの呼び名、シャムとタイ(Thai)を持っている。ひとつの説明として、6世紀に移住した山地民セーンはシャン人の祖先で、12世紀の移住民をタイ(Tai)の祖先とすることも考えられる。もしそうなら、シャン人とは二つの移住民の混合ということになる、まるでイギリス人がローマ人とアングロサクソン人から成るように。
1962年までシャン州は、シャン人のほかに他のエスニックグループの居住地でもあった。コー、ラフ、リスはチェントゥン地区に、ワは東北部の山地、パラウン、ダウンスゥ(パオーとも言う)、パダウン、その他の小グループがシャン州内の各地、特に山地部に居住した。それぞれの集団は、固有の言語、生活習慣を持ち、それぞれが他の集団と区別できる服装をした。これらの多くの集団は、文化や言語が異なるものの、ソーボワの統治のもとで平和にそれぞれが協調して暮らしていた。この安定は、1962年、ビルマ軍の政権奪取によって打ち砕かれた。
シャン人のほとんどは、薄いクリーム色の肌で、戸外で作業するため薔薇色に染まった頬が多い。ごくわずかな人を除き、黒髪の直毛である。女性は半袖または長袖のジャケットかブラウスを纏い、そのボタンは五つで、たいてい金か宝石でできている。「シン」と呼ぶくるぶしまでの長いスカートを着け、腰に黒色の帯を巻く。「シン」は派手な色やパターン柄で、それに合わせるというか際立たせる意味で、ジャケットは白がふつうだ。公式の場では、女性は髪を丸型に結い上げ、宝石の入ったティアラやかんざしを着け、それらの飾りは、ネックレス、イヤリング、ブレスレットと合わされる。絹または精緻な織のショールを肩から腰の下まで垂らす。男性の衣装は、緩いズボン、白シャツに、ウールか綿か絹素材の淡い色のジャケットからなる。公式の場では、それに薄い色のターバンを被ることになる。
シャン人の間では、エリートと一般大衆の間に富と教育の面で大きな格差があり、ごく少数、教師、看護婦、技術者として給与を得るか、自分で事業を経営して生計を立てるほどの教育を受けるものがいたが、大衆のほとんどは農民だった。熱心な仏教徒で、もし私がシャン人の民族的特徴を尋ねられたら、わかり易い正直者の集団で、鷹揚で品が良く、柔和に話す人々と答えるはずだ。農民としての生活を受け容れていることは、向上心をそいでいた。平和な農村の暮らしは、それが実り豊かな土地でさえあれば、愉しくて満足できるものだった。不幸なことに、それを続けることは許されなかったのだ。軍事独裁者の横暴によって、農民はその豊かな土地から引き剥がされた。
遠い地平線、重なり合う丘と山並み、シャン州は美しい自然の風景に恵まれている。穏やかな気候はそこに生活し日々を過ごすのに心地よい場所で、豊富な降雨量がすべての種類の食料が育つ豊かな土地をもたらす。中でももっとも肥沃な土地は、サルウィン河とその支流の河川平野で、「シャンの米びつ」として知られた。その生産力豊かな土地によって、シャン人はつい最近まで他の開発途上国のような栄養不足や栄養不良に陥ることはなかった。チークに加え、松や竹といった軟材を含む厚い森林は、良い建材を提供する。鉱物資源の多くはまだまだ手つかずだが、それでもサファイア、ルビー、銀、亜鉛、銅などは順調に採掘されていた。