論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」(16)

論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」
第8章 ナーンの「悲劇」の背景 ー北タイ民族史 後編

(蔵屋敷滋生 くらやしき・しげお 投稿時:出版社役員,59歳、千葉県柏市在住)

ここでこれまでの話をまとめておきたい。総合すると、「タイ族」は3~7世紀ころに中国西南部から移動を開始。10世紀頃には、雲南省やベトナム、ラオス、タイ北部、ビルマ・シャン州に散らばり、根を下ろしつつあった。だが、クメール帝国(7~13世紀末)の脅威やビルマ族の台頭からタイ族共同の利益を守るために、10世紀末に巨大な部族連盟を構成していたらしい(「ヨーノック」と称した)。1180年、雲南地域にムアンルー(現在の西双版納泰族自治州景洪の古名。初代王はパヤー・チュン)が建てられ、さらにその南の雲南省瑞麗にはムアンマオが1215年に建国され、周辺の小さなムアンを束ねていた。

ムアンルーはメコン河流域に位置し、ムアンマオはイラワジ河支流のマオ川流域を拠点とした都である。

さらに11~12世紀なると中国の元、ベトナムのキン、カンボジアのクメールとインドシナ半島東部は覇権争いで喧噪を極めていた。その動きの中でメコンの谷間は死角となって一定の武力を備えたタイ族集団の南下が容易になったと想像できる。雲南省景洪を中心としたムアンルーを出発したグループはチェンセーンにたどり着き、ランナーの前身となるムアンを構成する。同グループの先発隊は11世紀末までにパヤオ、プレーに環濠城塞都市を構築していた。

それとは別のグループがいた。彼らは7世紀頃に広西壮族自治区を出、ラオス北部のルアンパバーンに8世紀頃までには到達する。そこにとどまったグルーブはランサーン王国を成立させる。さらにメコンを渡り、12世紀頃ナーン南部あるいはルーイを経由してスコータイに向かうようである。スコータイを建国したタイ族がクメールの影響を受けていた理由がここにある。彼らはクメールの支配あるいは影響力が強くあったタイ北東部、東北部を経由して中央部に進出して行ったからだ。

13世紀に入ってクメール大国は衰退する。タイ系民族の勢力強化と小国家の成立を促進させた。1238年にはタイで最初の王国スコータイが成立した。

そして12世紀末~14世紀には、タイ族の「国」ムアンルー(建国は1180年)、その西南にはムアンマオ(1215年建国)。なお、インドまで移動したアホムはムアンマオの地に止まることなくさらに西に向かったタイ族である。タイの地のメコン河流域にランナー国(建国1262年)、その南にスコータイ王国(建国1238年)、さらに小さなパヤオ(同1096年)、プレー(11世紀末)、ナーン(1282年)が成立した。そして東南にラオスのランサーン(1353年。ルアンパバーン)王国が並ぶことになった。

ここではタイ北部のタイ族の国を紹介したが、東北部、南部にもムアンは存在し、弱小ムアンは大きなムアンの庇護の元に成り立つ群雄割拠の様相を呈していたと思われる。

ランナー国のマンラーイ王は、チェンラーイ(1263年)、ウィアン・クー・カーム(1286年)、チェンマイ(1296年)の建設を経て、1292年にはモーンのハリプンチャイ王国を併合した。その結果、仏教文化を栄えさせた大勢の僧侶、多くの仏教教典がランナー国に伝えられる。マンラーイ王の母の国・シーサンパンナのルー国にもランナーの仏教文化が伝えられた。ハリプンチャイのモーン仏教文化がタイを経由して中国にも伝播したことになる。

マンラーイ王は諸国のタイ系民族支配者との親族関係をさらに深め、拡大させている。チェントンとムンナーイの王統はマンラーイの子孫によって開かれたほか、ルアンパバーンのランサーン王国とも結ばれた。この結果、ランナーとランサーンは非常に近い関係になる。ランナー国に王を擁立出来なかったとき、ランサーン王が両国を支配したと記録されている。

ナーンの勢力はナーン渓谷の上流プア(バラナガラ)にて1282年に成立する。それが伝承のムアン・カーオである。現在のナーン市街地に至るまで何回かの変遷を試みている。1368年にナーン川縁の地に至る。すでにルアンパバーンやスコータイ・シーサッチャナーライとの交渉があつた。1393年には、姻族関係にあったナーンとスコータイの王との間で軍事防衛を含む協定が結ばれている。ランサーン王国、スコータイ王国、ナーン国はかなり強い血のつながりがあったことになる。そのことは『ラームカムヘーン刻(碑)文』にも書かれている。

ランナー朝の第9代ティローカラート王(黄金時代を築いた。1442~87年)はアユタヤ王国との戦いのみならず、ランサーン王国からベトナム勢力を逐ったほか、シーサンパンナやサルウィン川以西にも遠征して多数の住民をランナー地区に連行、移住させた。ティローカラート王はプレーに続いてナーンへ軍隊を送り、両地を初めてランナー国に編入させる(1448年)。

同王がこの地域に関心を抱いたのは、相争うアユタヤ王国との地理的条件に適していることだけでなく、ナーン川支流各地に豊富に産する山塩を求めたことを『ナーン年代記』は記している。内陸において貴重な塩の産地であったことが、孤立した地勢にあるナーンをランサーン王国、スコータイ王国、シーサッチャナーライなどとの交易のルートにつなげていた。

やがてスコータイがアユタヤの1州に編入され(1438年)、一方、ナーンがランナーの一部となることにより、両者の間で隔離が生じた。ランナーの支配者はナーンの在来王系を廃するなど政治上のものにとどまらず、文化面でもスコータイの影響を払拭させるべくランナーとの一体化を進めた。タイ族の強国に支配されたナーンは、引き続きランサーンとの近接性は失われなかったという。

16世紀の前半はタイ族同士の覇権をかけた争いが活発化する。ランナーのスコータイ、アユタヤ進攻、アユタヤの反撃、アヤタヤ・シャン族連合によるランナー攻撃である。そして後半になると、同族同士の国力の削ぎ合いをみてビルマ族の侵攻が開始された。ランナー国は、ビルマのトゥングー朝に1556年征服され、1586年にはシーサンパンナもその支配下に。1661年、アユタヤはトゥングー軍を破り反攻に転じる。そしてランナーの領土を併合する。しかし、1767年再びビルマのアラウンパヤ朝によって滅亡する。

17世紀以降サルウィン河以西のタイ族諸国(シャン)は、タウングー朝ビルマ王の支配下にあって、住民の多くが王のもとに強制移住させられた後、分立状態を続けた。バインナウン王以来サルウィン河以東へも及んだビルマ王の勢威は、アナウペッ・ルン王(在位1606~28年)時代の軍事遠征により強化され、チェントン、ツェンフン、チェンマイ、ナーンなどのタイ諸国を服属させている。ナーンでは1703年のビルマ支配者の略奪が『ナーン年代記』に記載されている。

タイ族は、故郷である中国南部から千数百年に亘って南下を続け、ようやくたどり着いた「タイ」の地も安息の地ではなかった。クメール帝国に対抗するための同族連合も一旦その驚異が遠のくとタイ族間の群雄割拠の時代を迎える。新たにビルマに侵攻されても再び連合することなく、各個撃破される運命をたどる。最終的にビルマを破り覇権を握ったのはシャムのラタナコーシン朝。1782年のことである。

その中にあって弱小・ナーン国はランサーン王国と運命共同体的な立場にあったと想像される。そしてスコータイ王国の隆盛で大きな庇護が保証されたと思えたが、アユタヤの勃興によって太い絆は断ちきられ、北東タイの地に孤立する。ただ、遠隔地ということからビルマの支配が緩やかであったことで、18世紀まで続いたランサーン王国とは近接性を保ち続けたに違いない。

しかし歴史はナーンの属国化の話を物語る。ランナーの支配は1448年から始まり1599年にビルマ支配に代わる。ビルマの支配は1717年の最後のビルマ人領主赴任まで続いた。ビルマの撤退でホットする間もなく、1788年に今度はラタナコーシン朝に服属し半自治国家となる。1804年にはシーサンパンナからタイルー族の移住が開始される。

20世紀に入っても北タイの人々はバンコク周辺に住む都人から「ラオ」と呼ばれていた。新たにシャム国の州に編入される場合には州名の頭に「ラオ・・・」と冠せられた。この差別呼称が制度的に廃止されたのが1899年のことである。しかし、今日でもタイ東北部(イサーン)の人たちはラオと呼ばれる。1892年にランナー地域はシャム国に服属する。そして1932年、チェンマイは郡に昇格。ナーンは1931年には完全にシャム(1939年に国名をタイに変更)に帰属した。

今日、ナーンはユネスコの文化遺産の地として認定登録されるべく申請中だ。

参考文献

「岩波講座 東南アジア史」1、2巻 石井米雄ほか編集執筆 岩波書店 2001年刊。
「東南アジア史 そのⅠ大陸部」 石井米雄、桜井由躬雄編 山川出版社 1999年刊。
「ラオスの歴史」 上東輝夫著 同文舘 1990年刊。
「濁流と満月―タイ民族史への招待」 星野龍夫著、写真・田村仁 弘文堂 1990年刊
「タイ王国の光と影」 金子民雄著 北栄社 1997年刊。
「雲南 タイ族の世界」 古島琴子著 創土社 2001年刊。
「タイ北部―歴史と文化の源流を訪ねる」 谷克二、鷹野晃著 日経BP社 2001年刊。
「LANNA—Thailand`s Northen Kingdam」 Michael Freeman , River Books.
「A  Brief  History of  LAN NA, Second Edition」 Hans  Penth , Silkworm Books .
「Lanna Style」 Ping Amranand / William Warren, Asia Books .

以下のサイトも参考にさせていただきました。

チェンマイの廃寺を訪ねて

http://www.sawadeechao.net/watraan/volume1/haidera1.htm

魅惑のメコン圏―メコン圏を捉える視点【歴史・民族・文化】

http://www.mekong.ne.jp/principle/mekong-region.htm

ChiangMai Works タイ北部のアートとデザイン

http://www.gongdee-japan.com/chiangmaiworks.htm

関連記事

リニューアル公開への準備作業中

2023年2月下旬のリニューアル公開に向け、サイト再構成の準備作業中です。

カテゴリー

おすすめ記事

  1. メコン圏を描く海外翻訳小説 第16回「おとなしいアメリカ人」(グレアム・グリーン著、田中西二郎 訳)

    アメリカの対アジア政策を批判したものと受けとめられ世界的に話題となった、第1次インドシナ戦争中の…
  2. 馬 登雲

    2001年9月掲載 昆明の回族出身の革命活動家。1927年に共産党に入党し19歳で刑死  (191…
  3. バー・モウ

    2000年10月掲載 ビルマ民族運動の先駆的指導者で、元ビルマ国家元首 バー・モウ 1893年~…
  4. コラム(江口久雄さん)「メコン仙人たより」 第12話 「倭国の遣使」

    コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」 第12話 「倭国の遣使」 〈前漢末期、倭の百余国によ…
  5. 雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん)

    論考:雲南省・西双版納 タイ・ルー族のナーガ(龍)の”色と形” ①(岡崎信雄さん) 中国雲南省西双…
  6. 石寨山古墓群遺跡

    2002年3月掲載 雲南古代の滇王国とその青銅器文化の存在を2千年以上の時を経て実証した王墓群発見…
  7. メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」(伴野 朗 著)

    メコン圏を舞台とする小説 第1回「九頭の龍」 「九頭の龍」 著書:伴野 朗  徳間文庫、199…
  8. 調査探求記「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)

    「ひょうたん笛の”古調”を追い求めて」①(伊藤悟)第1章 雲南を離れてどれくらいたったか。…
ページ上部へ戻る