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- 「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画 」(蔵屋敷滋生), 論考論文・探求活動記
- 論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」②
論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」②
- 2001/1/25
- 「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画 」(蔵屋敷滋生), 論考論文・探求活動記
論考「遥かなるメコンを越えて ナーンの旅、そしてプーミン寺壁画」
(蔵屋敷滋生 くらやしき・しげお 投稿時:出版社役員,59歳、千葉県柏市在住)
第1章 タイ族のルーツ ①
「タイ族」がまだタイの地に到着するまえ、つまりタイに「タイ族」が住んでいなかったときには、先住民のモーン、ラワ、クメールが大輪の文化の花を咲かせていたことはご承知のとおりである。なかでもモーン(Mon。いわゆる「メオ」と呼ばれるHmongとは異なる)は紀元前からこの地に住んでいたのではないだろうか、と思っている。また、同じ南亜語系のカム、ティン、ムラブリなどの民族も、タイ族移動の前に先住していたようだ。
もともと「タイ族」はタイにはいなかったのだ。ではどこからやってきたのか?。タイ系民族は、現在の中国西南部からの移住民で何世紀にもわたる移動の過程で各地のタイ族として枝分かれし、その一部がタイの地に到達した、というのが定説なのです。しかも「タイ族」は現在でも、タイ国だけでなくインド、ビルマ、ラオス、ベトナム、そして中国の雲南省にも住んでいるという。民族のアイデンティティなどよりも融和、協調、混血などを通じて「民族のアイデンティティ」を構築してきた、超「合理的」「革新的」「融通無碍」な民族なのかも知れません。あるいは非常に忍耐強いか、逆にあきらめの早い、自己の確立の下手な、そして大昔は今日のタイ人とは違いずいぶんと健脚揃いの民族だったようだ。
「タイ族」は、タイルー、タイクーン、タイラオ(ラオ)、タイヤイ(シャン)、プータイ、タイダム(黒タイ)、タイユアン(北タイ)など「タイ」と名の付く民族だけでない。「タイ民族」は現状では52の分派が確認されている。そのほかインドのアッサム州には13世紀初~19世紀前半までの長きにわたって王国を築き、この地で栄華をきわめたアホムが住んでいるし、パーケー、アーイトーンなども「タイ系民族」としてインドに現存する。
黒タイはベトナムに多く住んでいるが、彼らは比較的早い時期に「タイ族大移動」から別れ、ベトナムに定住したとみられる。宗教も「上座仏教」ではない。同系に「赤タイ」「白タイ」と呼ばれる種族もいる。同様にラオスにとどまったのがラオと呼ばれるタイ族である。これら全ての民族は「根っこ」は同じだったのだ。
島国の日本では考えられないことだが、広い大陸では珍しいことではない。タイ国先住民のモーン(Mon)も宗教、文化で他民族と融合しながらアジア一帯に広がっている。ただ「タイ族」の地域的拡散の幅は尋常でないともいえる。それは7世紀中葉(いや3世紀という説もあるが)から始まったといわれる民族移動時間の長さ、異民族の「強国」には服従・従属し、移動先で遭遇した少数民族とは時には「武力」で排斥し、多くの場合は交流、混住、混血など融和性を重視したためとみられる。これは「タイ族」の発生起源に由来する民族性によるものではないだろうか。
だが、民族として長らえてきた最大の理由は、いつのころかは不明だが、稲作農耕民族として自らの生産手段を持っていたことではないか。私たち日本人の祖先(大陸からの渡来人)も「タイ系民族」の住む非漢民族のグループの中にいたとの想像もできる。
「タイ族」の社会発展は、焼畑耕作から水牛などを使う水田耕作に進み、勢力を強化していったものと思われる。川、湖の水辺を好み、潅漑など治水を良くしたと書かれている。移動の過程で6~13世紀のクメールに支配され、あるいは融和することで農業技術、潅漑技術、宗教を含めたさらに高度な文化を吸収し、自らを進化させたとも考えられる。「タイ族」は、どうやら千数百年の間、つまり13世紀中葉のスコータイ建国までは封建領主の支配下にあって、わが国の封建時代農民と同じ様な境遇にあったに違いない。そんな気がしてならない。