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「歴史舞台としての中国西南部・南部」第5回「呉楚七国の乱と東越(東甌)」
- 2000/7/10
- 企画特集, 関連世界への招待「中国西南部・南部の歴史舞台」
中国史と百越 (前漢時代)
呉王・劉濞が主導した諸侯王たちの前漢王朝への反乱と、 百越族国の関わり
「歴史舞台としての中国西南部・南部」
第5回「呉楚七国の乱と東越(東甌)」
積極的な対外政策で漢王朝版図を拡大するなど前漢王朝の最盛期を導いた7代皇帝・武帝(即位紀元前156年~前87年)の名は、有名であるが、それを可能にした前帝までの国力の充実という面も見逃せないであろう。その一つに、郡国制を採って来た漢王朝にとって強大な勢力をもっていた各地の諸侯王たちの力をそぎ、中央集権化を実現することになった呉楚七国の乱の平定がある。
この乱は、前漢第6代皇帝・景帝の時代の紀元前154年に起こり、この乱の主導者が、漢王朝建国の祖である初代皇帝・高祖(劉邦)の兄・劉仲の子、呉王・劉濞であった。江南地方を統治し、銅山の開発や、製塩業の振興を進め栄えていた呉であったが、諸侯王の力をそごうとする漢王朝に対し、他の諸王にも呼びかけ、反乱をおこした。第5代皇帝・文帝の時、呉王・劉濞の息子が入朝し、皇太子時代の景帝とトラブルとなり、結果亡くなるという事故が起こり、それ以来、呉王・劉濞は入朝していなかった。漢王朝による諸侯王封地削減がつづいていたが、紀元前154年の正月には、呉国の領地のうち、塩の産地である会稽郡と、銅の産地である豫章郡を削減するという決定が漢王朝によって為された。
呉王による他の諸王への呼びかけで、最初は9国の連合が成立したが、その後、斉と済北の2国が脱落。最終的に呉を含め、楚、趙、膠西、膠東、菑川、済南という全諸侯王国の半分の7国が挙兵した。挙兵にあたり、諸侯王の中で最も南にあり、越部族の国と境を接していた呉王は、百越族の国である東越(東甌)(現在の浙江省にあった国)や閩越(現在の福建省にあった国)に援兵を求めた。閩越は、協力を拒否したが、東越は呉に協力し1万ばかりの兵を長江の南岸まで出している。
反乱軍が、漢の都・長安を狙うには、まず景帝の同母弟である劉武が王であった梁国を撃破せねばならず、呉(国都:広陵)と楚(国都:彭城)の連合軍は、淮水を渡り棘壁というところで梁軍を一旦破ったが、梁の国都である睢陽を
陥れることはできなかった。首都・長安からは、周亜夫(呂氏の乱を鎮定した周勃の子)が討伐軍を率い、昌邑と言う地点を基地に反乱軍の糧道を絶った後、兵を退かざるをえなかった呉楚両軍を追撃し、楚王・劉戊を自殺に追い込み、呉王・劉濞を南に遁走させた。
長江を渡って江南に戻った呉王・劉濞は、味方と思っていた東越軍に迎えられたが、形勢を見て既に漢に通じていた東越軍の兵に槍で刺殺され、その首級は漢に送り届けられた。乱の盟主・呉王の死は、挙兵からわずか3ヶ月のことであった。このとき、呉の太子・劉駒は、閩越に亡命する。(後に紀元前138年、劉駒にそそのかされた閩越は、東越を攻めることになる)
呉楚七国の乱そのものは、かなり広い範囲にわたり、呉楚両軍の動き以外に、膠西、膠東、菑川の諸王が、斉の国都・臨淄を一旦は攻めたて、また趙は国都・邯鄲によって10ヶ月にわたり抵抗したが、最後には共に漢軍に攻めたてられ滅びてしまう。尚、乱平定の功労者である周亜夫は、乱後、丞相に昇進し権勢を振るうが、最後には景帝から解任され、その上、子の事件に連座し逮捕後不幸な死を遂げている。
主たる参考文献 『中国の歴史 4 漢王朝の光と影』(陳舜臣、平凡社)
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■武帝までの前漢
秦滅亡後、紀元前202年劉邦(高祖)が項羽を破り中国を統一、長安に都し、漢王朝を興した。前195年初代皇帝・高祖の没後、2代皇帝に高祖の太子・恵帝が就任。しかし前188年恵帝没後は、高祖の皇后で恵帝の母である呂后とその一族の専横の時代(少帝恭・少帝弘を擁立)となり、劉氏一族との争いを引き起こした(呂氏の乱。前180年)。呂氏の乱鎮定後、第5代皇帝に迎えられたのが、文帝(在位前180年~前157年)。第6代皇帝には、文帝の子である景帝が即位(在位前157~前141)
■武帝(紀元前156~前87年)(在位前141~前87年)
前漢(西漢。都は現在の陜西省西安市にあたる長安)の7代皇帝・武帝劉徹。紀元前141年に16歳で帝位についてから、紀元前87年に亡くなるまで54年間在位。衛青・霍去病という2人の将軍の活躍もあって、北方の匈奴に対する建国以来の劣勢のはねかえしをはじめ、東方の朝鮮半島、南方の広東方面など対外政策の積極展開を行った。