コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第50話 「ワニと龍(4)」

日本でのワニから龍への表現の変化と、ラオスでのケーからマンコーンへの表現の変化

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第50話 「ワニと龍(4)」

しかしラオス語の辞書に、ケーの語がなお中国の龍を表わす言葉として残されていることは、もともとラーオ族はケーという語で、ワニも龍も表わしていたことをうかがわせます。この点、ラーオ族はより直截的に「ワニも龍も同類」という観念を持っていたようです。そしてサンスクリットのマカラ、マンコーンという言葉に出会う前のタイ族の持っていた観念もこのようなものでなかったでしょうか。北部ラオスのラーオ族・タイ族の淵源はシップソンパンナーのタイ族に発するといわれており、シップソンパンナーの農夫マイジンが知り合った龍王の娘が龍に変身するくだりは、もとはワニ王の娘がワニに変身するという形であったろうと思われます。『古事記』では海神の娘がヤヒロワニに変身するという筋立てでしたが、それよりも原始的に、たとえば「ケーの王の娘がケーに変身した」と語られていたのではなかったでしょうか。
さて津田左右吉の言うように、ヤヒロワニから龍への『日本書紀』本文の表現の変化を仏典に求めることは、ワニの範疇に入る中国の龍が四肢のないインドの龍(ナーガ)へと、とって代わられることになり、飛躍が過ぎるのではないかと思います。タイのチャーラワン伝説では、ブラフマンの秘法を体得した若者が登場して首尾よくワニのチャーラワンを呪縛してしまいますが、このブラフマンの秘法とは、たとえばパンヤーサ・ジャータカの説話のひとつに見られる如く、もとはナーガを呪縛するための秘法です。このことからチャーラワン伝説の創作者はナーガというインドの龍を知っていたことがわかりますね。チャーラワン伝説の種を作ったモン人や、それに枝葉をつけ加えたタイ人たちは、皆仏教の波をかぶっており、ナーガの存在を知っていたことでしょう。しかしチャーラワン伝説の主人公は今日に至るもワニであり、ナーガにとって代わられることはありませんでした。

『古事記』は語り部の稗田阿礼の朗誦を文字に記したものです。すなわち口承文芸の記録で、たとえばヤマサチヒコとトヨタマヒメの出会いと別れを歌った一連の物語は、海人族に伝えられた恋愛叙事詩のようなものではなかったでしょうか。その類話としてシップソンパンナーのタイ・ルー族に伝わる「卵の捧げ物」の一節がのこるものと考えたいところです。二十世紀以来、中国南部のさまざまな省買う民族の口承文芸が採録され、中国語に翻訳されて多くの出版物が出ています。中国語に翻訳される際に、たとえばタイ・ルー族に伝わる「卵の捧げ物」においては、タイ・ルー族が中国の龍を表わすものとして使った彼らの現地語の言葉が「龍」として文字化されることは十分考えられることです。『日本書紀』本文において、トヨタマヒメが「龍」に変身したという記述にそれと同様のことが起こったのではないでしょうか。

『日本書紀』は傍証として一書にヤヒロワニの語をあげつつ、ワニとはいえ中国語に翻訳すればそれは「龍」になりますよ、と本文に示したような印象を受けます。仏教の受容によりナーガすなわちインドの龍が主役の座をワニから奪うようなことは、少なくともタイのチャーラワン伝説ではありませんでしたし、『日本書紀』本文における「龍」の登場も、ヤヒロワニの語を併記することにより、この「龍」とはヤヒロワニのことですよ、と注記した印象で、仏典のナーガを引っ張ってきたものではないことは明らかでしょう。インドの龍が主役の座をヤヒロワニから奪ったと言う考え方はやはり成立し得ないのではないかと思います。

『日本書紀』にはたとえば「済、此をば平多利(わたり)と云ふ」などと、中国語の漢字を表記した後、倭語の発音を漢字で音写する例がいたるところに見られます。このことは『日本書紀』が成立した当時、漢字で表記したコミュニケーションと倭語による口頭でのコミュニケーションが日本の政治の中枢で併用されていたことをうかがわせます。もとより『日本書紀』は漢文で書かれており、それは漢文が日本の正書法に採用されたことによるものでしょう。それで「龍」が口承のヤヒロワニから書面の語として採用されたのでしょう。またタイ・ラオスではインド系の文字が正書法として採用されたため、書面の語としてサンスクリットのマカラが中国の龍を示す語に採用されたのでしょう。日本ではワニから龍へ、ラオスではケーからマンコーンへ、それぞれ正書法の成立とともに変わったもののようですね。

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