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「歴史舞台としての中国西南部・南部」第3回「趙佗と南越国(前207頃~前111年)」
- 2000/4/10
- 企画特集, 関連世界への招待「中国西南部・南部の歴史舞台」
百越族国家(秦末・前漢時代)
秦末・前漢時代、 広東・広西・北ベトナムを領有した「独立国」南越
「歴史舞台としての中国西南部・南部」
第3回「趙佗と南越国(前207頃~前111年)」
秦の始皇帝は、中国を統一し、貨幣・度量衡・文字などの統一や道路網の整備など数々の統一政策を実行に移し、中央集権の巨大統一国家「中国」を出現させた。更にそれまで南方の異民族(非漢民族)が住み、漢民族国家の支配が及んでいなかったが、始皇帝は、50万の大軍に命じ、今の広東省・広西省等の中国南部に進出する。紀元前214年桂林・象・南海の3郡を置いてその支配下に組み入れる。しかし秦末の混乱期に独立し、漢の武帝時代まで当地に独自の国が存在した。それが「南越国」である。領土は、今の広東、広西両省だけでなく、ベトナム北部をも領有しており、更に前漢版図の長沙地方を侵したり、前漢に服属していた現在の福建辺りの越族国をも従属させたこともあった。
南越国は、建国者を始め、官吏の多くは漢人であったが、住民の大部分は越(百越)人であり、漢人と混住していた。南越国の建国者・趙佗は、真定(河北省正定県)出身の人で、秦の始皇帝時代、南海郡竜川県令となったが、秦末の混乱期に病中の南海群尉からその地位を委任され、秦の滅亡後、中国との関を閉ざし、秦の役人を殺して独立。南海郡に加え、隣接の桂林・象郡をも討平して新たに南越国を建てた。武王と称し、番禺(広東)に都する
高祖劉邦は、秦滅亡後、項羽を破り中国を統一し漢王朝を興したが、南越を討つだけの余力がなく、紀元前196年、前漢の政治家・陸賈(秦漢興亡のゆえんを書いた『新語』の著者でもある)を派遣してこれと和親の関係を結び、趙佗を南越王として認めると同時にその侵寇を防いだ。形式的には諸侯王として漢に服する形であったが、実際には完全に独立国であった(漢に使いを派遣するときは、王と称していたが、南越国内では依然として帝号を用いていた)。
呂后専横の時代に、漢が南越へ鉄器の輸出を禁じたことから両国の和は敗れ、趙佗は漢に対してもみずから帝と称した。紀元前183年には漢の南辺・長沙郡の地を数県侵し、さらに閩越や西甌駱をも従属させて大いに威を張った。呂后死後第5代皇帝に就いた文帝はそのため再び陸賈を遣わして、和を計らせた。趙佗は、これより景帝時代間では、引き続き臣と称して漢に使いを遣わした。
紀元前137年(建元4)趙佗の死後、孫の趙胡がたったが、前漢朝には、武帝が在位しており、漢の南越に対する圧迫は次第に加わった。趙胡の太子・嬰斉は長安に人質に差し出されることもあった。趙胡の死後、趙嬰斉が王位を継ぐも、若くして没し、嬰斉の子・趙興が紀元前113年即位する。漢の武帝は、南越国に他の諸侯王なみに、3年に1度入朝すると同時に、辺境の関所を除くことを要求し、使者に安国少季を派遣する。
幼少の王・趙興を後見していた太后は、趙嬰斉が人質として長安に居た時に趙興を生んでおり、中原の邯鄲出身であり、しかも、前漢の使者として派遣されてきた安国少季とは、嬰斉に寵愛される前の恋人であった。前漢への入朝準備を進める太后に対し、南越国の丞相・呂嘉らが立ち上がり、太后・幼王および漢の使者を攻め殺し、興の異母兄、建徳を擁立して漢に反抗した。
早速武帝は伏波将軍・路博徳、楼船将軍・楊僕らのひきいる大軍を送り平定。呂嘉たちは一旦海上に逃げたが間もなく漢軍ではなく南越の官吏に捕らえられ、紀元前111年(元鼎6)、南越国は完全に滅びた。
南越国滅亡後、その地には、9郡が置かれ漢の直轄領となった。この内、交趾郡・九眞郡は現在の北ベトナムに、日南郡はベトナム中部にあり、これ以降10世紀まで、ベトナム(北部・中部)は中国支配を受けることになる。
参考:『東洋史辞典』京大東洋史辞典編纂会編、東京創元社、1980)
『中国の歴史』(陳舜臣、平凡社)
関連ワード
■秦の始皇帝(紀元前259~前210年)
戦国・秦の王で、前221年中国を統一し最初の皇帝となる。南方の非漢民族がすむ地域にも進出し、桂林・象・南海の3郡を置いた。
■武帝までの前漢
秦滅亡後、紀元前202年劉邦(高祖)が項羽を破り中国を統一、長安に都し、漢王朝を興した。前195年初代皇帝・高祖の没後、2代皇帝に高祖の太子・恵帝が就任。しかし前188年恵帝没後は、高祖の皇后で恵帝の母である呂后とその一族の専横の時代(少帝恭・少帝弘を擁立)となり、劉氏一族との争いを引き起こした(呂氏の乱。前180年)。呂氏の乱鎮定後、第5代皇帝に迎えられたのが、文帝(在位前180年~前157年)。第6代皇帝には、文帝の子である景帝が即位(在位前157~前141)
■武帝(紀元前156~前87年)(在位前141~前87年)
前漢(西漢。都は現在の陜西省西安市にあたる長安)の7代皇帝・武帝劉徹。紀元前141年に16歳で帝位についてから、紀元前87年に亡くなるまで54年間在位。衛青・霍去病という2人の将軍の活躍もあって、北方の匈奴に対する建国以来の劣勢のはねかえしをはじめ、東方の朝鮮半島、南方の広東方面など対外政策の積極展開を行った。
■前漢期の南方9郡
南海、蒼梧、鬱林、合浦(現在の広東・広西) 儋耳、珠崖 (現在の海南島) 交趾、九眞、日南 (現在のベトナム北部・中部)