メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第38回 「帰還せず ー 残留日本兵 60年目の証言」(青沼 陽一郎 著)


「帰還せず ー 残留日本兵 60年目の証言」(青沼 陽一郎 著、新潮社、2006年7月発行)
<本書表カバー>・中野弥一郎(タイ・メーソット)

<著者紹介> 青沼 陽一郎(あおぬま・よういちろう)<本書著者紹介、本書発行当時>
1968年、長野県生まれ。早稲田大学卒。テレビ番組制作に関わった後、フリーのジャーナリストに。犯罪、事件、食料問題などをテーマに、精力的にルポを発表している。著書に『池袋通り魔との往復書簡』(小学館文庫)、『オウム裁判傍笑記』(新潮社)がある。

本書は、精力的にルポを発表してきたフリージャーナリスト・青沼陽一郎 氏による、タイ・インドネシア・ベトナムで暮らし続ける14名の元日本兵をひとりひとり訪ねて、戦争に翻弄された波瀾の人生をたどるルポルタージュで、『文藝春秋』2005年10月号に掲載された「残留日本兵14名の60年戦争」をもとに書き下ろしたもの。単行本は、2006年7月に新潮社から発行されているが、その文庫本は、2009年7月に新潮文庫として、また2014年8月に小学館文庫としても発行されている。本書サブタイトルに、「残留日本兵 60年目の証言」とあり、本書「プロローグ」に、”終戦から60年が経った夏、ぼくは旅に出た。ぼくなりに独自で調査したところ、戦後60年を迎える夏まで東南アジア諸国で生活する残留元日本兵は、わずか14人だった。その元日本兵ひとりひとりに会う旅に出た。そして、こう尋ねてみた。60年前、どうしてあなたは日本へ帰らなかったのですかー。”とあるように、著者が、終戦60年にあたる2005年夏に東南アジア各地に残留日本兵を訪ねている。著者が、直接、アジア各地に出向き訪ね歩いて出会った東南アジア残留元日本兵は、計14名で、タイ在住日本兵は4名、ベトナム在住日本兵は1名、インドネシア在住日本兵は9名という内訳だが、それ他に、既に亡くなっていたが、ビルマ残留元日本兵2名の話が、そのうちの1人の息子から語られている。

<本書裏カバー>
(上段左より)
・田中幸年(インドネシア・メダン)・大谷基二(タイ・バンコク)・藤田松𠮷(タイ・ランプーン)
(中段左より)
・下岡善治(インドネシア・ジャカルタ)・小野盛(インドネシア・マラン)・藤山秀雄(インドネシア・ジャカルタ)
・高須茂男(インドネシア・クアラタンジュン)・落合茂(ベトナム・ホーチミン)
(下段左より)
・中村常五郎(インドネシア・メダン)・宮原永治(インドネシア・ジャカルタ)・北村亮一(インドネシア・スラバヤ)
・志田安雄
(インドネシア・パマヌカン)・坂井勇(タイ・メーソット)

「第1章 敗走の果てに【インパール作戦 ~タイ編】」では、タイ残留の元日本兵4名が登場。タイ・ビルマ国境のメソットに住む中野弥一郎(1920年~2009年10月26日)と坂井勇(1907年~2007年5月9日)、北タイのランプーンに住む藤田松吉(1918年~2009年1月25日 )に、バンコクに住む大谷基二(1921年~2005年)の4名。中野弥一郎さん、坂井勇さん、藤田松𠮷さんの3名は、タイ残留元日本兵としては、よく知られた方々で、いろんな形で紹介されていて、タイの未帰還兵というと、よく名前の挙がる人たちの中の3名。本書発行から数年後の2009年8月8日に劇場公開された、タイに残留し未帰還兵となった元日本兵6人の生涯に迫るドキュメンタリー映画「花と兵隊」(監督・撮影・編集:松林要樹)でも、この3名は取材対象(「ぼくと未帰還兵』との2年8ヶ月 ー 『花と兵隊』制作ノート」(松林要樹 著)。1988年8月に東京書籍より刊行された「<日本への遠い道・第一部> 望郷 ー 皇軍兵士いまだ帰還せず」(三留理男 著、東京書籍)でも紹介されている。

インパール作戦の生き残りの元衛生兵の新潟県小千谷出身の中野弥一郎さんは、敗戦を迎えるのはビルマ領内で、武装解除後、一度入った捕虜収容所から1人離隊脱走しビルマのカレン族の地域に逃げ込み潜伏。やがて現地でパオ族の女性と家庭を持つも、ビルマ領内の少数民族と対立するビルマ政府軍の迫害から逃げ難民としてタイとの国境を越え、タイ側のメソットに住み、宝石仲買などの商売を始める。中野弥一郎さんと同じように、1907年ブラジル生まれのインパール作戦生き残りの自動車兵(第60独立自動車部隊)の元上等兵の坂井勇さんは、敗戦をビルマ領内で迎え、収容所から逃亡し、カレン族の集落に身を隠し、カレン族の武装闘争にも協力参加し、農業にも従事し現地でパオ族の女性と家庭を持つも、ビルマ政府軍の迫害から逃げ難民としてタイとの国境を越え、タイ側のメソットに住む。メソット在住の中野弥一郎さんと坂井勇さんは、1947年頃、ビルマに隠れていた頃に知り合い、パオ族の妻は姉妹同士という関係。本書では、中野弥一郎さんと坂井勇さんが初めて出会うきっかけについては詳しく記している。それによれば、サルウィン川の中州に当たるカレン族が住むコーロン島に留まって、エンジンや機械の修理を通じカレン軍に協力し、また独自にモーターボートを作り生活物資を運んでいた坂井勇さんを、対岸から中野弥一郎さんが見ていて接触し、その後の長い2人の付き合いが始まっている。尚、中野弥一郎さんは、インパールの北方に位置するコヒマ攻略の戦闘に参加した第31師団(烈師団)の衛生兵で、撤退敗走の様子も悲惨。本書カバー表紙の写真は、中野弥一郎さん自身。また、本書で、坂井勇さんが、1940年の幻の東京オリンピックを見物にブラジルから日本に遊びに来たことで召集を受けたことを後悔していないか?と尋ねるシーンでは、本当はブラジルで財産が何も無くなり家族で日本に来たという証言をしている。

今村昌平 氏によるテレビ・ドキュメンタリー作品「未帰還兵を追って タイ編」(1971年)や「無法松 故郷に帰る」(1973年)にも登場していた長崎出身の元二等兵で北タイのランプーン郊外のパサーン在住の藤田松吉さん(1918年~2009年1月25日 )は、1918年12月、長崎生まれで、1939年、長崎の大村で帝国陸軍に志願入隊し福岡の久留米で菊師団に編成。日中戦争時は広東攻略作戦に従事し、その後はマレーのコタバルに上陸しマレー攻略戦に参戦。シンガポール市街戦を展開。更に1942年、輸送船でビルマのラングーンに送られ、ビンマナ攻略、マンダレー攻略に参戦し、ビルマ領内の掃討を命じられ、1943年末には、藤田松𠮷さんの所属した第18師団は、インパール作戦発動の前に、インパール作戦を援助するために北ビルマのカチン州に位置するフーコンの谷に投入されるが、敗退撤退。ラングーンへの南下が困難で、北タイのチェンマイのに本軍の施設まで敗走。北タイで友軍から置き去りにされ、その後をタイで生き抜き、建設工事などの仕事の傍ら、時間を作って「白骨街道」と呼ばれた旧日本軍の敗走路での遺骨収集を続けられた人。藤田松𠮷さんのビルマ北方のフーコンから北タイまでの敗走も悲惨。

これに比べて、1921年生まれで埼玉県羽生市出身でバンコク市内で独立して、主に空調設備、エアコンの工事を請け負う電機専門店「泰大谷電機店」を経営していた大谷基二さんの場合は、泰緬鉄道の鉄道隊の機械工としてカンチャナブリに送られ、泰緬鉄道が完成すると、所属していた鉄道部隊も、たった一度だけ戦闘に出され、それがインパール作戦だったが、前線の戦闘からは程遠いところにあり、撤退命令が出ても泰緬鉄道に乗って引きあげることができ、悲惨な敗走体験はないようだ。ただ、バンコクから最終の引揚船にも乗らず自らの意志でバンコクに残留した大谷基二さんは、その後は気楽に生き長らえた訳ではないことは、エピローグで、取材の翌月に病死した大谷基二さんの中国系タイ人の妻が、「お父さんはここで独りで生きてた。身寄りもなく、自分の力だけで生きてた」ことに同情し、「お父さんは第二次世界大戦で苦労した。日本兵で、戦争で苦労した人だから、気の毒に思った」と語るシーンで伺い知ることができるはずだ。

ベトナム・ホーチミン市在住の残留元日本兵としては、大正9年(1920)山口県山口市 生まれの落合茂 氏(1920年~2008年1月)が登場。終戦後もベトナムに残留し続けた元日本兵で、長い間、元日本兵とその家族を中心に組織されていた現地在住日本人の会である「寿会」の世話役だった方。中学を出て新義州(北朝鮮)で税関の仕事をしていたが、平壌で召集。平壌から門司、台湾の高雄を経て、サイゴン沖のカプサンジャック(現ブンタウ)で船から降り、サイゴンに上陸。そこから汽車でハノイに入り、ハイフォンに送られるが、ハノイで終戦を迎える。ベトナム駐留の日本軍は、もともと開戦前に日仏印協定が結ばれていて戦闘はなく、高射砲部隊所属の落合茂氏も、実戦は、たったの一度、1945年3月の仏印武力処理の時だけだが、このときに負傷してしまう。ベトナム駐留の日本軍もインドネシア駐留の日本軍同様、武器弾薬もあれば人員も戦闘意欲も残っていて、ビルマ戦を経験し悲惨な敗走体験をした日本軍とは大きく状況が異なり、終戦後にベトナム独立のために闘った残留日本兵も少なくないが、落合茂 氏の場合は、終戦後、まずは、1945年11月頃に中国軍に志願参加し自動車運転手を務める。当時の仏領インドシナは、北緯17度線で南北に分けられ、南をイギリス軍が、落合の部隊の置かれたいた北ベトナム側は、降伏と同時に蒋介石軍(国民党軍)配下とはいえ雲南省の軍閥の親日的な盧漢将軍(1885~1974)が実質支配していたが、中国人は優しく捕虜扱いされず待遇も良かったと語られていることには意外。ベトナム南部に駐留していた日本軍は、イギリス軍やフランス軍にかなり意地悪をされたそうだとも、付け加えている。

その後、請われて、翌年の3月頃には、一旦ホー・チミン軍に入るも、特にする仕事もなく、ベトナム国民党との対立にも嫌気がさして、1946年10月頃、ホーチミン軍を逃げ出す。戦時中、日本の国策会社「昭和通商」に勤めていた中国人が中国籍を取得してくれ、更に身の危険を感じるようになると、中国人の手引きでハイフォンから中国の雷州半島の北海に一旦脱出し輸送船で生活を送る。一年後、中国人になりすまし、再びベトナムのハイフォンに戻り、最初は貨物輸送に携わるも輸送会社が倒産し、今度は、敗戦後の一般日本人の収容場所になっていたクアンイエン(クアンニン省)で、この土地に駐留したフランス軍の土木局の運転手に中国人として採用され、1948年にはベトナム女性と結婚。フランスの外人部隊にいた元日本人の勧めで日本人と名乗り故郷の実家に無事を知らせる事が出来た。1955年夏には、家族でハイフォンからサイゴンへ移住。日本工営に現地通訳として雇われ、その翌年にはサイゴンの日本の商工会に書記として就職。1961年には東京銀行のサイゴン支店が開設され、その職員として勤務。1975年4月サイゴン陥落にもサイゴンに残ったものの、公安当局から執拗に追及を受け、勧告されてやむを得ず1977年に子供3人と帰国。翌1978年には妻を日本に呼んだが、日本国籍を取ることを最後まで拒んでいた妻が1993年に亡くなり、それがきっかけで16年ぶりにホーチミンに戻ることを決意する。この波瀾に満ちた人生の紆余曲折にも驚くが、ベトナム女性の妻が実は解放戦線の幹部だったことを後で知ることになるという人生も凄いものがある。年次については、多少異なる記述となるが(中国軍に徴用されたのは1945年8月でりだサイゴンに移住は1954年10月、落合茂 氏のの生涯については、本書発行(2006年7月)より後に刊行された刊行された「サイゴンの火焔樹 ー もうひとつのベトナム戦争」(牧 久 著、ウェッジ、2009年5月)に非常に詳しい。

また、ビルマ残留の日本兵については、既に亡くなっていて取材はできなかったものの、ビルマ残留元日本兵の息子から、東京でビルマ残留の元日本兵2名について詳しく話を聞いている。その取材のきっかけは、著者が日本でのミャンマー人の経営、調理する料理店で、「戦後も日本へ帰って来なかった日本兵はいますか?知っているのであれば紹介してほしい」と気軽な調子で尋ねたら、数日後、ミャンマー人の店主が、直接の知り合いではないが、何人かのミャンマー人を介在し、日本国内で中年の日本語を話すミャンマー人を引き合わせてくれたが、その相手が、ビルマ残留の元日本兵の星吉男氏の息子だった。宮城県岩沼市出身で、砲兵で上等兵、後に軍曹。インパール作戦に参加し負傷してメイミューの軍の病院に入院。英印軍の反攻で敗走しミャンマー軍に捕まり、ペグー近くのフォーの町の捕虜収容所に入れられるが、脱走。以後、ビルマの地方の村で現地女性と結婚し床屋をしながらビルマに残留し続けた元日本兵。捕虜収容所から一緒に脱走した戦友が、新潟県新井市(現・上越市)出身の北村作之丞 氏で、脱走後、一旦は別々で暮らし、北村氏はビルマ国軍に入隊もしたが、後に2人は再会し、長らく隣同士で支え合って暮らした方で、ビルマ残留の元日本兵の最後の2人として、この星吉男 氏と北村作之丞 氏は知られるが、1994年10月、星𠮷男氏がヤンゴンで逝去後、最後のビルマ残留の元日本兵だった北村作之丞 氏も2000年に逝去。2人の終戦後のビルマ残留後の苦労も並大抵ではないが、何より驚くのは、日本に働きに来ている星𠮷男氏の息子が、父親とその戦友の話を詳しく知っていることで、「小さい頃からずっとお父さんに戦争の時の話をよく聞かされていましたから、話ができる」とのこと。

そのほか、本書の約半分は、インドネシア残留の元日本兵9名の話となっている。本書に登場順では、宮原永治(ジャカルタ在住、大正10年(1921)生まれ)、小野 盛(マラン在住、大正8年(1919年)生まれ)、田中幸年(ジョグジャカルタ在住、明治40年(1907年)生まれ)、中村常五郎(スマトラ島・メダン在住、大正13年(1924年)生まれ)、志田安雄(ジャワ島・パマヌカン在住、大正10年(1921年)生まれ)、藤山秀雄(ジャワ島・ジャカルタ在住、大正11年(1922)生まれ)、下岡善治(ジャワ島・ジャカルタ在住、大正15年(1926)生まれ)、高須茂男(スマトラ島・クアラタンジュン在住、大正13年(1924)生まれ)、北村亮一(ジャワ島・スラバヤ在住、大正5年(1916)生まれ)。「ビルマの乞食、ジャワの殿様」「ビルマの地獄、ジャワの天国」と呼ばれていたらしく、戦時中、ビルマ配属の日本兵は悲惨な敗走をし病気や飢えに苦しんだが、インドネシアでは戦闘が無く戦時中の状況は非常に対照的。終戦後、インドネシアにインドネシア独立戦争に参加した元日本兵も多かったが、戦死や行方不明、後に帰国した人たちなどで、在留元日本兵の互いの生活を支え合う相互扶助の会である「インドネシア福祉友の会」が1979年7月14日設立され、同会が1981年に調査を実施。インドネシアに留まった元日本兵は確認できただけで755人、このうち、226人が死亡し、238人が行方不明とされた。これらも確認がとれた元日本兵の実数で、一説には最大2000人ほどの日本兵が復員を拒んで現地に留まったとも言われる。発足当時には300人近い会員が存在。インドネシア二残留し帰国しなかった元日本兵たちも、戦後の生活は大変だった人も少なくなく、1970年代の末に、在留元日本兵が悲惨な末路で野垂れ死にも同然だったことがきっかけで、この「インドネシア福祉友の会」が発足したとのこと。ちなみに、インドネシア残留元日本兵も、本書に登場する小野盛(おの・さかり)さんが最後の1人となっていたが、2014年8月に逝去。2023年7月には、「インドネシア福祉友の会」がジャカルタにインドネシア残留元日本兵に関する資料館を開設している。

目次
プロローグ 津波と日本兵と
第一章 敗走の果てに 【インパール作戦 ~タイ編】
第二章 南方に見た夢、変わる夢 【インドネシア編①】
第三章 何も知らなかった、若かった【インドネシア編②】
第四章 祖国
啾々【ベトナム・ミャンマー編】
エピローグ 約束の場所

あとがき

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