メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第19回 「わが子 泰造よ!」カンボジアの戦場に散った息子を求めて(一ノ瀬 信子 著)

メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第19回 「わが子 泰造よ!」カンボジアの戦場に散った息子を求めて(一ノ瀬 信子 著)

「わが子 泰造よ!」カンボジアの戦場に散った息子を求めて(一ノ瀬 信子 著、合同出版、1985年5月発行)

本書はフリーの報道写真家として1971年1月から約2年間、バングラデシュ、インド、カンボジア、ベトナムの激動地帯を駆け抜け、戦火のカンボジア・アンコールワットで26歳の若さで殉じた一ノ瀬泰造氏の母・一ノ瀬信子 氏による手記。一ノ瀬泰造氏については、写真・書簡集『地雷を踏んだらサヨウナラ』や同名の映画作品(浅野忠信主演)をはじめ各地での写真展や新聞・雑誌やテレビでの報道紹介で、一ノ瀬泰造氏の名前だけでなく一ノ瀬泰造氏の撮った写真や彼の熱く自由な生き方、人間的な魅力は広く知られているが、本書では、カンボジアの戦場の地で行方がわからなくなった息子を捜し求める母親の痛切な心情が、行方不明と報じられた1973年末から死亡が確認される1982年までの期間にわたって綴られている。

 本書の書き出しは「泰造が行方不明になった!」とのタイトルの下、一ノ瀬泰造氏が1973年11月、解放勢力側が支配していたアンコールワットへ単独潜行を試みアンコールワット遺跡近くで消息を断ったと日本の新聞で報道された1973年11月末から始まる。これ以降、佐賀県に住む一ノ瀬泰造氏の両親の下には、一ノ瀬泰造氏の安否に関するいろんな情報が届くことになるが、長らく生死の確認がとれぬまま、1982年2月1日遂にカンボジアのアンコールワット北東10キロのプラダック村にて遺骨が発見され両親によってその死亡が確認されることになる。

 写真・書簡集『地雷を踏んだらサヨウナラ』を読まれたことのある方なら、同書に収められている一ノ瀬泰造氏と母との間の頻繁な手紙のやり取りの中に、母と子の間のほのぼのとした暖かさや深い絆を強く感じられたことと思うが、息子の泰造氏がカンボジアの戦地で行方不明と報じられてから丸8年以上も息子の帰還を信じ消息を追い求めて来られただけに、本書で綴られるこの期間の母親の思いは壮絶だ。特に泰造氏からの便りが途絶えて3年になろうとした1976年秋(昭和51年9月20日)に、母・信子氏が駄目でもともとといった開き直りの気持ちでプノンペンに直送した泰造氏への手紙などはとても哀しい。「泰造さん 日本は今、爽やかな秋の季節を迎えています。御存じ武雄市のシンボル御船山も、澄み渡った青空の中にのんびり寝そべっています。」という文面で書き出し、「みな泰ちゃんの無事を願っています。一日も早く、便りだけでも良いから待っていますよ! では、またね。母より 一ノ瀬泰造様」と結ぶ手紙だ。

 本書の母親の手記には、写真・書簡集『地雷を踏んだらサヨウナラ』には掲載されていない一ノ瀬泰造氏の幼少の頃や学生時代のエピソードなどについても書かれ、小学2年時の作文まで紹介されている。1947年(昭和22年)11月1日に一ノ瀬泰造氏は生まれているが、生後1年にもならない泰造氏が母と2人の姉と一緒の写真も掲載されている。母の手記ではあるが、本書の中からも一ノ瀬泰造氏の母を想う気持ちも各所にじみ出ている。本書の裏表紙などにも引用されているが、「・・・好きな仕事に賭ける シアワセな息子が死んでも悲しむことないヨ、母さんー」というこの文章は、1972年4月23日、シェムリアップから泰造氏が母に出した手紙の一節だ。また、泰造氏と家族が最後の対面となったのは、1973年4月末から5月初の泰造氏の佐賀・武雄への帰郷の時だが、ベトナムに戻る泰造氏を板付(福岡空港)まで見送った武雄高校後輩の角良孝さんの話によれば、”おふくろには可哀想だから言えなかったけど、今度は生きて帰れるかどうか、判らないよ”と例のニヤリとした笑いを浮かべて告げたとのことだ。

 一ノ瀬泰造氏が消息を断って以来、周囲の人たちの間で外務省やカンボジア政府側への働きかけなどの救出嘆願の活動が始まるとともに、わが子を待つご両親のもとに一ノ瀬泰造氏が撮ったフィルムや、日記、書簡、レポートなどが集められ単行本刊行や写真展開催が実現するが、泰造氏と時を同じくしてインドシナ地域に関った多くの報道ジャーナリスト関係者たちの協力支援の様子など、本書でこまめに記されている。写真・書簡集『地雷を踏んだらサヨウナラ』に収められている1973年5月21日の母から泰造氏への手紙の一節には、「泰ちゃんも、なるべく手記にしておくと、あとでまとめるのに便利ですョ。人間の記憶力なんて、アテになりませんから・・・」とあったが、この手紙の時には、まさかご自分がこのような手記を書くことになろうとは思っても居なかったに違いない。

 1980年1月30日、一ノ瀬家に衝撃的な恐ろしいニュースが飛び込むことになる。石川文洋氏の電話連絡で、「泰造君は1973年の秋、捕まってから、10日から14日後に、プラダックという小さな村に連れて行かれ、そこでアメリカのスパイという名の許に処刑されたというのです」と電波ニュースの情報が伝えられた。(翌日の新聞各紙に報道) そして泰造氏の生死を確認するためTBSの取材陣とともに泰造氏の御両親がカンボジアに向かうことになる。1982年1月20日、成田を発ち、バンコク経由でホーチミンに入り、プノンペン、バッタンバンを経て、1982年1月29日、シェムリアップに到着。2月1日、プラダック村で遺骨の発掘作業が行われ、息子との悲しい対面となる。この悲しい旅では、ホーチミン、プノンペン、シェムリアップ各地で、息子の足跡を求め泰造氏が住んでいたアパートを訪ねたり、泰造氏と深い関りのあった人たちを捜し求め、泰造氏がカンボジアでの第一の親友であったチェット・セン・クロイ(通称ロックルー)の奥さん、ネアン・ラットさんの家や、泰造氏が当時”カンボジア一番の料理の旨いマダム”と激賞していたレストランなどを訪ねている。尚、泰造氏の遺骨については、国外持ち出しには時間がかかり、ご両親が一旦先に帰国され、1982年3月12日故国に還っている。(1982年3月13日の新聞報道)

目次

泰造が行方不明になった!
もどかしい日々
還ってきたフィルム
「泰造 写真集は見ましたか?」
処刑の報道なんか 信じない!
息子の足跡を求めて
アンコールワットへの旅
我が子よ 安らかに!
あとがき 

■本書掲載の写真
★1948年(昭和23)6月頃
一見、”いざりの勝五郎さん”風の乳母車だが、これでもれっきとしたオーダー・メイド。子供の運搬、買い出しとなかなかの活躍でした。(カメラを見ると俄然興味を示すタイゾー)
1972年(昭和47)
シェムリアップのホテル・ラ・ペに落ち着いたタイゾー
1972年(昭和47)
シェムリアップにて
1972年12月4日
ベトナムのカントにて(米津孝氏撮影)
1981年6月12日
新宿・紀伊国屋画廊にて TBSが会場を取材。宮崎総子さんの顔が見える。
戦災孤児タン君
★1982年1月30日
アンコール・ワットにて。回廊壁画を見て廻る。泰造が何処からか現れてくる様な思いにとらわれて仕方がない。
プラダックにて
荒涼とした草原の一隅に泰造の血は流された。
1982年2月2日  シェムリアップにて
シェムリアップ省行政委員ハオ・ソッタ氏の立ち合いで、カンボジア流の葬儀を行う。
アンコール・ワットの中央塔にて
取材班の方々と
1973年8月 プノンペンにて
僧侶たちと一緒の一ノ瀬泰造(NHK平山健太郎氏撮影)

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