メコン圏と日本との繋がり 第14回 「陳東風(チャン・ドン・フォン)の墓」(東京都豊島区雑司ヶ谷霊園)」

メコン圏と日本との繋がり 第14回 「陳東風(チャン・ドン・フォン)の墓」(東京都豊島区雑司ヶ谷霊園)」

(写真下:「陳東風(チャン・ドン・フォン)の墓」(雑司ヶ谷霊園:東京都豊島区南池袋4丁目)<*2024年7月21日午後訪問撮影>

中北部ベトナムのゲアン省出身で21世紀初頭ベトナムの民族運動指導者のファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867~1940年)が、1903年、阮朝の王都フエ出身のベトナム青年皇族クオン・デ(1882年~1951年)と出会い、同志とともにクオン・デを会主とする反仏革命団体を結成(後にベトナム維新会とする)。1905年、日本に渡り、ベトナム青年の日本留学運動(東遊運動)を指導。翌1906年には、クオン・デも日本に渡るが、陳東風(チャン・ドン・フォン、Trần Đông Phong、1887年~1908年5月2日)は、ベトナム中北部のゲアン省出身で、ゲアン省の富豪の息子で、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が初めてベトナムを出て日本に渡る際には、父からもらった大金を、餞別として提供。1908年初め、ベトナム国内でのフランス当局による民族運動に対する弾圧を逃れ、ファン・ボイ・チャウを慕って日本に脱出し、東京同文書院に入学。日本に来てしばらく後、周囲のベトナム留学生がフランス官憲の妨害により送金の道を絶たれ、窮迫していたのを憂え、彼は故郷の父親に、たびたび資金の援助を申し出るが、しかし、いくら待っても、国許から何の返事もなく、父親に見捨てられたと思って悲観した陳東風は、明治41年(1908年)5月2日、縊死の自殺を遂げる。享年21歳。

この時期、ベトナム国内では東遊運動の支持者や協力者に対する摘発が始まっていて、彼の父も拘束されるか、もしくは監視下に置かれていたと思われ、息子からの手紙を受け取れなかったか、もしも受け取れたとしても、送金できず状況にはなかったはずで、そのことを知らずに、異郷で絶望した息子は、自ら死を選ぶ。なお、彼の自殺の原因は、フランス政府からの要請を受けた日本当局が、日本にいるベトナム人たちを弾圧し始めたので、それに対する抗議のためであったという話が、一部に伝わっているが、ファン・ボイ・チャウの自伝や、その他の人たちの証言によれば、この解釈は真相とは違っているようだと、『日本をめざしたベトナムの英雄と皇子 ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』(白石昌也 著、彩流社、2012年4月発行)では書かれている。

縊死の自殺の場所は、日本に留学のベトナム青年たちの寄宿先の近くで、戦前、東京・小石川の関口目白坂(現・東京都文京区関口)にあった、通称・目白不動尊として知られた真言宗豊山派の寺院・東豊山新長谷寺(とうぶさん・しんちょうこくじ)境内の大樹に首つり自殺。自殺翌日の新聞には「清国留学生の自殺」という小さな記事が載り、遺骨は引き取り手のないまま、東京雑司が谷墓地に一旦は無縁仏として葬られたとのこと。活動に多額の金銭支援をしてくれていたこともあったが、ファン・ボイ・チャウやクォン・デからの非常に信頼の厚かったベトナム青年でもあり、二人にとっても大変ショックな出来事でありながら、密入国での日本での活動でもあり、またフランス当局がベトナム民族運動への圧力を強め日本政府にも情報収集なども求めていたこともあり、遺骸引取りができず。

その後、フランス当局の弾圧で、1909年に、ファン・ボイ・チャウに引き続き、クオン・デも日本を離れ、欧州や中国に渡るが、クオン・デは、1915年に再度日本に戻り東京に定住。東京定住以後に、クオン・デが、1908年5月に自殺をした陳東風のために、雑司ヶ谷霊園の一角を購入し墓を建立し、無縁仏となっていた陳東風を埋葬し直す。現在も、その元の場所に陳東風の墓はあり、場所は、雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋4丁目)内の一種四A号四側十四番。墓石には、「同胞志士陳東風亗墓」と刻まれ、その右には、「生以甲申年」、左には、「戊申年五月初二日死」と記されている。この墓石では、生年は、甲申年の1884年、没年は、戊申年の1908年となり、24歳での生涯と読めるが、一般には1887年生まれで享年21歳と言われている。

尚、クオン・デは、1951年4月6日早朝、東京飯田橋の日本医科大学病院で病没(享年69歳)。最期を看取ったのは、クオン・デの晩年を支えた日本人女性・安藤ちゑので、6日後に東京都豊島区護国寺で葬儀が行われた。その後、クオン・デの遺骨の大部分は、ベトナムに戻り墓地に埋葬されているが、一部の遺骨は、安藤ちゑのが、雑司ヶ谷霊園のクォン・デが建立した陳東風の墓の敷地内に、こっそりと自分の手で埋めたと言われている。1992年、安藤ちゑのは、89歳で逝去し、自分の骨はクオン・デと同じ場所に埋めてくれとの遺言が残されたが、正式の土地権利者ではないことを理由に雑司ヶ谷霊園からは断られ、雑司ヶ谷霊園の遺骨堂に骨壺のまま祀られたままと、「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」(森 達也 著、2003年7月、角川書店)には記されている。

陳東風については、ファン・ボイ・チャウの漢文で書かれた著書『自判』にも、”十二月晦。余約曽君抜虎至虎。・・大同陳東風君則以白銀笏十五贈余。爲豪義大可嘉者。蓋此君初與余爲一面之交也。” 1904年十二月晦日、私は約束通り曽抜虎の家に行った。・・続いて、「それまでに一度会っただけの陳東風もまた、白銀15枚(当時のベトナム貨幣は銀本位)を持って別れに来てくれた。大変有難かった」と書かれ、更に、”戊申五月初二日。學院中乂安留學政陳東風、忽棄校自死。懐中有遺書、用國語文。意謂君家富有財票鉅萬。而近日校中學費、全仰給於南圻。君屢寄書囘家。勸其父以張子房爲國之事。而父不置答。君不能以富家子忍恥偸生也。特自盡以明志。同胞皆哀之。聯三圻人行會葬禮。日本陸軍中佐丹波、衆議院議員柏原文太郎等、及中華留學生皆參與會葬禮。日本爲竪石碑。刻文於墓前云。越南志士陳東風之墓。”と、陳東風の自殺について、著している。

(写真下:雑司ヶ谷霊園案内板と霊園入口の一つ:東京都豊島区南池袋4丁目)<*2024年7月21日午後訪問撮影>

(写真下:一種四A号四側十四番の陳東風の墓への入り口。墓は写真真ん中の道の奥の右側<*2024年7月21日午後訪問撮影>

(写真下:雑司ヶ谷霊園の陳東風の墓の前の雑草と霊園管理事務所からの気になる看板<*2024年7月21日午後訪問撮影>
「この墓所のご縁者様は、下記番号をお控えのうえ霊園事務所にお立ち寄りください」と書かれている気になる看板。


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