メコン圏現地作家による文学 第9回「最後のパトロール」後編(ゴー・バンコク 著(ワシット・デートクンチョン警察大将)、野中耕一 訳)

メコン圏現地作家による文学 第8回「最後のパトロール」前編(ゴー・バンコク 著(ワシット・デートクンチョン警察大将)、野中耕一 訳)


タイ国境警察隊{最後のパトロール」上・下(ゴー・バンコク 著(ワシット・デートクンチョン警察大将)、野中耕一 訳、1991年1月、燦々社 刊)

本書『最後のパトロール』は、タイの警察大将ワシット・デートクンチョン氏(Vasit Dejkunjorn)による小説「Law War Sud-tai」(ロー・ウォー・スッターイ)(上・下)の邦訳作品。ゴー・バンコクはワシット警察大将のペンネーム。原書は、タイの月刊誌「チャウ・クルン」での連載後、1979年に単行本として刊行され、翌1980年にはユネスコ最優秀賞を受賞している。63章及び終章から成り、訳書上下巻あわせ700頁以上におよぶ長編。

 訳書副題にもある通り、本書はタイ国境警察隊を取り上げ、コミュニストと腐敗した警察組織内部の敵と戦うタイ国境警察の主人公ウィー・ブンテンの話。前編で紹介の通り、本書の読みどころの一つには、一般の人、さらに外国人には尚更知られていない国境警備警察隊の組織と活動の実態や、共産主義勢力が伸張していく1950年代前半から1970年代後半までのタイをめぐる内外情勢(下巻巻末にはこの小説に関連する関係年表が訳者によって作成されている)のある側面についての描写であろうが、主人公ウィー・ブンテンの考え方や生き方など、その個人の人間的な魅力も強烈だ。

 本書訳者の野中耕一氏も下巻のあとがきで、「なんといってもこの小説の魅力は、警察という特殊な官僚社会に働く主人公が組織の内外の敵を相手として敢然として戦うその姿と、彼の口をついて出る小気味のよい科白にあった。警察という上下関係の厳しい組織の中で、上官に向かって筋を通し堂々と自分の意見を主張する態度は、ほれぼれすると同時に、そこまでやって大丈夫かと、つい読者が心配するほどの辛辣さである。」と記している。この主人公ウィー・ブンテンは、犠牲的精神に富み、勇敢に任務を遂行し、戦いの場でも冷静な判断で、とても頼りになる指導者としての資質を十分に持ち、部下からの信頼も厚いと、なんとまあすごい人物で、公務にあたる人や社会各層のリーダーがこのような人ばかりだと、どんなに違うかと思わざるを得ない。仕事や任務への責任感や誇りが強く、国家に迫っている危険を気にかけつつ、部下に対する真剣な心配りと、非の打ち所がない。

 しかし、必ずしも順調に事は運ばず、いろんな問題に直面し閑職に回されたりもする。孤独にさいなまされ、失意に陥ったりもする。ウィーを愛する人があればそれだけに憎む人もいる。ウィー・ブンテンの率直さ、任務に対する正直さは、ある人々たちにとっては邪魔であり、敵となる。彼を陥れようという企てや彼への反発も強い。ダナイ司令官との長年にわたる確執をはじめ、いろんな人たちと衝突する。査問委員会にも何度かかけられたりもするが、納得のいかない警察局の彼への譴責命令に対し、ウィーも警察局を裁判所に訴えようとまでする。国に危機が迫っているのに、関心がなく権力や個人の運勢ばかり心配して、ある者は権力を争い、またある者は椅子を守り、権力を争ったりする状況に、ウィーの中で怒り・失望や焦燥が強まっていく。ウィーを理解を示す上司たちも「仕事というものは上にも下にも人がいるということを忘れてはいかん」とか「昔から流れに逆らうな、というだろう」などと、忠告アドバイスを与えたりもするが、あまり効き目もない。

 タイ東北部の基地の元軍事顧問でその後半官半民の調査機関で働いていたアメリカ人から、警察を辞めて一緒に働かないかとウィーが誘いを受ける場面がある。そのアメリカ人は、「君(ウィー)は理想主義者だ。君は君が正しいと思うことのために戦うのだろう。しかし、君は周辺の真実を見るべきだ。君のように考えている者がいったい何人いる?・・・・君のボスも君の何百何千という同僚も誰も国のことなんか考えちゃいない。考えているのは自分のこと、自分の女房子供のことだけだ。奴らは自分のポストを使って富と幸せとを築くことだけを考えてるんだ」と語り、警察での職務よりは自分がやりたいと思うことが実現できる可能性がはるかに高くなる道を選ばないかと誘ったりもしている。

 しかし、共産ゲリラとの戦いや組織内部での軋轢などにあけくれるだけではなく、ウィー・ブンテンの女性との恋も描かれている。タイ北部のギウ・グワーウ基地での国境警備警察中隊長時代に、愛する女性にめぐり合っていた。相手は、ウィーの部下と村の娘との結婚披露パーティーで知り合った、ソンポンという金持ちの実業家の娘チョーケーウだ。10年以上も封を切らないままになっているチョーケーウからウィへの手紙の内容も含め、彼女との恋の展開は最後まで気になるところだ。更にアメリカ西部の大学に留学していて休暇で帰国中にウィーとバンコクで出会う女性プラパットンが登場する。彼女は革命団司令部の陸軍の有名な将軍の娘であったが、チョーケーウとも知り合いだった。

 本書の上巻の第1章の冒頭は、年齢が45歳になろうとしていたウィー・ブンテン警察大佐が、”最後のパトロール”に加わる為に列車に乗りバンコクからタイ北部に向かう場面から始まっている。このパトロールから帰ったら、公務から身を引こうとしているということで、まさしく本書タイトルの通り「最後のパトロール」となる予定であった。この冒頭の場面から、警察仕官学校を卒業後、最初の任務につく時点に戻り、その後、時系列にストーリーが展開していく。そして終章も入れると全64章に及ぶ長編の中で、下巻の第53章で、この第1章の冒頭の場面につながることになる。多くの関係者に実行するように迫っても、努力しても、何の成果も得られず、旧態依然たるものがたくさんあったりして、ウィーは警察を辞めようと辞表を用意しているときにタイ北部の国境地区での突然のニュースに「最後のパトロール」に出向くことになる。尚、人気作家でもある著者ワシット将軍の作品の日本語訳書は本書が最初であるが、その後、同じ訳者・野中耕一氏により『巨象の舌を食いちぎれ』の訳書が刊行されている。また、本書はタイ文学作品の翻訳を早くから手がけてこられた野中耕一氏による自費出版活動の最初の作品で、そのいきさつについても下巻あとがきに記されている。

著者略歴:
本名 ワシット・デートクンチョン警察大将(Vasit Dejkunjorn)
1929年   東北ウドン県生まれ
1952
年   チュラロンコン大学政治学部卒
1954
年   ニューヨーク大学修士
1956年 中央情報局に勤務、 のち警察局
1970年 王室警察を拝命
1974年 警察少将
1975年 国境警備警察司令部 次長
1987年 警察局副局長
1989年 警察大将
1990年 内務副大臣
(本書紹介文より。訳書発行当時)

訳者紹介:野中 耕一(のなか・こういち)
1934年生まれ。1961年、東京大学農学部農業経済学部卒、同年アジア経済研究所入所。1965年~67年、タイ国カセサート大学留学。1977年~79年、アジア経済研究所バンコク事務所代表。1979年~80年、JICA専門家、タイ国メイズ開発計画に参加。1983年、「農村開発顛末記」により第20回翻訳文化賞受賞.。1990年~92年、タイ国チュラロンコン大学客員研究員。1992年~96年、アジア経済研究所理事。1997年~99年、川崎医療福祉大学客員教授

ストーリー展開時代
1950年代前半~1970年代後半

主なストーリー展開場所《下巻での主人公の任務場所》
タイ東北部
(⑩東北管区地方警察副司令官、国境警備担当:警察大佐)(⑪東北管区国境警察大隊長代行)
バンコク
(⑫地方警察司令部局付き地方各地の特殊作戦隊視察)(⑬国境警備警察担当、地方警察司令部付き)(⑭王室警察当直将校)
ナコン・シータマラート県
(⑮南部鎮圧混成司令部調整官)
タイ北部
(⑯北部の混成司令部への派遣)

作品の主な登場人物《下巻での主な登場人物》
・ウィー・ブンテン
・ダナイ少将とその妻(東北管区地方警察司令官)
・東北地方管区地方警察司令部の副官
・プラパットソン
・プラパットソンの父親(東北管区軍司令官の中将で混成司令部司令官)
・アピチャート警察少尉(警察局次長の甥)
・国境警備警察担当地方警察司令部副司令官
・トーマス・バーン (元プラヨート・ムアンクワーン基地のアメリカ人軍事顧問)
・「ロット・ルート」の食堂経営の女主人
・ドンクワーン村の村長
・ヤンヨン(ドンクワーン村の学校に駐在する警官)
・パホン中佐(後任のプラヨート・ムアンクワーン基地大隊長)
・ナロン(下士官)
・メーティー
・サムリー大佐(ラオスの士官)
・王室秘書局長
・バンチュート(プレー県の実業家)
・ウドムラープ・パーニッチャポンワッタナー中尉(北部の特殊作戦隊隊長)
・チョーン
・トット曹長
・ウワン特務曹長
・研修担当部長の少将
・ウィーの中学時代の友人の弁護士
・プラディト中尉(第105隊隊長)
・プラユーン特務曹長
・海兵隊の基地隊長の海軍大佐
・チャイワット特務曹長
・ラピー・ワンポンディー中尉
・ホアイ・ナムジェン村の村長
・カニカー(警察病院の看護婦)

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