「ラングーン爆弾テロ事件」(1983年10月)(1)
韓国政府要人・ビルマ閣僚が亡くなった1983年10月アウンサン廟で起った爆弾テロ事件
関連テーマ・ワード情報(歴史・国際関係、ビルマ) 2001年1月掲載
韓国の全斗煥大統領一行は、1983年10月8日夕方、南アジア太平洋地域6カ国(インド、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランドなど)歴訪の最初の訪問国であるビルマ・ラングーンに到着し、ビルマのサン・ユ大統領らの出迎えを受けた。韓国元首のビルマ訪問は、これが初めてで、順調に行けば、4日間の日程を終えて、10月11日には2番目の訪問国であるインドに出発予定であった。
ところが翌10月9日午前、世界を揺るがす大事件が、ラングーン(ヤンゴン)市の国立墓地のアウンサン廟(殉難者廟)で、起る事になる。アウンサン廟は、シュエダゴンパゴダの北側の閑静な丘の上にあり、建国の英雄アウン・サンらビルマ独立運動指導者9人をまつる墓所で、ビルマを訪問する国賓は、日程の最初に参拝するのが恒例となっていた。
こうして韓国政府要人列席のアウンサン廟で、1983年10月9日午前10時25分(現地時間)、廟の建物の天井に仕掛けられていた爆弾が爆発し、徐副首相ら4人の韓国政府閣僚をはじめとする多数の犠牲者を生む大惨事を引き起こした。しかしアウンサン廟で献花をする予定になっていた全斗煥大統領夫妻は、たまたまアウンサン廟への出発が遅れ、到着予定5分前に爆発が起り、大統領夫妻は危く難を免れた。
事件発生当時の発表では19人死亡(韓国側は4閣僚含む16人、ビルマ側は3人)、48人負傷(韓国15人、ビルマ側33人)であったが、後に韓国人とビルマ人の重傷者が亡くなり、最終的に死者21名、負傷者46名という惨事であった。韓国側は経済テクノクラート出身で若手ホープであった徐錫俊副首相兼経済企画院長官ら4人の閣僚や他政府関係者たちが亡くなり、当事件は韓国政府要人暗殺テロ事件と言われてはいるが、実はビルマ側にも多くの死傷者が出、アウン・チョウ・ミン情報文化相、タン・マウン情報文化省次官など閣僚・政府関係者も亡くなっている。
事件後、全斗煥大統領は、その後の歴訪を中止し、同日(10月9日)夕、特別機で帰国した。韓国政府は事件が起った当日(10月9日)午後、緊急閣議(金首相が主宰)を召集し、全軍と警察に、「非常警戒令」を発令するとともに、「(同事件は)全斗煥大統領の暗殺を狙った朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の陰謀」と、早々と発表する。一方、犯行については、北朝鮮の関与説、韓国の反政府勢力の犯行説、ビルマ国内のカレン族などの少数民族反乱勢力、ゲリラ展開を続けるビルマ共産党、ネ・ウィン前大統領に次ぐビルマNO.2と目されながら当時失脚したばかりのティン・ウ准将の支持グループ、更には全斗煥大統領の自作自演説などの憶測が飛び交う中、ビルマ政府による事件究明が進められていくが、この進展については次回紹介する。
尚、ビルマは、1975年5月同じ時期に南北両朝鮮と外交関係を樹立しており、事件当時ラングーンには北朝鮮、韓国双方の大使館がそれぞれあったが、ビルマはいずれの国にも大使館は設定せず、北朝鮮は駐中国大使が兼任し、韓国は駐日ビルマ大使が兼任していた。非同盟中立を標榜していたビルマは、北朝鮮との関係は、事件前はかなり友好的なものであった。
参考文献:1983年10月の日本主要各紙
●死亡した韓国人
事件発生直後の発表時 韓国側死者計16名 後に1人死者数増える
・徐錫俊 副首相(兼 経済企画院長官) ・李範錫 外相 ・金東輝 商工相 ・徐相喆 動力資源
・咸秉春 大統領秘書室長 ・金在益 大統領府経済担当首席秘書官 ・閔丙錫 大統領主治医
・李啓哲 駐ビルマ大使 ・沈相宇 民正党総裁秘書室長 ・河東善 海外経済協力企画団長
・姜仁熙 農水産省次官 ・金容澣 科学技術処次官 ・李在寛 公報秘書官
・李重鉉 東亜日報写真記者 ・韓秉熙 大統領警護隊員 ・鄭泰鎮 警護員