メコン圏を舞台とする小説 第53回「享保貢象始末」(堀 和久 著)

メコン圏を舞台とする小説 第53回「享保貢象始末」(堀 和久 著)


「享保貢象始末(きょうほうみつぎぞうしまつ)」(堀 和久 著、文春文庫<文藝春秋>、1995年9月発行)

<著者紹介> 堀 和久(ほり・かずひさ)*(1931年~2018年9月)<本書著者紹介より。本書発刊当時>
昭和6(1931)年、福岡県に生れる。日本大学芸術学部映画科を中退のあと、芸能プロダクションの企画部、浅草フランス座・ロック座の宣伝部、シナリオライターまた映像ディレクターなどを経て執筆生活に入る。昭和52年、「享保貢象始末」で第51回オール讀物新人賞、平成6(1994)年、「長い道程」で第2回中山義秀文学賞を受賞する。綿密な時代考証をふまえたユーモアあふれる歴史読み物、時代小説には定評がある。著書に「軍師の時代」「大久保長安」「春日局」「夢空幻」「立身出世」「織田有楽斎」「中岡慎太郎」「江戸風流医学ばなし」「死にとうない」「大岡越前守」などがある。*2018年9月17日、慢性腎不全のため死去。享年87歳

本書の著者・堀和久 氏(1931年~2018年)は、福岡県北九州市出身で日本大学芸術学部映画科を中退のあと、芸能プロダクションの企画部、浅草フランス座・ロック座の宣伝部、シナリオライターまた映像ディレクターなどを経て執筆生活に入り、1977年(昭和52年)「享保貢象始末」で第51回オール讀物新人賞を受賞してデビュー。受賞後10年目の1987年(昭和62年)千枚の長篇「大久保長安」(講談社)が注目されてからは、書き下ろしの歴史・時代小説に専念。1994年(平成6年)には、天保の改革期に実在した勘定奉行の田口喜行を描いた「長い道程」で第2回中山義秀文学賞を受賞。数多くの歴史・時代小説以外にも、「江戸風流医学ばなし」など「江戸風流」シリーズともいうべき歴史雑学集でも知られていて、綿密な時代考証をふまえたユーモアあふれる歴史読み物、時代小説には定評がある。「大久保長安」「春日局」「夢空幻」「死にとうない」と、4作が、1988年の第98回、1988年の第99回、1989年の第100回、1991年の第104回と、直木賞候補に4度、選ばれている。

本書「享保貢象始末」(きょうほう みつぎぞう しまつ)は、江戸中期の頃の侍と庶民の暮らしの哀歓をほのぼのとユーモラスに描く7編の短編時代小説集で、1995年9月に文春文庫として刊行されている。著者にとっては、「秘術聚楽第」(文藝春秋)、「滅びの岬」(新人物往来社)に次ぐ3冊目の短編集。本書の短編集に収録されている江戸時代の時代小説7編は、年代順に収録されていて、「巡見使異聞」(「オール讀物」1988年7月号)、「廃藩奇話」(「オール讀物」1978年9月号)、「元禄犬侍」(「オール讀物」1979年11月号)の3編は、5代将軍綱吉(1646年~1709年:在位1680年~1709年)の元禄時代(1688年~1704年)。「据え膳」(書き下ろし)、「享保仙人茶屋」(「小説新潮」1988年1月臨時増刊)、「享保貢象始末」(「オール讀物」1977年12月号)の3編は、8代将軍吉宗(1684年~1751年)治世(在職1716年~1745年:享保・元文・寛保)の時代。最後の「貧乏神」(「小説新潮」1992年2月号)は、10代将軍家治(1737年~1786年:在位1760年~1786年)の安永(1772年~1781年)初頭。

このうちの表題作の短編「享保貢象始末」(きょうほう みつぎぞう しまつ)は、「オール讀物」1977年12月号に初出発表され、この作品が1977年に第51回オール読物新人賞を受賞し、著者にとり作家デビュー作となった記念作品。八代将軍吉宗の時代にベトナムから献上された象とその世話役の数奇な運命を描いたフィクションだが、8代将軍徳川吉宗の命で、江戸幕府は享保年間、長崎で通商を行なう清国商人に象を発注し、享保13年(1728年)6月13日、ベトナム中部の広南国(広南阮氏)より、オス、メスの2頭の子象を乗せ、清国商人の鄭大威の唐船が長崎港に到着した歴史事実がモデルとなっている。歴史事実では、安南人(ベトナム人)の男女2名の象使いに、福建省・広東省出身の2名の清国人の通訳も同行。長崎に上陸後は唐人屋敷に入るも、2頭のうちメスの象は、この年の9月11日に長崎で病死してしまうが、オスの方は長崎で越冬。中部ベトナムの広南産のオスの象は、翌享保14年(1729年)3月13日、陸路で江戸に向かい長崎を進発。3月25日には船に乗り関門海峡を渡り、象は、享保14年(1729年)4月20日に大阪に入り、更に同年4月26日に入京。こののち、象は享保14年(1729年)4月29日に京都を出発し陸路で東下し、江戸には享保14年(1729年)5月25日に到着している。尚、本書表紙は、江戸に出回った「象のかわら版」(江戸三十間掘 象潟屋清八発行)を転載している。

象は、到着にあたって江戸市民の熱狂的な歓迎を受け、市中往来を練り歩いたのち浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)に収容された享保14年(1729年)5月27日には、将軍徳川吉宗は象を江戸城に召し、象と対面。5月27日江戸城内で将軍上覧があった後、象は浜御殿で飼われることになった。が、飼育費などの経済的な負担もあって、享保15年(1730年)6月30日には、早くも象払下げの触が出されるが、10年以上も払い下げ先が定まらず、また、寛保元年(1741年)には象が象使いを叩き殺すという事件も起こり、象は中野村(現在の東京都中野区)の百姓源助に払い下げられた。結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになる。象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや、象小屋)を建てて寛保元年(1741年)2月に完成し、4月27日に引き渡された。しかし、約1年8カ月後の寛保2年(1742年)12月13日に、オスの象は中野村で病死している。

これに対し、本作品「享保貢象始末」では、ストーリーの主たる舞台は、多摩郡中野村(現・東京都中野区)で、主たる登場人物には、中野村出身の源助が象使いになり、江戸幕府による浜御殿での飼育の後は、中野村の源助に象が払い下げられていることなどは、歴史事実に似た枠組みになっているが、中野村出身の源助が、どういう経緯で象に関心を持ったのか?どういうわけで象使いになれたのか?また、象が払い下げになってからの中野村での狂騒ぶりなどが、小説として、面白く創作されている。ベトナムのオスの象が、将軍への献上として、享保14年(1729)初夏に江戸に到着する辺りから、本作品のストーリーも始まり、歴史事実に合致もしているが、歴史事実では、江戸幕府により浜御殿(浜離宮)で約12年飼育された後、中野村の源助に払い下げられ、象は、寛保2年(1742年)12月13日に中野村で病死していることに対し、本作品のストーリーでは、幕府から中野村に払い下げがあるのは、享保15年(1730年)春で、象と源助とも享保15年(1730年)12月12日に亡くなる設定。

本書小説での中野村出身の源助は、幼い頃両親をはやり病で亡くし、中野宿場の下宿のあばら小屋に一人住んで、幼いころから宿場の雑用で飢えをしのぎ、長じても人のいやがる駅場人足を引き受けて、力自慢に生きていた小柄な若者。怒ると手のつけられない暴れ方をするが、平常はコマねずみのように体を動かす、無口で、骨おしみしない気のいい働き者だったが、源助が19歳の享保12年(1727年)、16歳だった中野村の名主・堀江卯右衛門の一人娘・お千代が、源助をからかい、「この日本にないものを持ってきたら嫁になってあげる」と、悪い冗談を言ったことがきっかけで、源助は、お千代を押し倒し馬乗りの形で肩を押え、「龍でも象でも持ってきてやるわい」と叫んでしまうが、それが為に村の人たちから袋叩きの半殺しの目にあい、そのまま村から出奔していた。

それから2年、享保14年(1729年)の初夏、江戸は将軍様上覧の大象の噂でもちきりとなっている中、多摩郡中野村から出奔していた源助が、象を連れて江戸に戻ってくることになり、しかも、行列の荷物人足の一人としてではなく、象の上に乗り象を扱う象使いとなって江戸入りしてきた。中野村を出奔した源助が、享保12年(1727年)夏、長崎へ赴任していく長崎奉行の行列に、挟み箱をかつぐ小者の代わりで供に加わるが、それから、源助がどうやって、象狂いで象使いのポジションを獲得できたかという創作ストーリーも面白いし、歴史事実としての当時の江戸や各地の象ブームの様子も非常に興味深い。

が、これらの話はあくまで前段で、本小説の醍醐味は、後半の江戸幕府から中野村に象が払い下げらえた後の中野村の狂騒ぶりと推移の描写かと思う。見物小屋だけでなく、象の糞を薬にするだけでなく、象の餌の餡なし饅頭、天下祭りや芝居からの象騒ぎの再燃、関連の各種グッズや飲食物の開発などの話は、ビジネスマーケティングの話としても面白く、貸し便所屋が流行る話には驚く。源助が、本作品の主人公かと思っていたが、同じ多摩郡中野村の若き医者である右二郎が、最初は、源助とお千代を良く知る脇役かと思いきや、中野村に象が払い下げされてからの象ビジネスを展開し狂騒の中にいた人物として、ある意味、本作品の主人公かもしれないと思える後半のストーリーの展開。オス、メスの2頭のベトナムの象が長崎に到着するもメスの象は長崎で病死という歴史事実も、ストーリーの終盤では活かされる。象の払い下げがあった中野村の様子については本サイト内の関連記事を参照。 ⇒「広南従四位白象と象小屋(象厩)の跡(東京都中野区本町)・宝仙寺(東京都中野区中央)」

なお、他の収録作品は、メコン圏に関係するものではないが、どの時代小説の短編も、江戸中期の頃の侍と庶民の暮らしの哀歓をほのぼのとユーモラスに描いていて、非常に味がある作品ばかり。「巡見使見聞」では、富士山麓の高泉村を舞台とした幕府による諸国巡見使と聖者仁徳者捏造絡みの話で、「廃藩奇話」では、実在の外様大名1万石の小藩である和泉陶器藩(4代約90年で1696年に無嗣のため改易)の4代藩主・小出重興(1663年~1696年)をモデルとした小説。「元禄犬侍」は多摩郡中野村が舞台で、貧しい百姓の末っ子の厄介者だった男が、生類憐みの令のおかげで、お犬役人に出世した男のその後の話。「据え膳」は、九州の外様陪臣の3男坊の江戸遊学での武家内職にまつわる話。「享保仙人茶屋」は、脚気の流行と高尾山参詣に関わる峠の茶屋の盛衰の話。「貧乏神」は、窮乏する旗本の儲け話に乗っかってしまう顛末の話。

目次
巡見使異聞
廃藩奇話
元禄犬侍
据え膳
享保仙人茶屋
享保貢象始末
貧乏神

ストーリーの主な展開時代
・享保14年(1729年)~享保15年(1730年)12月
ストーリーの主な展開場所
・多摩郡中野村(東京都中野区)・品川宿 ・江戸城 ・浜御殿(浜離宮庭園)・長崎

「享保貢象始末」ストーリーの主な登場人物
・源助(多摩郡中野村出身の若者で、象使い)
・広南従四位白象
・お千代(多摩郡中野村の名主の一人娘)
・右二郎(多摩郡中野村の上宿鍋屋横丁の養生所の若先生で、父親の見習い医者)
・山庵(多摩郡中野村の上宿鍋屋横丁の養生所の医者で、右二郎の父)
・堀江卯右衛門(多摩郡中野村の名主)
・多摩郡中野村の村人たち
・安兵衛(多摩郡中野村の31歳の村役人で、お千代の婚約者。名主の一族)
・徳川将軍吉宗
・鄭大威(唐商人)
・渡辺出雲守永倫(長崎奉行)
・品川宿での道中奉行の配下や町役人たち
・唐人の長の象使い
・唐人の副の象使い
・通詞
・譚薮と譚綿(広南人の若い兄弟で、長と副の象使いの召使を兼ねた助手)
・将軍家別邸の浜御殿(浜離宮庭園)の厩番の小者たち
・伝吉(浜御殿の象頭・源助の手下の若者)
・浅草の押立屋平右衛門(象の糞払い下げを受けた薬種屋)
・内藤新宿はずれの柏木屋弥兵衛(象の糞払い下げを受けた薬種屋)
・日野小左衛門(中野村の支配代官)
・伊左衛門(源助の伯父)
・宝仙寺住職・良忍和尚
・右二郎の御府内の懇意の外科医
・中野村の名主年寄衆
・中野村の門前商人たち
・中野村の村役人たち
・中野村の下請百姓たち
・寺社奉行黒田豊前守直邦家中
・中野村の代官所からの手代衆
・ご府内から出張りの同心や岡っ引き
・寺社奉行下役
・ごろつきたち
・象見物の親子連れ
・宝仙寺の寺僧

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