メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第36回「イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録」(絵と文:レオ・ローリングズ、訳:永瀬 隆 )

メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第36回「イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録」(絵と文:レオ・ローリングズ、訳:永瀬 隆 )


「イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録」(絵と文: レオ・ローリングズ、訳: 永瀬 隆、社会思想社<現代教養文庫1109> 、1984年6月発行)

<訳者略歴> 永瀬 隆(ながせ・たかし)(1918年~ *2011年)<本書訳者紹介より、本書発行当時>
戸籍名、藤原隆。1918年2月20日、岡山市福田に生れる。岡山二中、青山学院文学部卒。太平洋戦争勃発とともに、陸軍通訳を志願、南方軍総司令部付。1943年3月、泰緬鉄道建設作戦要員として、タイ国駐屯軍司令部に充用さる。参謀部情報室、および南方軍第二憲兵隊カンチャナブリー憲兵分隊に勤務。捕虜の思想動向の情報収集に当たり、戦後タイ国終戦処理司令部付。復員後、千葉県立佐原第二高校勤務、帰郷し、倉敷市にて私塾青山英語学院を経営し30年。その間、泰緬鉄道の捕虜の慰霊行脚22回目にして、元連合軍捕虜たちとクワイ河鉄橋にて再会す。

本書の訳者・永瀬 隆 (1918年~2014年)氏は、戦時中、陸軍憲兵隊通訳としてカンチャナブリー憲兵分隊に勤務し泰緬鉄道建設に従事、また敗戦後も連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事するが、復員後、多くの犠牲者を出した泰緬鉄道建設の悲劇の贖罪と和解の活動に一生をささげ、またタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動を長年にわたって続けた社会活動家。永瀬隆 氏は、1918年、岡山市の医家に生まれ青山学院文学部卒で、太平洋戦争勃発とともに陸軍通訳を志願。復員後、米軍の通訳、高校の英語教師などを務め、昭和30年(1955年)倉敷に帰り、私塾の英語学校経営を始めるが、一般人の海外渡航が自由化された1964年からは、日本人が戦時中に行ったことを悔い、犠牲者を慰霊するため、タイへの巡礼を始め、1976年には建設現場の一つであるクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者が再会する事業を実現。また、復員にあたってタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動など、息の長い草の根活動を続ける。

本書「イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録」は、社会思想社の教養文庫として1984年に出版されているが、その出版の経緯は、本書の訳者あとがきに詳しい。永瀬隆 氏が進めた1976年のクワイ河での旧日本軍関係者と元捕虜との「再会」事業の後、この計画に賛成してくれた数少ないイギリスの元捕虜ビル・ダンカン氏から、彼の友人の画家、レオ・ローリングズ(Leo Rawlings)氏の書いた「And The Dawn Came Up Like Thunder」(1972年)という本を受け取る。著者自身の筆になる絵、しかも日本軍の目を盗んで描き、体を張って保管した絵がふんだんに使ってあり、写真よりずっと迫力があることに驚き、この本を出帆するのが、泰緬鉄道に関わっていた自分の義務と考え、そこでダンカン氏の尽力を得て、著者より翻訳権を買いとる。そして、1980年に『泰緬鉄道の奴隷たち』と題して自費出版し、1200部を印刷。広島県と沖縄県からの申し込みが多くあり、また自費出版書を一般書として出版するよう勧められ、機会を得て、教養文庫『クワイ河捕虜収容所 ー 地獄を見たイギリス兵の記録』と改題して、1984年に社会思想社の教養文庫として出版された。

原著者レオ・ローリング氏については、巻末に5頁にわたって「著者紹介」が記されている。それによると、レオ・ローリング氏は、1918年5月16日、英国バーミンガムに生れ、その後、彼の家族は英国北部に移り、ブラックプールに居を定め、そこで夜学に通い、美術関係の学科の講座にできる限り出席聴講し、昼は徒弟奉公の看板描きとして働き、17歳で風景、装飾画家として一人立ちをし、ブラックプールの街では将来を属目されていた。が、ヨーロッパ大陸でのナチスの台頭、ミュンヘン危機に臨んで、ブラックプール陸軍訓練部隊に入隊し、英陸軍第137野戦連隊砲兵隊付通信兵として教育され、かれの連隊は、英国の各地に駐屯したが、1941年9月、かれの連隊は、シンガポール守備の支援部隊として海外派遣され、シンガポール上陸後2.3日で日本は宣戦布告。彼の部隊はマラヤ北部の前線へ送られ、その後数週間、1942年2月15日のシンガポール陥落まで、つねに後衛として奮戦し、絶望的な戦闘を闘った。この戦闘中、あるいはその合間を広い、画家としての彼は、周囲の戦場の場面を精密に描く工夫をこらし、また恵まれた才能で写実的に記憶した。シンガポールで捕虜となった直後、この絵画が中将ルイス・ヒース卿の知るところとなり、中将は自身の経験に照らし、将来戦争犯罪が起きた場合、完全な証拠の必要を感じ、ローリングズにそれの関係絵画を記録しておくよう私的に命じたとのこと。どうやって隠れて絵を描き、筆など画材をどうしたかとか、どこに隠していたかも驚きだが、終戦後、本国に帰還できてからの彼の絵画がどうなったかについても記されている。

本書の構成自体は、各ページ見開きで右ページが文章、左ページが頁大のイラスト絵画という構成で、122枚ものイラスト絵画が掲載されている。そのうち、表表紙に使われているイラスト絵画は、その中の、クワイ河での架橋作業と奥地の架橋工事のイラスト絵画。本文記事とイラスト絵画は、鉄道鉄道の捕虜収容所やクワイ河の架橋工事の頃だけではなく、現著者が1941年12月、マラヤ北部の戦闘の頃から始まり、連合軍の敗退、退却から1942年年2月のシンガポール陥落までが、全9章のうち、第1章から第4章までとなっている。シンガポール陥落の後、その後はどうなるのかと不安がる連合軍側の兵士たちだが、”中国における日本軍の残虐行為は悪名高い。またマラヤの戦闘の際にも風聞がある。あれは単なる連合軍側の宣伝にすぎなかったのだろうか。「命令を守りさえすれば、日本軍は捕虜を良心的に待遇する」と日本軍の伝単はいたるところでわれわれ連合軍に告げていた。われわれはそれを信じたと思う。なぜならばそう信じたかったからだ。”と書かれ、”とも書く日本はジュネーブ会議に参加はしていた。希望的観測だが、日本はわれわれ捕虜を正当に待遇するだろう。”と、当時、前線では連行軍側の捕虜がそのように思っていたとは驚き。なので、第5章が「待望の奥地移動開始」と違和感あるタイトルになっていることも初めて理解できる。原著者がシンガポールの捕虜収容所に収容されていた時に、日本軍将校が連合軍将校に「新しい立派な収容所がタイ国に建設された。これは捕虜の患者用のものである。全捕虜がこの収容所に入所志願できる」と布告し、現著者も、幸運なる志願者となるためにタイ行きを志願。

休息用キャンプと信じていたものの、全く話が違い、タイの奥地のジャングルへの強制移動から、劣悪な泰緬鉄道建設のための捕虜収容所での生活や、悪名高いクワイ河の橋の建設工事の様子が、第6章、第7章で取り上げられいる。この泰緬鉄道建設に従事させられた連合軍の捕虜(東南アジア各国から連れてこられたアジア人労務者の存在は見過ごされてはならないが)の劣悪環境の収容所生活や、難工事の泰緬鉄道建設工事の過酷さが、本書の中心的なテーマではあろうが、中でも、本書で驚愕すべき内容は、第8章の「医療、その状態と疾病」の内容。この章は、50頁以上にわたる内容で、コレラ、赤痢、熱帯性潰瘍などから、ジャングル傷、皮膚病、脚気、ビタミン欠乏症、マラリヤ脳症などの疾病の症状、ジャングル便所などの不衛生な環境、貧弱な医療など、実に生々しく、その地獄のような悲惨な状態が微に入りイラスト絵画としして描かれている。日本軍の捕虜に対する扱い、待遇が如何に酷かったかということが綿々と綴られている。原著者自身は、1944年9月、奥地の泰緬鉄道から離れた収容所にいたが、連合軍軍医が、日本軍に、赤痢、潰瘍の重症患者をすぐにシンガポールに送還するよう提案していて、そうすることがまた作業隊員に多量の食糧を与えることになると説得してくれたおかげで、シンガポールへの送還患者の一人になれたという。日本軍が同意した背景にも、当時のイギリス外相、アンソニー・イーデン氏の、連合軍捕虜に対する日本軍の残虐行為はこれ以上見過ごせず、それ相当の責任を日本軍にとらすという警告声明の影響があったと付記している。最終章の第9章「シンガポールへの帰還」では、捕虜生活を振り返った文章も多々見られる。

本書の冒頭には、ルイス・マウントバッテン(1900年~1979年、イギリスの海軍軍人で、第二次世界大戦中に東南アジア連合軍最高司令官を務め、日本軍からビルマを奪還)による序文が寄せられているが、”永瀬隆氏と本書を頒ち合うことができるのは、私の大きな特権であり名誉である。”と書き始める「日本の読者へ」と題する現著者の文が寄せられている。また、巻末には原著者による「日本語訳のためのエピローグ」で、”永瀬隆氏の翻訳で、私のこの本を読まれた日本のみなさまに、私はこう申し上げたい。数年前、私は日本帝国陸軍の捕虜として得た経験の総括をこの本に書きました。私は日本的なものをすべて憎悪してきました。たとえ日本人に会うことがあっても、私は話しかける気にもなれませんでした。さていま、永瀬隆氏を知り、彼を通じて、私はあなた方の国と国民を新しい角度から理解してみるようになりました。あなた方日本人も、戦争中また戦後を、英国の私や私の国民と同様に苦しんでいます。私は、これらの経験が生かされて、この混乱した世界から、いま現れている新しい世代が、歴史の新しいページを開き、後から来るすべての人々に模範を示してくれることをかたく信じます。私は、以前私の身の上に起きたことについて、今ではどんな日本人にも憎しみは抱いていません。私はこの日本語訳が、平和と友情の意志表示として受けとってもらえるように心から希望し、また世の中の善意と、歴史の意義を知ろうとされる方々に、多少ともお役に立つのではないかと存じます。”と書かれていて、多少救われた気持ちになる。

「クワイ河」の由来 <本書での解説より。本書発行当時>
もともと、この河はメ・クロンと呼ばれていた。タイ語で、メは”母”、クロンは”運河””水路”の意味である。したがって、メ・クロンは”母なる水路”というべきか。メ・クロンはタイランド湾より内陸に入り、ラッブリーを経て、北西にカンチャナブリーに至って、ケオ・ヤーイ、ケオ・ノーイに分流する。大きな流れ、小さな流れ、ということである。お気づきのように、ケオ・ヤーイの英語なまりがクワイとなったものである。映画「戦場にかける橋」の原名”クワイ河にかかる橋”で、一躍有名となり、現地の人々までクワイ河と呼ぶようになっている。中国語では桂河と書く。ちなみに泰緬鉄道は、カンチャナブリー西郊で、ケオ・ヤーイ、つまりクワイ河を渡り、ケオ・ノーイの右岸に沿ってビルマ国境に達していた。現在ではタイ国鉄ナムトク線として、1日2往復が運行されている。(訳者)

目次
日本の読者へ
序 ルイス・マウント

プロローグ
第一章 マラヤの戦闘
第二章 スリム河およびケダーの戦闘
第三章 退却はつづく
第四章 最後の要塞シンガポールの陥落
第五章 待望の奥地移動開始
第六章 鉄道捕虜収容所
第七章 クワイ河の架橋工事
第八章 医療、その状態と疾病
第九章 シンガポールへの帰還
エピローグ

著者紹介
訳者あとがき

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