メコン圏の写真集・旅紀行・エッセイ 第30回「東南アジア歴史散歩」(永積 昭 著)

「東南アジア歴史散歩」(永積 昭 著、東京大学出版会、1986年6月発行)

<著者紹介>
永積 昭(ながづみ・ あきら)<発行掲載時、本書紹介より> (1929年~1987年*)
1929年、東京に生れる。1954年、東京大学文学部卒業。1967年、コーネル大学大学院修了 Ph.D. 現在(発行当時)東京大学文学部教授。専攻:東洋史学・東南アジア史
主要著書:「オランダ東インド会社」(1971年、近藤出版社)、「東南アジアの歴史」(現代新書、1977年、講談社)、「インドネシア民族意識の形成」(1980年、東京大学出版会)
<*1987年7月10日、直腸ガンで逝去。享年58歳>

本書の著者の永積昭(ながづみ・あきら)氏は、東京大学部文学部教授で、専門はインドネシア近・現代史研究ながら、東南アジア史の総合的叙述にも積極的だった東南アジア史の歴史家。本書刊行が1986年6月で、その翌年1987年7月10日、定年を前に享年58歳で、直腸がんで逝去。本書発行のいきさつについては、あとがきに書いてあるが、もともと、ジェトロ(日本貿易振興会)の出版事業部の方から、ジェトロで発行している月刊雑誌「海外市場」(途中で「ジェトロセンサー」に雑誌名変更)での東南アジアの歴史についての随筆の相談を著者が受けたことからスタート。1984年4月号から1986年3月号まで2年間、「東南アジア史の散歩」というタイトルで連載。そして、東京大学出版会から、この連載のエッセイを単行本にまとめることとなり、24ケ月分全部ではなく16回分を選び14話にして、1986年6月に刊行となった。

気楽な本で肩の凝らない読みもので、東南アジアへの親しみを感じてもらうという目的・狙いがあったからか、テーマの切り口や、エッセイの話の流れが非常にユニークで面白く、テーマに関連した、いろいろな面白い話が散りばめられ、軽やかにつなげていく形で、まさに自由気ままの気楽な、文字通り東南アジア歴史散歩というタイトルにふさわしい内容。各話につけられたタイトルから想像するテーマ内容も、最初は、「華僑・華人・華商」「象と東南アジア」「アヘンのけむり」「竹のなかで暮らす」など、東南アジアの特定国の特定テーマについてではなく、いかにも国を超えた東南アジアについての共通テーマについてのエッセイかと思いきや、各話のタイトルだけからではどんな話が展開されるのか、想像つきにくいタイトルも続々と登場し、さらには、タイトルから想像する話の内容とは異なる意外な角度からの話が次々に飛び出してきて、さすが博学で東南アジア史の総合的叙述にも積極的だった東南アジア史の歴史家によるエッセイと感心する。

「第7話 鶏のとりもつ縁」などは、ダジャレのようなタイトルから、最初は、”島崎藤村はよほど鶏の好きな人だったらしい”と始まり、伊勢物語の「夜も明けば狐に食えなむ」で始まる妻の後朝の怨みがこもった歌に触れてから、鶏の原産地はインド、東南アジアあたりで、日本史に登場する鶏は、東南アジアとの縁が深いという話になり、愛玩用に飼われるチャボ(漢字では矮鶏)がなぜこの名で呼ばれるかについての諸説を紹介。そして、杉本直治郎氏(1890~1973)によるチャボの名称がインドシナ半島の古代の王国チャンパーに由来することを論証した論文と説を詳しく説明し、チャボから、チャンパとチャム族の話題にも触れる。さらに、鶏をめぐる日本と東南アジアのつながりとして、日本で闘鶏に使われたシャモはシャムロ(暹羅、タイの古名)に由来という話に転じ、伊藤若沖(1716~1800)の有名な「群鶏図襖絵」には、鎖国時代ながら、中国原産の錦鶏とともに、シャモもチャボもそれぞれ雌雄で描かれていることを紹介。この話の最後は、民族学者・大林太良氏(1929~2001)の東南アジア各地の神話伝説を詳述した著書「シンガ・マンガラジャの構造」の中での鶏の神判の話”断末魔の鶏”には驚愕する。

「アンナとシャム王」原作の「王様と私」を想起させるようなタイトルが付いた「第9話 王様とハダシ」では、「ハダカで失礼します、古橋です」という名セリフの水泳の古橋広之進氏の話題から、身体の中で人目にさらす部分、かくす部分のかねあいは、民族によって千差万別と述べ、靴を脱ぐか脱がないかということが、かつてイギリスはビルマでかなりの面倒を引き起こしていたという話の紹介につなげている。尊敬のしるしに履物を脱ぐということと、靴を脱ぐことが脱ぐ当人にとって非常な侮辱と受け取られることの対立の話で、イギリスの使節団がビルマ国王に拝謁する場合に、宮中で靴を脱ぎ王の面前で膝まづくのが習慣だったが、19世紀の3次にわたる英緬戦争の中での2次と3次の間の1875年にコンバウン朝ビルマ第10代国王・ミンドン王(1814~1838)在位の時に起こったイギリスとの靴をめぐる大きな対立の問題。”あえて土足で聖域に踏み込まずにはおかないのが植民地支配というもの”と、文章のまとめ方も面白い。

「第12話 衆道盛衰記」には、テーマと言うか、タイトルから驚いたが、更にそこで紹介される数々の歴史的事実は、もっと衝撃的だった。交流・直流両用?という話から、旧約聖書の創世記に現れるソドムの町の話に触れ、キリスト教の厳しい戒律が支配した中世以降のヨーロッパでは男色はご法度と、この点についての東西の文明はたがいに遠ざかっていくと述べ、男色の罪と罰を話題にする。そして、オランダ東インド会社の事件簿の歴史史料から、男色の事件と刑罰の重さの話に移るのだが、オランダのロッテルダムの出身でオランダ東インド会社の職員で優秀で、要職を歴任して、総督に次ぐ高官の参事会員までになったヨースト・スハウテンの話となる。1628年にシャム(現在のタイ)のアユタヤ朝の国王のもとへ派遣された使節として初めて史料に彼の名は現れ、その年のうちに彼は、台湾の権益をめぐる日本とオランダとの間の紛争解決のために日本へ来て4年間滞在した後、バタヴィア(ジャカルタ)に帰り、1634年には再びシャムに派遣されて、アユタヤのオランダ商館長を2年務め、その間の見聞を記し1638年にオランダで出版された『シャム王国記事』は今でも研究者に利用されることの多い名著とされる。しかしながら、、ヨースト・スハウテンが男色にふけっているという事実が発覚し、1644年7月頃、バタヴィアで絞首刑に処せられ、死骸は焼かれ全財産は没収と極刑に処せられた。なお、本人の懺悔によれば、シャムで男色の悪習を覚えたとのこと。

「第1話 華僑・華人・華商」は、「第5話 メッカへの旅」と並んで、月刊誌連載での2号分が一つにまとめられているため、他の章よりは文章量が多くなっているが、まずは、華僑・華人・華裔・華族など、名称の問題を提示。英語でOverseas Chinieseと言う場合とは違って、「華僑」という漢字には「かりずまい」の意味があり、いずれは故郷に帰る中国人という意味を含んでしまい、すでに東南アジアに数世代居ついた人々には、この名称は実情に合わないが、いまだに「華僑」という文字をあまり深く注意せずに使っているのは日本人だけではあるまいかとの指摘。「華人」の呼称も、数世代を経て純血の中国人は意外に少なく、中国本土の人と同じつもりで華人と呼ぶことは誤解を招きかねないとも指摘。それから、東南アジアの小説の中で、タイに住み着いた中国系住民に関係ある物語として、『タイからの手紙』(ボータン著、富田竹二郎訳)、『中国じいさんと生きる』(タン・コクセン著、白水繁彦訳)も挙げながら、タイ国王ラーマ6世(ワチラーウット王、1881年~1925年、在位1910年~1925年)が1914年7月に、英語とタイ語で表した小論文「The Jews of the Orient」(東洋のユダヤ人)を発表し、タイにおける華僑の活動を批判したことを紹介している。

「第2話 象と東南アジア」では、王者の乗り物としての象として、白象こそ国王にふさわしい乗り物と、タイのアユタヤ王朝(1351年~1767年)と隣国ビルマのタウングー王朝(1510年~1752年)との白象をめぐる両国の長年にわたる死闘の話が取り上げられ、アユタヤ王朝の祖国再興の英雄ナレースワン大王(ナレースエン)(1555年~1605年)のビルマ皇太子との間での繰り広げられた有名な象にまたがっての一騎打ちの戦いなど、その活躍が述べられている。このアユタヤ王朝とタウングー王朝間の象に縁のある戦いは、よく知られていると思うが、意外な話としては、スマトラのイスラム教国・アチェ王国が多数の象を持ち、象をインド、それもベンガル方面に輸出し象貿易が行われていた事。「第3話 アヘンのけむり」では、黄金の三角地帯の話だけでなく、ジャワのアヘン撲滅運動や、日本の台湾領有とアヘン政策についての話題は新鮮。それにしても、オランダの古本屋のカタログで、インドネシアのアヘン反対運動関係の文献を見つけて購入する著者はさすが。

東南アジアへの親しみを感じてもらうということもあってか、本書の各話の書き出しには、いろんなタイプの日本人の有名人たちを登場させているが、話のタイトルそのものに、日本人の有名人の名前を付けているのは、「第6話 鉄腸先生とマニラの紳士」。ここでいう「鉄腸先生」とは、明治期にジャーナリスト・小説家・政治家などとして活躍した末広鉄腸(1849年~1896年)。1888年(明治21年)4月から約9か月、末広鉄腸は外遊していて、横浜を出帆しサンフランシスコに船で到着。それからアメリカ合衆国を横断しロンドンに暫く滞在しパリを経由してマルセイユから東南アジアを経て香港・上海から帰国。この旅行の前半のロンドンまでの行程で、太平洋の船旅で偶然知り合ったがフィリピン人の青年が非常に親切で、そのフィリピン人青年が、フィリピンの国民的英雄、ホセ・リサール(1861年~1896年)という、フィリピンと不思議なかかわりを末広鉄腸は持つことになる。もちろん、ホセ・リサール自身のその後の生涯についても述べられている。

ただ、著者は、インドネシア近・現代史研究が専門で著名な学者なので、やはり、本書では、インドネシア関連の話題が圧倒的に多いし詳しい。その中でも、インドネシアとの深いかかわりがあった日本人を取り上げている章は大変興味深い。「第5話 メッカへの旅」では、戦前の日本人のメッカ巡礼紀行が紹介され、1938年に3回目のメッカ巡礼をし、かなり詳しい旅行記を残した鈴木剛(1904年~1945年)や、「第8話 アチェ戦争と日本人医師」では、森鷗外のヨーロッパに向かう船の中から書いた「航西日記」でアチェに触れて、森鴎外が心から懐かしむ林紀(林研海、1844年~1882年)の話となる。幕末期の医学者、明治期の軍医で陸軍軍医総監まで若くして務めた林研海は、幕末に幕府のオランダ留学生の一人としてオランダに医学を学び、帰国後、陸軍軍医の世界で若くして昇進するも、熱帯医学への情熱強く、スマトラのアチェに行きたいために、医事研究に欧米各国への出張を命じられていたところを、オランダのアチェ攻撃作戦に加わるために行先の変更を願い出て、明治7年(1874年)1月、いったんジャワに寄ってからスマトラのアチェに到着しアチェでの滞在生活を送っているが、面白い人物が明治初期にいたものだと驚嘆する。

サメとワニとスラバヤ、パラパのなぞの話も面白いが、「第11話 頭蓋骨の記念碑」の章では、詩人金子光晴の散文詩「エルヴェルフェルトの首」の詩の紹介があり、1722年のバタヴィアでのエルベルフェスト事件の史実について述べられ、その後、ジャカルタ市内のエルベルフェスト記念碑の話となる。ここでは、18世紀初頭にオランダから謀反人として処刑され、その首が梟首されたままさらしつづけてきた頭蓋骨の記念碑の話で、著者自身の父親の話が登場し、著者の父親が戦前に撮った大変貴重な写真が掲載されることにいる。

目次
第1話 華僑・華人・華商
「かりずまい」の意味するもの/ 「豚の仔の取引所」/ 華僑についての三つの物語/ ラーマ六世の黄禍論/ 榴蓮と留連/ 別の意味での双頭家/ 孫文フィーバー/ 改名旋風
第2話 象と東南アジア
「かりずまい」の意味するもの/ 「豚の仔の取引所」/ 華僑についての三つの物語/ ラーマ六世の黄禍論/ 榴蓮と留連/ 別の意味での双頭家/ 孫文フィーバー/ 改名旋風
第3話 アヘンのけむり
「面白いタバコ」の災難/ 日本の台湾領有とアヘン政策/ ジャワのアヘン撲滅運動/ 「黄金の三角地帯」
第4話 籐で編んだボール
スポーツの国際化/ 植民地とスポーツ/ 動物による代理戦争/ 東南アジア独自のスポーツ
第5話 メッカへの旅
なんとなくカゲのある男/ コンラッドのムスリム観/ メッカ巡礼の系譜/ 「聖地」の伝統/ さまざまな巡礼/ 日本人のメッカ巡礼/ 近代派と正統派との論争/ イスラムを国教としなかったインドネシア
第6話 鉄腸先生とマニラの紳士
末広鉄腸の西洋紀行/ マニラの紳士の前歴/ まだ定まらぬリサールの評価/ リサールの生家
第7話 鶏のとりもつ縁
いっそ狐に食わせて・・・/ チャボのふるさと/ 断末魔の鶏
第8話 アチェ戦争と日本人医師
鷗外の船旅/ おそすぎたオランダ留学/熱帯医学に賭けた情熱/ まぼろしの『閼珍紀行』
第9話 王様とハダシ
露出度指数/ ハダシと信心/ 靴にかかった国家の威信
第10話 サメとワニとスラバヤ
ワニザメとは?/ ネズミジカとワニの知恵くらべ/ スラバヤの紋章/ サメとワニの一騎打ち
第11話 頭蓋骨の記念碑
ジャカルタの下町/ 詩人・金子光晴の航跡/ 史実 ー エルベルフェルト事件/ 阿部知二の証言/ よみがえる記念碑
第12話 衆道盛衰記
交流・直流両用?/ 男色の罪と罰/ オランダ東インド会社の事件簿から/ 極刑に処せられた参事会員/ 人類の問題にも
第13話 竹のなかで暮らす
ボゴールの大竹藪/ 「鳴る竹の柱」/ 竹のリズムに合わせて
第14話 覇権への誓い
「もしやりそこなったら」/ 水魚の交わり/ 帝国建設の公約/ 「ヌサントラ」と「インドネシア」/ パラパのなぞ / 意外な結論?

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