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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第60話 「ジャバダイ【稲の州】(2)」
- 2005/4/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
インド人は筑紫の島(九州)を、サヴァ・ドゥィー(稲の洲)と呼び始めた?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
第60話 「ジャバダイ【稲の州】(2)」
さて、インド人が書いたインド古代史を読みますと、古くバビロニアと戦国時代の楚の間に海による通交があり、外洋船を操ってアラビア海から南シナ海までを結んだのは、インド人だったと書いてあります。ジャワはこの主要な航路から東にはずれたところにありますが、一方、加羅や筑紫はこの主要な航路から北にはずれたところにあります。戦国時代の呉は一時、大船により多数の軍を山東省に上陸させたりしていますが、インド人の外洋船が雇われたのかもしれません。ともあれ楚の国にやってくるインド船が、時代とともにあるいは東にあるいは北に足を伸ばしたことは疑いありません。
ジャワには現在、ジャワニカ種という大ぶりの稲がありますが、ジャワ島に稲が到来したのは、インドと同じ紀元前千年頃とされています。ジャワ島に上陸したオリッサ人は、現地人が稲作しているのを見て、おお稲の洲(サヴァ・ドゥィー)ではないかいな、と嘆声をあげ、以来、この島はサヴァ・ドゥィーと呼ばれ、その後、ジャワ島に交易にやってきた中国人たちの耳には、それがジャバダイと聞こえ、ついに法顕によって耶婆提と呉音の発音を持って文字化されたものでしょう。
しからば主要な航路を北にはずれて探険にやってきたインド船が、筑紫に上陸して現地人がジャポニカ種の赤米をせっせと植えているのを見て、おお稲の洲(サヴァ・ドゥィー)ではないかいな、と嘆声をあげたことが十分考えられます。日本の稲作の起源は、発見に次ぐ発見により縄文時代を遡りつつありますが、楚の国までやってきていたインド船が北に向かって筑紫に至ったときには、現地での稲作ははなはだ盛んになっており、インド人は筑紫の島(九州)のことを、彼らの仲間内でサヴァ・ドゥィー(稲の洲)と呼び始めたものと思われます。
107年、倭国王帥升が漢の国に使節を送りました。この「帥升」という字には卑字が使われていません。親魏倭王とまで称された卑弥呼おばさんでさえ、卑字をもって表記されたのとは天地雲泥の違いです。おそらく帥升は倭国王ではあっても倭人ではなかったからでしょう。しからば帥升はどこの国の人なのか。僕はインド人ではないかと思います。帥とは「SHRI」、これは神性を示す敬称の言葉です。升とはタミル語のソーティまたはチョーティで、これは「光」という意味です。筑紫の地方でたとえ一時的にもせよ財力と技術、それに世界観を持ったインド人の有力者が倭人の人望を得て王に推された、と考えられませんか。その名はシュリ・ソーティ(またはチョーティ)、一般にインド人の殖民は扶南や林邑の例からも見られるように、商業を中心とする平和的なものでインド的な文化や技術の普及が見られたと、ジョルジュ・セデスは述べています。インド人の数は少なくても平和的な進出は筑紫においても例外ではなかったのではないでしょうか。
インド人によってサヴァ・ドゥィーと呼ばれた筑紫の島(九州)の呼称は、おそらく倭人の間に、幕末の日本人が意識した個々の藩を超えた「日本」というより大きな統合体を示す呼称のような、区々たる倭人のクニのより大きな統合体として意中にあったのではないでしょうか。卑弥呼が筑紫の島(九州)の大半を統合する女王に推戴されたとき、倭人はこの大きな統合国家をサヴァ・ドゥィーすなわちジャバダイと誇らかに称し、これを聞いた華僑の史人が生意気にも卑字をもって邪馬台と記したものでしょう。あるいはサヴァ・ドゥィーという言葉は早くからジャバダイと訛って、帥升以前から当地に往来するインド人、印僑、中国人、華僑、倭人の間の通称となっており、卑弥呼に統治される大国が成立したことが契機となって、正式の国名に採用されたものかもしれません。コロンブスが米大陸を発見したとき、それを何と呼んだかわかりませんが、インド人が筑紫に上陸して、おお稲の洲(サヴァ・ドゥィー)ではないかいな、と嘆声をあげ、それがジャバダイとして筑紫の地方に行き来する人たちに浸透し、その後、卑弥呼を女王とするかつてなき大国が形成され、同時に大きな平和が回復されたとき、この新国家はみずからジャバダイと名乗った、というシナリオが真相に近いものではなかったかと仙人には思われます。