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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第43話 「応神と継体」
- 2003/10/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
前秦の王族率いる胡族の騎馬軍団と、外来王朝の始祖たる応神、応神五世の孫と称した継体
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第43話 「応神と継体」
応神天皇は倭国の神の妻の分国という形式をかぶせられた外来王朝の始祖であることは疑いのないところでしょう。倭国における彼の時代は大体385年から394年にかけてのことで、彼が没した年については『古事記』も『日本書紀』もともに甲午年(394年)で一致しています。この年はまた華北から漠北にかけての五胡を統一する大帝国であった前秦が滅んだ年でもあり、応神天皇の逝去と前秦の滅亡の同時性には、何か隠された関係があるように感じます。
さて応神天皇の母とされる神功皇后は虚像の多い人物で、たとえば『日本書紀』の編者は彼女と「魏志倭人伝」の卑弥呼を明らかに混同しており、また神功皇后の新羅征伐についても『三国史記』には364年と393年の倭人の襲来の間、約30年間は倭人の襲来の記事がありません。ならば神功皇后の新羅征伐は364年のことかといえば、『日本書紀』には征伐の結果、新羅の奈勿王の子であるミシコチを人質として連れ帰ったと記していますが、『三国史記』では奈勿王の子である未斯欣(ミシコチ)が人質として倭国に差し出されたのは402年のこととされており、神功皇后の新羅征伐の真実性は雲散霧消してしまうのです。神功皇后の実像は、神の妻の分国という芝居で応神天皇を身ごもった母なる役割を演じたまったく虚構のキャラクターということになりましょうか。
376年、前秦の符堅は華北から漠北を統一する大帝国を築き、翌年、高句麗と新羅があわてて朝貢しています。新羅はまた382年にも朝貢しており、この間、前秦の影響力は高句麗を通じて日本海から越の国まで(高句麗は日本海を渡る通交ルートをしばしば利用した国です)、また新羅を通じて加羅の国まで及んだものと考えられます。小林恵子女史の本によれば、4世紀中頃から5世紀初頭に比定される金海市の金官加耶国(加羅国)の古墳から鉄製の馬具や武具が出土し、韓国の学者が4世紀なかばには「高度の装備をした騎馬軍団が存在した」という意見を出したとのことです。これを前秦の王族が率いた精強な胡族の騎馬軍団と考えてみてはどうでしょうか。加羅の国の王に属する騎馬軍団ならば、加羅の国ができたての新羅や百済を征服してよさそうなものですが、加羅の国はその後、百済に領土を取られ新羅に併合されてしまうのです。騎馬軍団は加羅の国の王に属するものではなかったのでしょう。
前秦の符堅は五胡十六国随一の名君といわれ、征服した他民族の兵士により編成された軍隊を都の近くに配置し、自民族の軍隊をそれより東の遠方に配置するなど腹の太いところを見せていますが、遠大な戦略があったものと思われます。また長江を渡って東晋を併合し、中国を統一する雄図をくわだてました。しかし383年、前秦の南進は一敗地にまみれ、前秦の大帝国は瓦解して、前秦はもとの地方国家に転落しました。とはいえ377年から382年までの6年間、高句麗・新羅そしておそらくは越の国も前秦の強いコントロールの下にあったものと思われます。加羅の国にいた前秦の騎馬軍団は、この間、渡海して倭国に上陸したのではなかったでしょうか。近畿にいた倭国の大王を倒した後、応神天皇は3歳のとき太子となって越の国のケヒ神社に参詣し、祭神のホムダワケの名前をもらい、自分の名前のイザサワケを祭神に捧げて、名前の交換をしたと『日本書紀』は伝えています。またこのとき3歳の太子は、ケヒ神社の祭神をたたえてミケツオオカミ(御食津大神)と呼んだと『古事記』は伝えています。
後に応神天皇の家系が絶えた後、「応神五世の孫」を称して越の国から近畿を征服した継体天皇は、あきらかに地方勢力が中央に進出して支配を確立させた例ですが、継体天皇は8人の妃に19人の子を産ませています。多数の有力者と政略結婚を行ない権力基盤を強化した始祖王の苦労がありありと見えますね。しかし応神天皇はその上を行く10人の妃に26人の子を産ませました。前秦の大帝国も長くは続かず、精強な騎馬軍団の増援は断たれて、あとは政略結婚しかなかったのではないでしょうか。一方、応神天皇の後継者は、仁徳帝が2妃6子、履中帝が1妃3子、反正帝が2妃4子、允恭帝が1妃9子、雄略帝が1妃2子と、フツーのオジサンになりました。ついに雄略帝の子の清寧帝に至って0妃0子というありさまです。このように応神天皇を始祖とする王朝が北朝系から出たものとすれば、南朝との通交があろうばすはなく、南朝の史書に見える倭の五王を応神王朝の倭王に比定しようとする試みもまったく無意味になります。この方面では古田武彦の九州王朝説が真実性を増してきます。