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メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第34回「『戦場にかける橋』のウソと真実」(永瀬 隆 著)
- 2025/4/20
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- アジア人残留労務者, カンチャナブリー, クワイ河平和基金, クワイ河平和寺院, クワイ河捕虜収容所, ノンプラドック駅, バンポン駅, 日本人の海外渡航自由化, 映画「戦場にかける橋」, 永瀬隆, 泰緬鉄道
メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第34回「『戦場にかける橋』のウソと真実」(永瀬 隆 著)
「『戦場にかける橋』のウソと真実」(永瀬 隆 著、<岩波ブックレット No.69> 岩波書店、1986年8月発行)
<著者略歴> 永瀬 隆(ながせ・たかし)(1918年~ *2011年)<本書著者紹介より、本書発行当時>
1918年、岡山市の医家に生まれる。岡山二中、青山学院文学部卒。太平洋戦争勃発とともに、陸軍通訳を志願、タイ国駐屯軍司令部、カンチャナブリー憲兵分隊に勤務。敗戦後、連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事。復員後、倉敷市で英語塾を経営。一方、泰緬鉄道での体験を、反戦平和の立場から訴えつづける。訳書に、レオ・ローリングズ著、『イラスト・クワイ河捕虜収容所』(教養文庫)がある。
本書の著者・永瀬 隆 (1918年~2014年)氏は、戦時中、陸軍憲兵隊通訳としてカンチャナブリー憲兵分隊に勤務し泰緬鉄道建設に従事、また敗戦後も連合軍の通訳として、泰緬鉄道建設工事の犠牲となった捕虜の墓地調査に従事するが、復員後、多くの犠牲者を出した泰緬鉄道建設の悲劇の贖罪と和解の活動に一生をささげ、またタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動を長年にわたって続けた社会活動家。永瀬隆 氏は、1918年、岡山市の医家に生まれ青山学院文学部卒で、太平洋戦争勃発とともに陸軍通訳を志願。復員後、米軍の通訳、高校の英語教師などを務め、昭和30年(1955年)倉敷に帰り、私塾の英語学校経営を始めるが、一般人の海外渡航が自由化された1964年からは、日本人が戦時中に行ったことを悔い、犠牲者を慰霊するため、タイへの巡礼を始め、1976年には建設現場の一つであるクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者が再会する事業を実現。また、復員にあたってタイ政府より受けた恩義に報いようと、私財を投じた奨学金によるタイ人学生支援や現地の高齢者施設運営、医療奉仕活動など、息の長い草の根活動を続ける。
その永瀬隆 氏が、1986年2月には、泰緬鉄道のためにたおれた犠牲者の冥福を祈り、同時に日本が再び戦争を起こさぬようにとの願いをこめて、カンチャンブリーにクワイ河平和寺院を建立。このクワイ河平和寺院建立のことは、本書の終わりの部分に「平和への祈り クワイ河平和寺院建立」という章で述べられている。また、本書では触れられていないが、同じ1986年には、タイ国財団法人・クワイ河平和基金を創設し、経済的困難を抱えた子供たちの進学支援を始めている。本書は、それ以前には訳書発行はあるものの、永瀬隆氏が自ら著した最初の書籍で、1986年8月に岩波書店の岩波ブックシリーズの一冊として刊行。1941年(昭和16年)12月の東京・渋谷での臨時徴兵検査の頃に始まり、1943(昭和18年)には陸軍憲兵隊通訳として泰緬鉄道建設と関わりを持ちはじめ、1943年(昭和18年)9月にはカンチャナブリー憲兵分隊に配属される時から、本書刊行の1986年までの経歴や活動が時系列的にまとめられている。岩波書店の岩波ブックレットは、1982年スタートの60数頁からなる小冊子のシリーズ。コンパクトでわかりやすく文字も大きく読みやすく、2019年5月に1000号を達成しその後も刊行が続いているシリーズ。永瀬隆氏の活動を知る最初の一冊として手に取りやすい書籍と思う。尚、永瀬隆 氏の後半生については、ノンフィクション書籍「クワイ河に虹をかけた男・元陸軍通訳 永瀬隆の戦後」(満田康弘 著、2011年2月、梨の木者)や、KBS瀬戸内海放送製作のドキュメンタリー映画「クワイ河に虹をかけた男」(2016年公開)が詳しい。
泰緬鉄道 <本書での解説より。本書発行当時>
正式には「泰緬連接鉄道」。タイ(泰)国とビルマ(緬甸)を直結させる軍用鉄道で、タイ側のノンプラドックからビルマ側のタムビサヤ間415km(東京ー大垣間に相当)に建設された。ビルマ経由の援蒋ルート(連合軍による中国への補給路)の遮断と、インド侵入のためのビルマ作戦を、当時、日本軍はすすめていた。そのビルマへのインド洋海上補給路に代わる陸上補給路として、計画された。タイービルマ国境の山岳地帯はけわしく、悪性伝染病の地で、かつてイギリス軍も鉄道建設をくわだてたが、調査段階で断念していた。1942年6月に建設命令が出され、同年7月に着工、大本営の早期開通要求のため、翌年(1943年)10月に完成という突貫工事が行われ、枕木の数ほどの犠牲者を出したといわれる。戦後、関係者が戦犯の罪に問われた。第二次大戦後、国境地帯の路線は廃止され、山岳地域入り口のナムトクまでの約130kmが、ナムトク線として、一日三往復の列車が運行されている。
本書書き出しの「プロローグ」では、1941年(昭和16年)12月、東京・渋谷区役所で地区在住の学生の臨時徴兵検査があり、体重不足で第三乙種合格し、第三乙種でも戦地へいける「陸軍通訳」を志願したということから書き始めている。本書では詳しくは書かれていないが、補足すると、「望郷 皇軍兵士いまだ帰還せず」(三留 理男 著、1988年、東京書籍)の中の永瀬隆 氏への取材では、”青山学院文学部の英語科で英語ができ、本来は1942年(昭和17年)3月の卒業予定であったが、繰り上げ卒業の第一回生で、1941年(昭和16年)12月に大学卒業になった”こと”が分かる。英語ができ、すぐ南方軍総司令部付きの任官となり、1941年12月24日に下関を発ち、1942年1月15日にサイゴン港に到着。同地の南方軍総司令部参謀部二課文書諜報班に配属。ジャワ作戦終了後ただちに情報将校と現地に同行。情報収集に従事し、サイゴンに帰隊すると、部隊がシンガポール進駐したので、第三航空軍燃料補給廠(現セントサ島)で勤務したのち、1942年12月に原隊総軍の通訳班に復帰。1943年元旦明けから、シンガポール駅頭で、タイ国へ輸送される捕虜を見送り、輸送業務の通訳をしたが、これが著者と泰緬鉄道およびそこの捕虜たちとの最初の出会いとなる。1943年3月下旬、泰緬鉄道建設作戦要員としてタイ国駐屯軍司令部に充用され、参謀部二課情報室勤務となり、5か月後の1943年9月1日付で、泰緬鉄道建設基地のカンチャナブリー憲兵分隊勤務を命ぜられる。以後、1945年8月の敗戦まで、入院や原隊勤務の期間を除き、前後通算1ヶ年を、カンチャナブリー、バンポンで勤務することになる。
1943年9月1日、バンコク駅を発ち貨車で西方約70キロのバンポン駅に到着した時、バンポンには、マレー、シンガポール地区からの捕虜の兵站収容所があり、捕虜たちの死臭をかぎつけてか、パンポン市の上空に禿鷹が舞っていて驚いた様子が紹介されているが、このバンポン駅は、泰緬鉄道のタイ側の起点のノンプラドック駅の次の駅。翌日、憲兵曹長に同行して、カンチャナブリー市の町はずれにある旧飛行場の一隅に設けられている捕虜収容所へ視察に出かけ、その後、野戦憲兵隊であるカンチャナブリー憲兵分隊で、毎日、カンチャナブリー近辺の収容所内部やその周辺を視察に出かけ、捕虜と話したりして、彼らの思想動向を探ったりしたという。捕虜収容所といっても、ふぞろいな竹矢来で囲まれただけの環境劣悪な収容所で、苛烈な捕虜への取り調べや水責めの拷問など、著者自身が通訳として、直接、その場に立ち会わなくてはならなかった経験も記されていて、日本軍管理の連合軍の捕虜収容所での捕虜の待遇は凄惨。捕虜たちはジャングルの中で病気になっても日本軍将兵のように移送されることもなく、医薬品のほとんどない沿線にそのまま留め置かれ、捕虜たちの間に病死が多かったのも当然だった。捕虜収容所については、『イラスト クワイ河捕虜収容所 地獄を見たイギリス兵の記録』(絵・文:レオ・ローリングズ、訳:永瀬 隆 、社会思想社(現代教養文庫)1984年6月発行)が詳しい。極秘文書でみた「捕虜全員抹殺」命令の話にも触れているが、敗戦当日の1945年8月15日に著者が居たバンポンとその南方のラッブリーでの町の様子や、翌8月16日にナコンパトムでのタイ警察と日本軍とのあわや大変な問題になりかねかなかった衝突の話も紹介されていて、敗戦当日と直後の様子の一端が知れる。
日本軍の無条件降伏を迎えてからの著者の運命は、一般の日本軍兵士とは、英語が出来たということから大きく違っていき、そのことが著者のその後の半生に大きく関わっていく一因になっていく。著者の原隊ともいえるタイ国駐屯軍司令部は、終戦処理司令部と名前が変わり、投降兵になっていたものの、上部の判断で、著者の名前は憲兵隊の名簿からは消され、そのおかげで収容所にも入らず、戦犯にも問われなかったが、そのかわり、終戦処理司令部で終戦処理業務として、連合軍への武器返納や使役の通訳をし、さらに、周辺処理司令部は、泰緬鉄道の地理に明るい通訳を出せという連合軍の命令を受け、著者は、1945年9月22日より、連合軍捕虜墓地捜索隊に通訳として同行することになる。『ドキュメント クワイ河捕虜墓地捜索行 もうひとつの戦場にかける橋』(永瀬 隆 著訳、社会思想社(現代教養文庫1266)、1988年6月発行)は、第2次大戦の直後、泰緬鉄道建設をめぐる捕虜虐待の証拠収集のため、連合軍による墓地捜索隊が結成され、その案内を命じられた日本軍通訳の永瀬 隆 氏と、同行のオーストラリア軍中尉、イギリス従軍牧師が体験した記録。連合軍将兵13名の一行のうち、2人を除き他は、元捕虜の生き残りで、収容所から解放されると志願して居残り、戦争墓地委員となり、死んだ戦友の墓地捜索調査を買って出たメンバー。日本軍の戦争犯罪者に関わる名簿などが捕虜の墓の中に隠して密封されていたのを見つけるシーンには特に圧倒される。この時には、日本側が先手をうって、連合軍の捕虜基地の整頓を手掛けたが、アジア人労務者の墓地は酷い状態で放置されたままだったことが追記されている。
この連合軍による墓地捜索泰に通訳として同行した永瀬 隆 氏は、この犠牲者たちに、日本軍の一員だった者として、何をなすべきかを考えるようになり、そのジャングルの墓地で、いつかここにふたたび帰ってきて、犠牲者の冥福を祈らればならぬと、固く決心をしたとのことだが、永瀬 隆 氏の立派なことは、ここから戦後、民間人1人の活動として、贖罪と和解の活動を始め長年続けられたことで、この小冊子の後半部は、1946年7月に復員して内地に帰還してからのことの記録となる。内地に帰還後、進駐軍の通訳や女子高校の教師などをつとめていたが、大病も患い、昭和30年(1955年)倉敷に帰り、私塾の英語学校経営を始めるが、戦後18年経ち、日本人の一般海外渡航が自由化されるのを待ちかねて1963年8月、カンチャナブリーの連合軍戦争墓地を訪ね、日本人の一般海外渡航自由化(1964年4月1日)以降は、日本人が戦時中に行ったことを悔い、犠牲者を慰霊するため、タイへの巡礼を続ける。そして、1976年10月25日には、イギリスの極東元捕虜協会や日本の外務省はじめ多方面からのいろんな異論反発の声もありながら、建設現場の一つであるクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者が再会する事業を実現。
この小冊子の中で、更に記録としても特に重要と思えるのは、「”ロームシャ”をたずねて 東南アジア人残留労務者捜索」の章。1976年のクワイ河再会で感激している永瀬 隆 氏に、1人の外国人記者が、「日本軍は東南アジア各地から、25万人の労務者を泰緬に連行した。そのほとんどが、まだ故国に帰っていない」と詰問したとのこと。泰緬鉄道建設には連合軍捕虜だけでなく、その鉄道建設のために連行された25万人以上のアジア人がいて、連行されながら、戦後それぞれの母国へ帰ることができずにいるアジア人残留労務者の存在に気付き、元アジア人残留労務者を探し援助の手を差し伸べていく。カンチャナブリーの戦争墓地の管理人のタイ人の方に、泰緬鉄道残留労務者の消息について依頼をし、4年経った1980年に、最初の発見の知らせを受け取り、1980年12月に捜索の旅に出かける。インド生まれのマレー人であるトサミさんを皮切りに、マレー人4名、インドネシア人3名の泰緬鉄道残留労務者の人たちの境遇について紹介されているが、その経緯やその後の放置されてきた生活状況の話などを知ると、アジア人残留労務者たちが最大の被害者と誰もが納得できるはず。そういう人たちを哀れに思い受け入れてきた現地のタイの人たちの優しさにも感動してしまう。なお、ここで紹介されているアジア人残留労務者の一人、マレー出身のモハメッドさん(当時55歳、タイ名はトム・ユー)は、「望郷 皇軍兵士いまだ帰還せず」(三留 理男 著、1988年、東京書籍)の中で、60歳の時に取材を受け、数頁にわたり、数枚の写真と共に紹介されている。
泰緬鉄道建設を題材とした1957年公開(日本公開も同年)の英米合作映画「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai)がアカデミー賞7部門受賞の大ヒットとした世界的に知られる映画となったこともあり、泰緬鉄道建設の代名詞が「戦場にかける橋」になっているが、本書タイトル『「戦場にかける橋」のウソと真実』の意味するところも気になるところ。ピエール・ブール(映画「猿の惑星」第一作の原作者)の小説「戦場にかける橋」が映画化され、その主題曲「ボギー大佐のマーチ」(クワイ河マーチ)」とともに世界的に有名になり、泰緬鉄道がメクロン河を横切る永久橋をモデルにしたものだったが「クワイ河橋」として観光名所になった。映画では、日英米の軍人ばかりが描かれ、アジア人ロームシャたちの惨状についてはほとんど触れていなく、また、日本軍の鉄道建設技術の水準をいちじるしく低く設定するなど、脚色された部分もすくなくないといわれていると、紹介している。泰緬鉄道建設に投入された捕虜の数は、約65,000と連合軍側資料は伝えているが、はるかに数倍に越えるアジア人労務者の動員の問題も大きいが、泰緬鉄道建設は、捕虜や労務者たちの労働力を動員できなければ建設はできなかったのではないか?という点が肝要としている。映画「戦場にかける橋」は泰緬鉄道関係者の間では、色々な意味で不評で、映画のストーリー上で、日本軍関係者がくやしがっていつも指摘するには、日本軍側は鉄道建設において一片のアドバイスも、技術上は受けていないということも紹介されている。
目次
プロローグ 陸軍通訳を志願
凄惨な捕虜収容所 カンチャナブリー憲兵分隊
ジャングルに眠る捕虜たちの墓 連合軍捕虜基地捜索隊同行記
ふたたび墓地を訪れる カンチャナブリー連合軍戦争墓地参拝
元捕虜たちとの再会 クワイ河「戦場にかける橋」をともに渡る
”ロームシャ”をたずねて 東南アジア人残留労務者捜索
平和への祈り クワイ河平和寺院建立
エピローグ 戦争の悲惨さを明らかに