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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第15話 「イトの意味をさぐる」
- 2001/4/10
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伊都あるいは伊豆の2文字に音写されたイトの意味が、チワン(壮)語及びその方言差程度の圏内にあるタイ系の言葉で解けるのでは?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第15話 「イトの意味をさぐる」
1992年に雲南民族出版社から出された黄恵昆の『従越人到泰人』(越人よりタイ人にいたる)という本におもしろい記事が見えます。『説苑』という中国古典の中に、楚の国の王子が越人の船頭のあやつる舟に乗ったときのこと、船頭は気持ちよさそうに越語で舟歌を歌いました。王子はそれを聞いて興味を抱き、私は越語がわからないから楚語に訳して説明してくれないかと言い、船頭が断片的な説明をするはなしがあります。『説苑』にはこのときの越語の舟歌が32文字の漢字で音写されて載っています。それを広西省のタイ系のチワン族の学者がチワン語で読み解いたことを、黄恵昆は紹介しているのです。
越人たちが楚の国の支配を受けたのは秦の始皇帝が楚を滅ぼすまでのことですから、南越王国の成立の直前までと言ってよいでしょう。その当時の越語は現代のチワン語で理解可能な、方言差程度のチワン語の圏内にあることが明らかになりました。
伊都・伊豆などの漢字で表わされたイト国の主要な住民が、南越王国の遺民であるとするならば、伊都あるいは伊豆の2文字に音写されたイトの意味も、チワン語およびその方言差程度の圏内にあるタイ系の言葉で解けるのではないでしょうか。というわけで早速解いてみましょう。
タイ語にはヌン・ソーン・サーム(1・2・3)という数え方のほかに、またアーイ・ジー・サム(1・2・3)という数え方があります。後者は北タイなどでドゥアン・アーイ(1月)という使い方や、古いタイ民族の習慣で男子の名前の前につけて「アーイ何某」、すなわち「太郎何某」という意味に使われたりします。このアーイがチワン語で「イッ」、またアッサムのタイ系アホム族のアホム語で「イー」と発音されます。これが「伊」。
次に無気音の「都」または「豆」ですが、門を意味する言葉にチワン語の「トウ」、アホム語の「トゥー」があります。トウもトゥーももちろん無気音です。イトとは、チワン語のイットウ、アホム語のイートゥーに近い発音を持つ越語の言葉ではなかったかと考えます。意味は、「一の門」または「太郎門」。チワン語とアホム語は同じタイ語の方言としてまさに方言差の圏内に入っている言葉です。イットウ、イートゥーに近い越語で伊都または伊豆という国名が、委奴国王の金印を受けた1世紀中期から少なくとも神功皇后から伊豆国造が置かれた4世紀中期まで、呼ばれていたのではないでしょうか。
ちなみに古代の雲南の哀牢(アイラオ)王国の名前も、タイ語のアーイが使われていると解けば「一のラオ」・「太郎ラオ」となり、イト国と同じ命名の原則が見られることになります。もっとも以上のアプローチの結果が実相なのか空相なのかについては、さらに検証すべき先の課題となるでしょう。
ともあれ290年に呉が滅んで、その遺民が逃げてきて北九州はイト国が滅んだ後で上陸できず、主に南九州(僕はここに卑弥呼に敵対した狗奴国があったと考えます、)と弁辰の南岸に上陸したものと思います。遺民や呉に加勢していた海人の船団がぞくぞくとやってきて、やがて南九州の人口が爆発してさらに東の地を求めて第2の移住が行われたのが、いわゆる神武の東征ではなかったでしょうか。そしてそれに遅れて弁辰南岸の人口が爆発して海人の船団が瀬戸内海に侵入しました。これが新羅の王子アメノヒボコの渡来ではないかと思います。彼らは播磨の国に上陸してたちまち勢力を築き上げます。一衣帯水とはよく言ったもので、古来、中国大陸で大国が滅ぶときは必ずその国の遺民が海を越えて日本列島に渡来してくるのです。
9世紀の初めにできた『新撰姓氏録』には、呉からの渡来人として孫権の子孫なるハチタノクスシとか孫皓の子孫なるマムダノマサなる者の名前が載っています。呉の遺民が日本に流れこんだことは明らかで、おもしろいことに孫権や孫皓などに並んで出てくる呉国人の名前には、ツクニリクニ、アメノクニフル、タリススなど、『古事記』の神々によく似た語感の人たちが見えるのです。たとえばツクニリクニという名前は、スクナヒコナの親戚みたいな感じがしませんか。またアメノクニフルという名前はまるで天の神のような名前ですが、8代目孝元天皇の和名はオオヤマトネコ・ヒコ・クニクルです。クニフルとクニクル、そっくりではないでしょうか。さらにタリススという名前は、6代目孝安天皇の長子にモロススという王子がおり、また海人の棟梁に阿曇連百足(アズミノムラジ・モモタリ)がおり、とても他人とは思えない類似が認められます。呉に加勢していたイト国の海人の棟梁たちが戻ってきたものと言えないでしょうか。