コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第21話 「パッラヴァ王国の仏教」

南インドのバッラヴァ王国出身のボーディダルマと中国南北朝時代の梁の武帝との問答

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第21話 「パッラヴァ王国の仏教」

南インドに最初に仏教がもたらされたのは紀元前3世紀のアショカ王のころです。元来ヒンドゥーが盛んな南インドですが、4世紀あたりから国のかたちを整えて勃興してきたタミル人のパッラヴァ王国では、ヒンドゥーと仏教が共存し、6世紀の王都のカンチープラム(カーンチー)では100もの仏僧の学校ができており、1万人の仏僧が勉強をする時代になりました。

このころパッラヴァ王国の仏教界に2人の巨人が現れます。1人はダルマパーラと言って学僧としてすぐれた人で、後に仏教界の中心地であった北インドのナーランダ大学の学長になりました。ナーランダ大学はインドの仏僧は言うに及ばず、スマトラのシュリーヴィジャヤからも修業僧が来ています。もちろん扶南や林邑の学僧もここで修行したことと思われます。さてもう1人はボーディダルマという人で、もとはカンチープラムの王子といわれ、お釈迦様のような経歴の持ち主ですが、彼は修行の後、マイラプーラムの港から船に乗って中国の梁の国に行ってしまいました。

当時、中国は北方民族系の北朝と漢民族系の南朝に分かれていましたが、南朝の梁の武帝は仏教を厚く庇護して多数の寺院を建立した(唐詩に南朝四百八十寺という)だけではなく、自ら3度出家し、また説法を行なうほどの人でした。この時代、扶南からナーガセーナ、マントラセーナ、さらにサンガパロらの仏僧が梁を訪れて、仏典の翻訳などを行なっています。武帝はパッラヴァ王国からやってきたボーディダルマを喜んで迎え、さっそく会見して質問に及びました。

「私は皇帝となって以来、数多くの寺院を建て、多くの写経をこなし、数え切れない僧侶を得度させましたが、どんな功徳がありますか。」

これに対するボーディダルマの答えは、「まったく功徳は無い。」というものでした。

これは世の中の作法に慣れ親しんだ一般の考え方の意表をつくような答えですが、ヒンドゥーの聖典『バガヴァット・ギーター』に、「なんびとの罪過も、かつまた善業も、主上は受けず。」という一節があり、これを知っていれば、ははあなるほど、とボーディダルマの答えが腑に落ちるのです。

パッラヴァ王国では仏教もヒンドゥーも共存共栄しており、仏教界ではその後ベンガルに起こった密教が広がって8世紀にはヴァジラボーディのような巨人が出るのですが、同じく8世紀にヒンドゥーの方でもシャンカラ・アチャリヤという巨人が現れます。仏教とヒンドゥーの共存共栄はタミル人の植民地国家であった扶南・林邑でもおなじで、パッラヴァ王国の風を受け継いだものと言えましょう。こういう風土にあったものですから、ボーディダルマもバガヴァット・ギーターくらいは読んでいたのではないかと思われます。というよりボーディダルマが開祖とされる中国の禅宗では、道を得た人の言行を文字に記して『語録』として珍重します。それは真理そのものが人間の姿形をとって言葉を発したとされるバガヴァット・ギーターになんと近いものでしょう。

中国で禅宗が盛んになると『臨済録』をはじめさまざまな語録があらわれてきます。道元は中国で如浄というあまり有名でない僧侶について勉強しましたが、如浄が亡くなった後、『如浄語録』が海を越えて道元のもとに届けられています。こういうことは禅宗にだけ見られることで、これもまたパッラヴァ王国の仏教の風を受け継いだものと言えましょう。

梁の武帝は、また「聖なるものとはどんなものですか。」とボーディダルマに問い、「カラリとしていて、聖なるものは無い。」との答を受け、ついに「私に対しているお前は何者なのだ。」と問い、「知らぬ。」との答を受けました。ギーターにはまた「我執に心昏まされしものは『われ行為す』と妄想す。」という一節もあり、バガヴァット・ギーターの哲学を知っておれば武帝のような愚問を発するには至らないのです。ボーディダルマが体現した新しい仏教は、それまでの注釈仏教・形式仏教とはまったく異なるものでした。

大乗仏教は『維摩経』を珍重しますが、武帝と達磨の問答は、長者ヴィマーラキールティのもとを訪れたシャーリプトラが長者の家に住まう1人の天女と交わした問答を思い出させてくれます。シャーリプトラがついに対する言葉に詰まってしまい、「貴女は何を得、何を悟って、このように言うのですか。」と問い、天女から「私は何も得ず、何も悟っていませんから、このように言うのですわ。」との返事を受けています。

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