コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第24話 「牛への感謝祭(2)」

アジアの様々な稲作民族の牛を呼ぶ言葉と、日本にもたらされた牛とその名称、それにまつわる祭り

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第24話 「牛への感謝祭(2)」

アジアの稲作民族の大先輩はモン・クメール語族、タイ族、苗族で、それぞれの専門家たちがタイ族こそ、いや苗族こそ、世界で最初に稲作を始めた民族であると、論議がやかましいけれど、日本人の立場から見れば、ともあれ以上の三者が稲作の大先輩であることは間違いないと思います。苗語では牛を「ニュ」といい、クメール語では「コー」といい、標準タイ語では「ウワ」といいます。この標準タイ語の「ウワ」がどうしてこんな風に訛ってしまったのか、もっと考えればおもしろいかと思いますが、ランナー語、イサーン語、ラオス語、タイ・ダム語では牛は一律に「ングワ(NGWA)」と呼ばれています。日本語の漢音では「ギュー」と発音される牛の漢字が、潮州音で「ングー」、広東音で「ンゴウ」と発音されることから、もともとはG音で発音されたのではなく、NG音で発音されたのではないでしょうか。さらにシャン語では牛は「ンゴ」と呼ばれ、海南島に住むタイ系のリー族は牛を「ンギウ」と呼んでいることから、NG音を持つこれらの言葉はみな同系の言葉で、「牛」という象形文字を作り出した黄河流域の人たちが牛を呼んだ古音を訛りながらも伝えるものではないでしょうか。日本語の漢音のギューをNG音にすれば「ンギュー」となり、また呉音のゴをNG音にすれは「ンゴ」となり、それぞれリー族の「ンギウ」シャン語の「ンゴ」に限りなく近くなりますね。

 ところでサコンナコンの街のそばに住むタイ人の一派が話すセーク語では、牛は「ボー」と呼ばれます。一風変わった発音ですが、広西省のタイ系のチワン語のトァーパウ方言に「モー」という言葉があり、またタイ系の水族は牛を「ポー」と呼びます。セーク語はこれにつながるのではないでしょうか。ビルマ語では牛は「アメー」だが、アメーのアは接頭辞に近いものと考えれば、ボー、モー、ポー、(ア)メーで一つの領域ができないでしょうか。さらにチワン語のウーミン方言では牛は「チュ」と呼ばれ、プーイー語では「ツ」と呼ばれます。これはベトナム語の「チャウ」、韓国語の「ソ」につながるのではないでしょうか。

 稲作民族の大先輩が牛を呼ぶ言葉は、苗語のニュ、クメール語のコーのほかに、タイ語には実に多様なバラエティーがあることがわかりました。「ングワ」「ンゴ」「ンギウ」などのNG音で始まる言葉は「牛」という象形文字を作り出した黄河流域にいた殷の時代の人々の言葉につながり、また「ボー」「モー」「ポー」などのB音・M音・P音で始まる言葉は、さらにビルマ語につながり、また「チュ」「ツ」などのCH音・TS音で始まる言葉は、ベトナム語や韓国語につながるという幻想めいた世界が見えてきます。

 日本語の「ウシ」のウは、ウマ、ウメのウのように接頭辞に近いものと考えれば、意味のある発音は「シ」となる。この「シ」は「チュ」「ツ」などのCH音・TS音で始まる言葉の圏内に入らないでしょうか。また「べべ」「べブ」「べコ」と呼ばれる日本語のB音の方言は、「ボー」「モー」「ポー」などのB音・M音・P音で始まる言葉の圏内に入らないでしょうか。僕は日本語に残る牛を呼ぶ言葉は決してアジアから孤立したものではないと思っています。なぜなら牛は三世紀よりも新しい時代にアジアから列島にもたらされ、それは牛の本体だけではなく、その名称、それにまつわる祭りをともなって、もたらされたと考えられるからです。変わったところでは奄美大島の古語では牛を「シャナメ」といいます。

 『魏志倭人伝』以前に列島に稲作を伝えた海人を中心とする人たちは、牛を連れてきませんでした。ということは牛耕の習慣がなく、きわめて粗放な稲の栽培をしていたのではないでしょうか。人力だけで神饌用の赤米を少しだけ作っていればよかったのかも知れません。そしてニンゲンサマも米を常食とするようになったのは、牛耕が普及してから後のことと考えられます。

 『肥前国風土記』に五島列島の海人に関する記事があり、「彼の白水郎は馬牛に富めり。」と牛が五島列島にいたことが記されています。白水郎とは海人の別称で、肥前の国の俗人とは異なる言葉を話していたことも記されています。この白水郎についてはまた、同じ『肥前国風土記』に大家島の住民が景行天皇のときに滅ぼされて、「以来、白水郎ども、此の島につきて宅を造りてすめり。」と記されており、景行天皇のときに長崎県北西部の島々に牛を持った海人の一派が移住してきたことが認められます。この「景行天皇のとき」とはいつのころでしょうか。

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