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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第36話 「漢字と泰・越語(3)」
- 2003/2/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
「砕」と言う字の最も古い発音を残す越語「トアイ」と、タイ語「テーク」、北タイ苗語「テーア」の関係
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第36話 「漢字と泰・越語(3)」
「萬」という字は、一万を表す旧字体の漢字ですが、これはサソリの象形文字で、殷の甲骨文字ではずばりサソリの形をしています。この文字が後になって数字の一万を表すようになってから、別の漢字がサソリを表すものとして考案されました。ひとつはこの「萬」という字の下に「虫」の字を加えたもので、漢音で「タイ」と読みます。もうひとつはおなじみの「蠍」という字で、右のほうの歇(ケツ)は「高くかかげる」意味を持ち、サソリが尾を高く掲げることを示すのだと漢和辞典に説明されています。この事実からわかることは、殷の言葉ではサソリをバンまたはマンに近い言葉で呼んだのでしょう。それが数字の一万を表すような意味にガラリと転用されて、しかも転用した意味がその後に定着するということの背景には、大規模な文化革命があったのではないでしょうか。
殷を滅ぼした周は、徹底した殷の文化の覆滅を進めますが、文字をもたない周の人々は殷の文字を継承したものの、意味を転用して使用するというようなことをやったのではないかと疑われるところです。たとえば「米」という字も、甲骨文字では粟の実を意味する文字でしたが、後になって稲の実の意味に転用されて今日に至っています。もしかすると周の人々の言葉の中に、一万のことをバンまたはマンに近い発音の単語があって、殷の文字でサソリを意味する「萬」を充てたのかもしれませんね。
新しく考案されたサソリの文字には「タイ」という発音が添えられました。これは殷の言葉でないことは明らかでしょう。漢字というものはこのように、まず音声言語が先行してそれに合うように文字が考案されるのです。新しくサソリの漢字を考案した民族の言葉では、サソリを「タイ」と呼び、高く掲げることを「ケツ」と言ったものと思われます。
サソリはタイ語ではメンポーン、ラオス語でンゴート、タイ・ダム語でプーリンと、発音が明確に分かれています。ベトナム語ではボカップ、クメール語ではクドゥイ、ビルマ語ではミーガウです。また蠍はベトナム音ではヒエット、高く掲げる意味の言葉はベトナム語にニャック・レン、クメール語にルァーク、タイ語にヨック、ビルマ語にマという言葉があります。サソリを「タイ」と呼び、「高くかかげる」ことをケツまたはヒエットという民族はどうやらこの中にはいそうもないですね。
漢字はなにしろ歴史が古いものですから、この萬のように意味がガラリと変わってしまったり、またそもそもいずれの民族の言葉が原語になったのか追跡が困難になってしまったものも多いと思います。
砕(サイ)という漢字はくだく・くだけるという意味で、これがタイ語のテーク(TAEK)につながるのではないかと言ったら、皆さんは、ああ南方の仙人もバンコクのゴーゴーバーにはまりすぎて、ついにアタマに来たのかとお考えになるのではないかと思うのですが、砕という字の最も古い発音を残すベトナム音では、この字の発音は「トアイ」でタイ語のテークと同じT音で始まります。ベトナム音は楚音のベトナム訛りではないかと前の号で述べましたが、楚という国の住民は苗(メオ、モング)族であったというのが中国の歴史学界の定説になっています。
僕はこの苗族の言葉が楚の国の識字階級にとりあげられて、音声言語としての苗族の言葉を下敷きに砕という漢字が作られ、トアイという音が残されたのではないかと考えています。苗族の言葉も今日では多くの方言に分かれていますが、北タイに住む苗族は、くだく・くだけるという意味のテーア(アは明瞭なアではなく、アとウとの中間のような不明瞭な音)なる言葉を持っています。このテーアがトアイとテークをT音でつないでいるのです。おそらく楚の国の石工職人の世界の技術用語として「砕」の字が漢字として作られ、また石工技術が楚の中心部にいた苗族から、周辺部(僻地)にいたタイ族に伝播する際にテーアがテークに訛ったのかもしれません。
トアイはベトナム訛り、テークはタイ訛りというわけですね。文化というものは民族を問わず伝播するものですから、漢字のような文化の産物を考える際には、民族に限定されない態度で接するのが良いかなとゴーゴーバー大好き仙人は考えます。