メコン圏を舞台とする小説 第30回 単行本「異国の旗」所収 「朱印船の花嫁」(白石一郎 著)

メコン圏を舞台とする小説 第30回 単行本「異国の旗」所収 「朱印船の花嫁」(白石一郎 著)


単行本「異国の旗」所収「朱印船の花嫁」(白石一郎 著、中央公論社、1991年1月)

単行本「異国の旗」所収 初出一覧
「異国の旗」(「切腹」を改題、加筆)「中央公論文芸特集」1988年夏季号
「朱印船の花嫁」「中央公論文芸特集」1989年冬季号
「鄭成功」「中央公論文芸特集」1990年夏季号
*文庫版 『切腹』(白石一郎 著、文春文庫、1996年10月)【単行本 「異国の旗」改題】

<著者紹介> 白石 一郎(しらいし・いちろう)
韓国釜山生まれ。戦後、長崎県佐世保市に引き揚げる。1954年、早稲田大学政治経済学部卒業。1957年『雑兵』でデビューを果たし、作家活動に入る。1987年『海狼伝』で第97回直木賞受賞。ほかに、柴田錬三郎賞・海洋文学大賞特別賞・吉川英治文学賞など受賞多数。主な著書に『戦鬼たちの海』『怒涛のごとく』『幻島記』『海王伝』『島原大変』『異人館』『航海者』『孤島物語』『風雲児』『蒙古襲来』、『十時半睡事件帖』シリーズなどがある。福岡市在住 <「海のサムライたち」著者プロフィールより 2003年2月発行、発刊当時> 

荒木宗太郎(?~1636年(寛永13年))は、もともと肥後熊本の武士だったが、異国交易で賑わう長崎で交易商売に眼をつけ、船乗りとなり、やがて船主として財を成し、朱印船制度の創設と共に朱印船主に選ばれるほどの豪商となり、その後も徳川幕府よりたびたび朱印状を受けシャム・安南などに朱印船を派遣した長崎の豪商。荒木宗太郎は船主であっただけでなく船長となり自ら乗船し朱印船を率いたことも異色であるが、更に注目すべきことは、1619年に、安南の王女の娘を妻にし日本に連れ帰り、自分の長崎の屋敷に住まわせてその生涯を正妻として日本で全うさせたことだ。『朱印船の花嫁』は、この実在の人物である荒木宗太郎とヴェトナム人の妻をモデルとした短編歴史小説だ。

荒木宗太郎が活躍した当時のヴェトナムは、1428年に明の支配を脱して興った後黎朝のもとにあったが、混乱が続き、ハノイを中心とした北部は鄭(チン)氏が、フエを中心とした中部は阮(グエン)氏が実権を握り、南北に分裂し、この鄭氏と阮氏との対立は約200年にわたって続くことになる。日本では北部ヴェトナムの鄭氏政権を東京(トンキン)と呼び、中部ヴェトナムの阮氏政権を交趾または広南国[クアンナム]と呼んでいたが、荒木宗太郎は、広南国国王の阮福源に気に入られたらしく、国王は自分と同姓の阮氏を名乗ることを許して阮太郎と称させ、自分の娘を与えて妻とさせた。

当時のヴェトナムの政治事情については,本書で荒木宗太郎が、使用人の千四郎に以下のような話をする場面がある。

「日本ではこの国を交趾などと呼ぶが、交趾という国はどこにもない。さらに安南という国もじつは今は無いと知るがよい。安南王はいる。しかし王とは名ばかりで、この国はいま東京(トンキン)と広南(クアンナム)の2つに分かれておる。わしらが安南と呼んでいるのは広南のことじゃ。広南の王は阮(グエン)福源と申される。わしらの交易の相手はこの王じゃ。どこの国にもそれぞれこみ入った事情はある。多くを知る必要はない」

小説では、生れの肥後人吉を離れ長崎に流れて波止場の荷揚げ人足をしていたが、村山東安を追い落とし長崎代官におさまった末次平蔵を襲撃しようとする事件がきっかけで荒木家の使用人に組み込まれ、安南に向かう荒木宗太郎率いる朱印船に見習水夫として乗り込むことになった相良千四郎という男を主人公にしている。荒木宗太郎が、いつ、なぜ故郷の肥後を離れたのかは不明であるが、この点についても著者は興味深い推測をしており、肥後人吉領主の一族で重臣であったが早くに主家を出て浪人し各地を転々とし結局は落ちぶれて人吉に戻ってただの百姓になった相良千四郎の父親の話に絡めて、著者の見方が紹介されている。

海路1800里、順風で30日、波風の具合によっては40日から50日の航海という長崎から安南国に向かう朱印船での航海の模様や、安南国の都・広南(クアンナム)へ至る商港フェフォの様子も、描かれているが、やはり気になるのは、長崎の人々から「アニオーさん」と呼ばれ親しまれたベトナム人女性・王加久(おうかく)と荒木宗太郎との出会いや関係、また長崎に連れ帰った時の様子や長崎でのその後の2人の生活ぶりだろう。短編小説ながら、これらの点にも筆が及んでいるが、本書では王加久(おうかく)は、子どもの時、川に溺れていたのを荒木宗太郎に助けられ、フェフォの日本人町の頭領・船本弥七郎に預けられ、王家の一族である市舶提挙司・阮芝虎の養女となり、広南国王の阮福源のお声がかりで、広南国王の養女という身分で荒木宗太郎の妻となる、という設定になっている。

自分の船の船標をオランダの東インド会社の船標を上下逆さにしたデザインを使うなど、荒木宗太郎も大変興味深い人物であるが、本書でフェフォの日本人町の頭領として登場する船本弥七郎も面白い。本書では「長崎の商人だったが、9回もここを訪れるうちに、日本より安南に住み慣れてしまい、家を長崎の息子弥平次に譲って自分はフェフォに居ついた。安南を訪れる日本人で、この人物の世話にならぬ者はいない。弥七郎を介さなければ入港と出港の手続きや,積荷の売買もできないのだ。」と書かれている。船本弥七郎も生没年不詳であるが実在の長崎の貿易商人で、荒木宗太郎と同じように自ら船長となる稀有な朱印船主であった。

尚、「朱印船の花嫁」が収められている単行本「異国の旗」には、本作品以外に、「異国の旗」、「鄭成功」と、計3篇の短編歴史小説を収められているが、 本のタイトルになっている短編小説「異国の旗」は、英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げ長崎港に侵入するという、1808年(文化5年)に起こった実在のフェートン号事件を題材としている。

本書の目次

異国の旗
朱印船の花嫁
鄭成功

■関連テーマ
荒木宗太郎
●広南国王の阮福源
●フェフォの日本人町

■ストーリー展開時代
・1618年(元和4年)~1645年(正保2年)
主人公の相良千四郎が、新しく長崎代官に任じられたばかりの豪商・末次平蔵を襲撃することに雇われたのが、1618年(元和4年)の設定になっていて、本書ストーリーはこの時から始まっているが、実際は、1619年(元和5年)末次平蔵は、長崎代官・村山東安の私曲を幕府に訴え、勝訴し村山東安に代わって長崎代官の地位についた。村山東安は1619年11月に江戸で斬首。荒木宗太郎の妻・王加久は、荒木宗太郎の死後9年後の、1645年(正保2年)に長崎で亡くなる。
■ストーリー展開場所
・長崎 (八幡町の天満宮の境内、本博多町、大村町、稲佐岳、飽の浦(荒木家の屋敷)。恵比寿神社、
高鉾島、西築町(荒木家の店)、古町、小川町)
・安南 ツロン、フェフォ)

”安南国の都広南(クアンナム)へ至る商港はフェフォと呼ばれる。各地から安南国へやってくる交易船はフェフォの港内に集り、荷揚げし、数ヶ月の滞在ののちに帰路につく。フェフォの港へ入るためには2つの入り口があった。一つはフェフォの沖合3里に浮かぶ大沾島(クゥラゥチャム)を目印としてトウボン川の河口のクワダイに達し、そのまま川を遡行してフェフォに向う。もう一つは「だるま座禅山」を目標としてココ川へ入り、一旦はツロンの港に船を着け、使いをフェフォに派遣して、安南国役人の迎えを待つのである。この2つの入口は東シナ海の海上では4里ほども遠く距っているが、川を遡って内陸に入るにつれ距離は狭まり、やがては一筋の川となってフェフォに到っていた。荒木船安南丸が入港したのはツロンの港である。ここはフェフォの姉妹港で、ツロンに待機して、到着を国王に知らせるのが、日本の朱印船の慣例であった。・・・南蛮船の多くはクワダイの河口からまっすぐフェフォに向うらしい。ツロンからフェフォは川を遡って6里近くもある” 

■主な登場人物たち
・相良千四郎 (主人公)
・荒木宗太郎
・阮福源(広南国国王)
・阮芝虎(市舶提挙司)
・船本弥七郎(フェフォ日本町頭領)
・王加久(ベトナム人女性)
・家須(荒木宗太郎と王加久の娘)
・伊左吉(荷揚げ人足の小頭格)
・末次平蔵(長崎代官)
・村山東安(前長崎代官)
・長谷川権六(長崎奉行)
・土佐出身の浪人
・乙松

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