メコン圏を描く海外翻訳小説 第13回「クメールからの帰還」(ウィルバー・ライト 著 (Wilbur Wright) 、染田屋 茂(そめたや・しげる)訳)

メコン圏を描く海外翻訳小説 第13回「クメールからの帰還」(ウィルバー・ライト 著 (Wilbur Wright) 、染田屋 茂(そめたや・しげる)訳)

「クメールからの帰還」(ウィルバー・ライト 著 (Wilbur Wright) 、染田屋 茂(そめたや・しげる)訳)、角川書店(文庫)、1990年5月

本書の原作は、ウィルバー・ライト氏(Wilbur Wright)の著作で1983年刊行の『Carter’s Castle』だが、邦訳タイトルは、『クメールからの帰還』となっている。本書の主たるストーリーは、まさにこの邦訳タイトル通り、カンボジアの奥深い谷に墜落、炎上した旅客機ボーイング007からの4人の生存者が、モンスーンのジャングルを彷徨い、四方を切立つ崖に囲まれた谷から半年ぶりに帰還を果たすという冒険小説。巻末の訳者あとがきにもあるように、本書はパニック小説を連想させる旅客機墜落の場面に始まり、隔絶した土地でのサヴァイヴァル、自信を失った元パイロットの自己との闘い、生存者間での信頼と不信、CIAやベトナム人兵士達との戦い、さびついた飛行機での脱出行などが描かれるが、4人の生存者は、失われたクメール王朝のおもいもよらぬ秘密にも遭遇する。

 もともとは、61名の乗客(うち53名が子供)と乗務員を乗せて、英国から目的地の香港に向けたDC-8のチャーター機が飛行中エンジン故障しシンガポールに着陸。シンガポールでは代替エンジンは入手できず、代替機としてボーイング707がチャーターされたが、このオール・オリエント航空HK108便はシンガポールを離陸したあと、香港へ向けて飛行中、南シナ海上空で消息を絶った。消息がわからぬまま約半年が経ち、マレーシアのコータ・バルの海岸に行方不明となった飛行機の生存者が突然現れた。しかも5年前に行方不明になったダコタに乗って他に3人の生存者を連れてきていた。この4人の生存者とは、元英国空軍パイロット、ドナルド・カーターと、16歳の少年と14歳の少女、そして美貌のカンボジア人スチュワーデスであった。

 ストーリーは、シンガポール政府事故調査部顧問のアラン・ネイビアが、”私”という一人称で、シンガポールに送られてきたクメールから奇跡の帰還をした生存者を病院に訪ねて事情聴取という形で展開するが、一番の主役は、ドナルド・カーターだ。彼は英国空軍に25年間服務したが、妻に先立たれてから暮らしはすさみ急速に崩壊していきアルコールに溺れ自堕落な暮らしをしていた。そんな父親を心配して香港に転勤していた英国空軍パイロットの息子が休暇を利用して彼を香港に呼び寄せる。そしてドナルド・カーターは、カンボジアの奥深い谷に墜落、炎上する飛行機に乗り合わせるが、適切な判断で他3名と共に飛行機事故から生き延びる。しかしながら、救援も自力脱出も期待薄のカンボジアの隔絶した土地で、彼は、一旦は「文明社会に帰って、いったい何がある?誰もいない家か?むなしいはんぱ仕事か?物価上昇か?ここなら、幸せな暮らしができる。」とも考える。

 もう一人の重要な登場人物は、4人の生存者の一人である、カンボジア人スチュワーデス、リアーンだ。著者自身が「私がこの作品を書いた動機をひとつあげるとしたら、つぎのようなことである。ドナルド・カーターのような孤独な男やもめは、ひとりの例外もなく自分の”リアーン”に出会うことを夢見ている。・・・」と、冒頭の”著者の序文”で述べている。両親とは小さい時に死に別れ、バッタンバンで舞踊学校を経営していた伯父に引き取られたという経歴の彼女は、墜落したカンボジアの奥深い谷で不思議な経験をすることになる。

 墜落したカンボジアの奥深い谷で約半年の間、どのようなことが起こったのか、ドナルド・カーターの心境にどのような変化がなぜ起こったのか、どのようにして四方を切立つ崖に囲まれた谷から抜け出すことができたのかなどについては、本書を読んでいただきたいが、4人の乗った飛行機が墜落した土地の近くには、捨て置かれたエアアメリカの秘密基地があったということだけは紹介しておきたい。エアアメリカは、CIAの航空輸送機関の表向きの名前で、民間の航空会社のような形態はとっているが、たいていはこういう基地で秘密の任務にあたっていた。また、著者の経歴は、16歳で英国空軍の技術兵学校に入り、第二次大戦中にパイロットの訓練を受け、以降15年間、戦闘機パイロットとして服務し、除隊後セールス・マネージャーをやるなど、かなりの部分が主人公カーターと重なっており、通称「ダコタ」のダグラスDC-3を題材に使うなど、飛行機に関する記述が多く、航空ファンがより楽しめる内容になっている。

 また、シャムによる王都アンコールの陥落など、中世のクメール王朝の歴史的な事件も本書ストーリーの背景となっている。尚、気になる『Carter’s Castle』という主人公カーターの名を使った原題については、著者の序文の前に掲載されている、以下のような”恐怖の城”と題した文章がヒントになると思う。

 ”サラゴサ近辺の森にあるとされる想像上の城。それは、人間の恐怖によって生みだされるものだが、勇気と真心をもって近づけば、たちまち雲散霧消してしまう恐るべき障害を象徴している。それは私の真摯なる眼差しの前で地中に没して、あとからもなく姿を消した。そして、私とその日のあいだにはかすかな痕跡さえ残っていない。そうした城の出現は私たちを茫然自失とさせずにはおかぬものの、たとえ、あらゆる面で太刀打ちできぬとも、強き者の目の前ではたちまち溶けうせ、真心の前からはほうほうの態で逃げだしていく。 ー C・マッケイ『巨人』より 

関連テーマ
●アンコール陥落
●古代クメール王朝の財宝
●エア・アメリカ

ストーリー展開時代
・1979
ストーリー展開場所
・カンボジアの奥深い谷 ・シンガポール ・イギリス ・香港 ・マレーシア

主な登場人物たち
・ドナルド・カーター(元英国空軍パイロット)
・リアーン・ダン・コー(オール・オリエント航空スチュワーデス)
・コリン・トッド(乗客、16歳の少年)
・デビー・ワーシントン(乗客、14歳の少女)
・ギャヴィン・カーター(カーターの息子、英国空軍パイロット)
・シャーリー(ギャヴィンの妻)
・ピーター(ギャヴィンの息子)
・エディ・ウー・パク(オール・オリエント航空パイロット)
・チャーリー(航空機関士)
・チャン(副操縦士)
・ドリー・ファン(乗務員)
・リー・クワーン・ロック(シンガポール政府の航空大臣)
・アラン・ネイピア(シンガポール政府事故調査部顧問)
・ドクター・ランジット・シンハ(医者)
・カール・F・マクベイン少佐(ベーカー・ファイブ特別機動部隊の指揮官)
・パク・チャン・ドク軍曹
・チャン・ヴァン・ザン中尉(ベトナム人将校)
・シモンズ(パイロット)
・ガーヴィー(パイロット)
・ヤショヴァルマン(クメール王国王子)
・インディバラジャ(クメール王国王女)
・ジャヤヴァルマン6世
・スーリヤ(侍女)
・ナラダム・サリン(護衛兵)

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