サラブリ県ケンコイ郡の製麻工場での現地労働者側による日本人幹部達の監禁事件(1975年)
【バンコク(1975年8月)10日=共同】
1年前、従業員による工場長監禁騒ぎを起こした日系企業で最近、再び解雇問題のこじれから工場長を含む日本人幹部5人が監禁され、うち4人は10日現在、11日間も社宅の中に閉じ込められ、健康が気遣われている。
この日系企業は、バンコクの北約120キロにあるサラブリ・ジュート・ミル会社の製袋工場。6月中旬から、解雇された32人の労働者の復職闘争が続いていたが、7月31日になって、女子労働者を中心とする百人余りが工場近くの社宅に押し寄せ、工場長、副工場長ら日本人幹部5人全員を社宅の一軒に集めて軟禁、電話線を切断した。
労働者たちは、監禁した5人に対する食料と水の供給は認めたが、門の前にピケを張って外部との連絡を断ち、5人は暑さと精神的圧迫でほとんど睡眠がとれず、衰弱がひどくなっているという。
また8日夜には、社宅近くでピストル発射や手投げ弾とみられる爆発騒ぎがあったほか、身元不明の男が社宅内に侵入、食料を奪って立ち去った。このため親会社の日本製麻(本社、富山県砺波市)は9日、タイに重役を派遣、バンコクの日本大使館にタイ政府への援助要請を依頼、地元警察が労働者を説得して、工場長だけは同日、ようやく解放された。
しかし、タイ内務省労働局は、サラブリ・ジュート社の経営者側の紛争解決の努力が欠けていた、との見方で、ひとまず、解雇者のうち暴力事件関係者を除く20人の復職を認めるように、との調停案を出したが、労働者側は強硬に全員復職、あるいは工場従業員17百人全員に希望退職を認め、即時退職金を支払う以外には応じないと主張、残された4人はなお監禁されたままだ。
サラブリ・ジュート工場は昨年(1974年)8月にも賃上げ要求ストをきっかけに、前工場長ボイコット運動が起き、日本人職員16人が3日間監禁される騒ぎを起こしたことがある。今回の争議では、会社側はタイ政府のブンテン内相に頼んで地元警察の介入を要請するなど、高姿勢をい取り続けたため、事態をこじらせる結果を招いた。
サラブリ・ジュート社は1969年9月に操業を開始、タイ国営ジュート工場に次ぐ2番目の生産量を記録、今回の争議は工場拡張に伴う従業員の配転問題のこじれが発端だった。
《事件のその後の展開と結末》
サラブリ・ジュート・ミルは、サラブリ県ケンコイ郡に工場を持つ現地法人で、日本製麻が資本金6000万バーツの99.8%をだし、1969年9月に作られた麻会社。バンコクのデュシタニ・オフィスビルに事務所を持っていて、男子3百人、女子14百人の労働者を雇っていた。会社は1975年6月中旬、このうちの102人を配置転換した。しかし、一部の労働者がその配転を納得しなかったため、会社は配転に応じなかった者、配転反対闘争をした者計32人を解雇した。これには昨年8月、賃上げと労働環境改善を要求したストのリーダーも含まれていた。労働者たちは工場敷地内に座り込み、これに対し会社側は6月26日、無期限ロックアウトを宣言した。
この配置転換に伴う32人の労働者解雇をめぐって、日本人幹部4人が1975年7月31日から工場内の社宅に監禁されてきたタイの日系企業、サラブリ・ジュート・ミル会社の事件は親会社である日本製麻(本社、富山県)の中本社長がバンコク入りし、8月16日、バンコクの内務省で、タイ政府と労使の3者で話し合った。「早くなんとかしてほしい」という4人の外部あてのメモを受けて、会社側は8月16日の交渉で、①9月1日に操業を再開する ②32人全員を復職させる③しかしうち12人は2ヶ月間休職させる、という条件を示した。タイ人労働者の代表が、これを了承、4人の解放を発表した。
しかしその後、16日夜から17日麻にかけて事態は逆転し、現地サラブリの労働者たちは、①スト中の賃金全額補償 ②工場再開日として予定される9月1日に工場が再開されなかった場合の休業補償 の2点をさらに要求、全員投票で日本人職員の解放を否決した。
監禁20日目でタイの日系企業幹部邦人4人の釈放
監禁されていた日本人4人は、以下の4項目の事項に双方が合意したことをうけ、8月19日午前11時半(日本時間午後1時半)、20日目にやっと解放された。このため藤崎駐タイ大使は同日午後、ブンテン・タイ内相を訪ね、尽力に感謝した。
4項目の合意事項
①解雇された32人は全員復職させる。うち12人は2ヶ月間休職させるが、その間賃金の半額相当分を支払う。
②9月4日をメドに操業を再開する。その準備のため呼び出した従業員には賃金を100%支払う。
③スト以前の未払い賃金はできるだけ早く支払う。
④休職処分の12人について暴力行為などで出していた告訴は取り下げる。
会社、操業を再開せず
だが、事件はこれで終わらなかった。
会社側は合意文書に調印した直後の8月22日、工場正門に「操業再開は未定である。追って通知する」との告示を出し、8月26日までに労使紛争前の未払賃金を支給した。従業員の多くはその金をもらって一時帰郷した。
しかし、一部の従業員は「会社が休業という”冷却期間”を置くことによって、もともと辞めさせたかった32人の従業員を自発的に去らせようとしている。操業を再開しても新規採用という名目で労働条件を切り下げようとしている」と疑った。
9月4日操業再開を会社側に約束させたタイ政府も、「休業によって従業員の生活保証がおかされるだけでなく、操業再開後新たな紛争が起こる恐れがある」と懸念し、8月29日、タイの内務省労働局と工業省は現地へ係官を派遣、実情を調査するとともに、会社側に早期操業再開を要望した。
労使の合意は「9月4日をメドに操業を再開する」というものだった。しかし、会社側の説明によると、監禁されていた4人が工場へ戻ることをいやがり、親会社である日本製麻でもサラブリ行きをOKする社員がおらず、このため会社は導入している機械の外国メーカーに英国人技術者の派遣を申入れ、そのメドがつくのに最低1、2ヶ月はかかり、この間休業せねばならない、というものだった。
それでもタイ政府の会社側への圧力は強く、結局、バンコクの事務所をはじめ、コンケン(タイ東北部)、ジャカルタ(インドネシア)の姉妹会社からもスタッフを集め、1975年9月9日、82日ぶりに操業を再開せざるを得なかった。