メコン圏を舞台とする小説 第26回「シェエラザード」 (上・下)(浅田次郎 著)

メコン圏を舞台とする小説 第26回「シェエラザード」 (上・下)(浅田次郎 著)


「シェエラザード」(上・下)(浅田 次郎 著、講談社文庫、2002年12月)
《単行本は、1999年12月、講談社より刊行》 この作品は学芸通信社の配信により、東京中日スポーツ・中日スポーツ(1996年10月22日~1997年10月12日)、愛媛新聞、岩手日報、新潟日報、石巻新聞、日本海新聞、福島民報、西日本スポーツなどに、順次連載された。

本書は、『鉄道員(ぽっぽや』で1997年、第117回直木賞を受賞した浅田次郎氏による、第2次大戦中に2千名以上の乗員乗客を乗せたまま沈没した「弥勒丸」にまつわる過去と現在の秘話を綴った大作長編。釈迦入滅後、56億7千万年後にこの世に現れて衆生を救うといわれている仏様の名にちなんだ「弥勒丸」というのは本書でのフィクションではあるものの、モデルとなった実在の歴史上の事件がある。第2次大戦末期の1945年4月1日夜、台湾海峡において米国潜水艦により撃沈された「緑十字船」阿波丸事件だ。阿波丸は、日本の支配下にある台湾、香港、仏領インドシナ、マレー、ビルマ、タイ、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどにある連合国人捕虜や抑留市民向けの救援物資を輸送するという特殊な任務を帯びていた為、連合国から往路・復路とも絶対に攻撃されず停船・臨検も受けないという保証を受けていたにもかかわらず、米潜水艦の魚雷4発により沈没させられ、たった一人の生存者を除き2千余名の乗客乗員の命が奪われたというものだ。

本書のストーリーでは、従業員8名という小さな金融会社の栄光商産の軽部順一社長と日比野義政専務が、中華民国政府の宗英明という老人から、昭和20年(1945年)、嵐の台湾沖で、2300人の命と膨大な量の金塊を積んだまま沈んだ弥勒丸をサルベージ(引き揚げ)する資金として百億円貸してほしいという依頼の場面から始まる。宗老人は、すでに大物与党国会議員、大手商社という別の2つのルートにも同じ話を持ちかけていた。栄光商産は、主として中小企業や個人事業者を相手に、企業割引と貸付を行っている会社であったが、そのオーナーは、日本で3本指に入る親分である共道会会長・山岸修造であり、山岸の義兄弟には全国船舶連合会のドン、小笠原太郎があった。

軽部は都市銀行に勤め副頭取の娘を妻にし支店長をつとめたが、ささいな女遊びが原因で家庭も職場も失い、3年ほど前に裏稼業に転身した男であり、日比野は自衛隊を除隊して広域組織「共道会」の金庫番と呼ばれる男であった。町金融「栄光商産」の社長、軽部順一は、さっそく大手新聞社で勤続15年学芸部キャップの元恋人、久光律子に話の裏をとる為の資料調査を依頼。久光律子は新聞社に辞表を出し、独自に九洋物産相談役の篠田郁麿を訪ねるなど、弥勒丸引き揚げ話をめぐって船の調査を開始するが、その引揚話を持ち込まれた商社財務部長、国会議員秘書が次々と不審な死を遂げていく・・・。

著者・浅田次郎氏の20代に体験した凄まじい話を著した『極道放浪記①殺られてたまるか!』(浅田次郎著、幻冬舎アウトロー文庫)に、第8犯 銀座黄金伝説・幻の一千億円と題した章があり、ここに書かれた台湾政財界の大立者や国会議員の秘書を名乗る男が登場する阿波丸サルベージに関する話があり、著者自身が本書と似たような設定で阿波丸の引き揚げ話に実際に遭遇している。

久光律子、軽部順一、日比野義政の3人が、いったいこの船の本当の正体は何なのか過去を辿ろうとし老人たちが阿波丸に関わる悲劇の真相を語り始めていくが、本書のストーリーは、こうした現在と、50数年前の昭和20年3月~4月の阿波丸をめぐる場面とが交錯して展開し、この船がなぜ、沈没することになったか、乗船していた人々の運命はどうなったのかなど、日本人が戦後の平和と繁栄のうちに葬り去った真実が次第に明らかになっていく。

大手新聞社勤続15年、これが自分の人生なのかと、ずっと自問し続け、弥勒丸の話をきっかけにすっぱりと新聞社を辞め、喪われていた自分を回復しようとする久光律子も本書の中心人物の1人だが、弥勒丸に乗船していた乗員たちやシンガポール(昭南)で弥勒丸を迎え待つ人たちの人間ドラマは読み応えがある。弥勒丸に密航亡命を図った白系ロシア人(1917年のロシア革命後、共産政権に反対して国外に亡命するロシア人)の少女も登場させているが、やはり胸を打つのは、日銀のシンガポール支店から特務機関に徴用された土屋和夫と、救世軍活動に携わる看護婦・百合子との清らかな恋と2人を襲う理不尽な運命であり、生き残った土屋和夫の弥勒丸の悲劇に向き合い続けるその後の生き方であろうか。

尚、本書フィクション上では、船の名前が阿波丸ではなく「弥勒丸」と設定しているが、実在の事件と違う主な点は右記の通りだ。また、本書のタイトル「シェエラザード」(Scheherazade) は、アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)で、愛していた妻の不貞により全ての女性を呪うようになり、妻に迎えた女を初夜の後に殺してしまうという誓いをたてたシャリアール王王に、毎夜その誓いを忘れさせてしまうほどの興味深く面白い話を聞かせた美しく賢い娘の名前で、この物語をもとにロシアの作曲家・リムスキー=コルサコフ Rimsky-Korsakov (1844年~1908年)がつくった交響組曲の名前でもある。

本書の目次

(文庫本・上巻)
総統の密使
昭和20年3月
黒衣の女
密航者
臆病者の末路
決断
栄光の船出
帝王の家
獅子の都
奪われた時間

(文庫本・下巻)
ソフィアの丘
サザンクロス
帰郷
日ざかりの午後
夏の夜の再会
托された黄金
遥かな闇
抱擁
シェエラザード
夜の涯に

解説  吉野 仁

実在事件との主な違い
・船名:弥勒丸(実際は阿波丸)
・事件日:1945年4月25日午前2時16分(実際は1945年4月1日午後11時)
・船舶所有:帝国郵船(実際は日本郵船)
・船の建造完成:昭和16年9月三菱重工長崎造船所(実際は、昭和18年3月5日三菱重工長崎造船所で完成)
・総排水量:1万7千トン(実際は1万2千トン級)
・船長名:森田新一郎(実際は浜田松太郎)
・生存者:中嶋吾市(司厨員)(実際は司厨員の下田勘太郎)
・米潜水艦:キングズフィッシュ(実際はクィーンフィッシュ)
・航路:弥勒丸はナホトカで救援物資800トンを積載。門司港で内地俘虜のための150トンを下ろし、残り650トンの救援物資を積んで、高雄、香港に寄港。仏印のサイゴンに寄港するはずであったが、急遽香港からシンガポールに直行することになった。ジャカルタ、ムントクに寄り再びシンガポールに入港。その後は何処にも寄港せずに南シナ海を北上し、台湾海峡を通過し日本海に入って敦賀に戻る予定(実際は、ナホトカから救援物資を積載したのは白山丸。阿波丸は神戸港で救援物資を積載し、高雄、香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタ、ムントク、シンガプールに寄港する)

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