メコン圏題材のノンフィクション・ルポルタージュ 第27回 「トオイと正人」(瀬戸 正人 著)

「トオイと正人」(瀬戸 正人 著、朝日新聞社、1998年9月)(本書は『アサヒグラフ』連載の「家族」(1997年1月17日号~12月5日号)に大幅加筆し、改題したもの)

<著者紹介> 瀬戸 正人(せと・まさと)
1953年タイ国生まれ。写真家。89年、写真集『バンコク、ハノイ』で日本写真協会新人賞受賞。96年、写真展『Silent Mode』『Living Room 1989-1994』を中心とする作品活動で、第21回「木村伊兵衛写真賞」を受賞する。<本書紹介より、本書発刊当時>

本書は、写真家、瀬戸正人氏による自伝エッセイ。1953年、タイ国のウドーンタニで、残留日本兵の父とベトナム系タイ人の母との間に生まれ、トオイと名付けられた著者、瀬戸正人 氏(日本に帰国後に日本名として正人と名付けられる)は、1961年、これまで暮らしてきたウドンタニを離れることを決意した父に連れられ妹とともに父の故郷・福島に渡り、実家を継いでいた父の弟の家に住み、2年遅れで父の実家の地元の小学校に編入。1965年春には父がベトナム系タイ人の母と弟、妹を連れて福島に本帰国し、家を隣町に新築し家族全員で福島での生活が再開。父はウドンタニ同様、福島でも写真館を経営することになる。

その後、著者の瀬戸正夫 氏は、福島での高校を卒業後、1973年、20歳で東京の写真学校入学のため上京し、写真家の道を歩むことになり、東京で写真家のアシスタントを卒業し写真家として独立し1982年には、20年ぶりにバンコク、ウドンタニを訪ね、さらに1983年にはベトナム系タイ人の母を連れ、約20年前にウドンタニからハノイに移り住んでいた親戚と再会する旅に出る。

本書「トオイと正人」は、東北タイのウドンタニで生まれ育ちタイ語しか話せなかった少年トオイと、8歳で日本に渡り名前を「正人」と変えて日本人として生きることになり、いつの間にかタイ語を話すことができなくなっていった正人の著者の半生の物語。ただそれだけでなく、初出の原題が、「家族」と題されていたように、残留日本兵の父、東北タイのウドンタニで生まれ育ったベトナム系タイ人の母、更には福島に住む父方の日本人祖母や父方の親戚、母方のベトナム人の祖父やベトナム人の親戚、著者とタイ人女性の妻とその娘と、日本の福島・東京、タイのウドンタニ、ベトナムのハノイで暮らした、太平洋戦争から20世紀末までの約半世紀にわたるアジアの4世代家族の物語でもある。

まず、トオイの父親の瀬戸武治氏が、どういう経緯で残留日本兵となったか、その後、どこでどう暮らしていたのか、どういうことがきっかけで日本への帰国となったのかが、気になるところだが、1942年(昭和17年)3月、20歳で出身地の福島県大枝村川内(現・福島県伊達郡国見町川内)から出征。東北本線藤田駅から万歳三唱で送られ、翌日、会津若松第29連隊に入隊することから父親の物語が始まる。その後、所属部隊は各地を転戦するが、上海から杭州、ベトナムのハノイに南下し、1945年(昭和20年)9月に入ってから、ラオスのメコン河に面したタケクで敗戦を知る。1個中隊2百人余りの部隊をまだ維持し、命令があれば、メコン河を渡りタイ国を横切ってビルマ戦線に向かうのではないかと思っていたという。終戦時は陸軍軍曹だった。

所属部隊のほとんどの者が復員するため対岸のタイ領に集結したが、瀬戸武治氏は、帰れば下士官以上は処刑されるとの噂があって、数人のメンバーとともにそれを拒んで留まり、その後、翌1946年にメコン河を渡り、タイのジャングルに入り、数人単位に分かれて潜伏。戦後何年かたってから、ウドンタニにたどり着き、仏領インドシナの時代に戦禍を逃れて移民してきたウドンタニの中のベトナム人社会で、日本に帰ることを諦めて現地に同化し、日本人として名乗ることもできずベトナム人として暮らすことになる。ウドンタニの市場で働くベトナム系タイ人の著者の母と出会い、タイでベトナム人に許されていた数少ない仕事である市場の豚肉屋でソーセージをつくって売ったり、ときには市場周辺で街路樹に鏡をかけてその木陰で床屋をやってみたりしながら、裸一貫から身を起こし、写真館での弟子修行から町一番の写真館を経営するまでになる。

ただ、その後、ウドンタニのベトナム人社会に異変が起こる。町の半分が焼けるほどの大火があり、瀬戸武治氏の写真店も焼けてしまうが、町の大火を皮切りに、共産化を食い止めるべくベトナム人スパイの摘発が始まり、不審な者が次々と連行されていき、身の危険を察し、バンコクの日本大使館に名乗りでて、ベトナム人の妻と子供たちを連れて生まれ故郷の福島へ帰る決心をする。戦争が終わって12年経った1957年(昭和32年)夏、タイから福島の実家に突然、手紙を送るが、福島の実家では終戦後間もない時期に軍から遺品らしきものが届き、すでに南方で戦死したと軍から告げられ墓まで建て、長男である武治氏が帰ってこなかったため、次男が農家の実家を継いでいた。著者の父の瀬戸武治氏は、出征以来18年ぶりに1960年3月、福島の故郷に一時帰国し、翌1961年2月、タイからトオイと妹タムを連れ、更に1965年にはベトナム系タイ人の妻と次男・次女もウドンタニから連れて本帰国に至る。

本書の内容は、メコン圏での日本軍の動きや残留日本兵のテーマにも関わり、瀬戸武治氏が終戦直後、ラオスのタケクで、「潜行三千里」でも著名な元陸軍参謀の辻政信(1902年~1961年以降ラオスで消息不明)から重慶行きを誘われていたことも驚きだ。本書の内容に深く関わっているのは、やはり、残留日本兵の瀬戸武治氏が家庭を持ち、著者の母親のベトナム系タイ人が生まれ育ち、著者の瀬戸正人氏も生まれた町、タイ東北部のウドーンタニの特徴だろう。

著者の母親のベトナム人の父親も、北ベトナムの反仏、反植民地闘争の活動家で、ハノイでの活動が厳しくなると、地下に潜りラオスを横切って、メコン河を渡って、20世紀初にウドンタニに来ていたし、ラオスとの国境に近いこともあって、そこにはベトナム人やラオス人、中国人が多く住んでいて、瀬戸武治氏が日本人であることを隠し、ベトナム人として紛れ込むには絶好の町で、ウドンタニのベトナム人社会が瀬戸武治氏を受け入れ援助してくれた。その後は、タイでの共産主義運動が激化しタイの東北地方が共産主義活動の拠点になっていったが、またアメリカのベトナム戦争への本格介入から、ウドンタニがハノイに最も近い米軍基地になっていく運命にもあった。プミポン国王(1927年~2016年)が戦後初めてウボンタニを視察した時の撮影を瀬戸武治氏が依頼された話が紹介されているが、これはプミポン国王が26歳とのことで、1954年頃の話であろうか。

一方、福島での家族の物語もいろいろと感慨深い。特にウドンタニで暮らしていると福島に届いた父からの手紙で父が生きていることを知り、和服姿でウドンタニを訪ねた著者の父方の祖母と、子供時代の著者との交わりも印象深い。また、ベトナム系タイ人としてウドンタニに生れてきた著者の母親も、1965年に住み慣れたウドンタニを離れ、全く分からない日本の福島での生活を始めることになったわけで、その苦労も大変だったことと思う。著者の小学校から中学校、高校時代にかけての福島での学生生活や、東京写真専門学校進学での上京から写真家の道を歩む若き日の物語も、たっぷり読み応えがある。

そして、もう忘れてしまっていたウドンタニにいつか行ってみたい、帰りたいと思うようになったきっかけが、1970年代半ば、東京の水道橋の書店で初めて買った写真集、東松照明氏(1930年~2012年)の「太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ」(毎日新聞社、1975年)とのこと。1982年に著者は、約20年ぶりに、タイのバンコク、ウドンタニを再訪するが、翌1983年1月に、母を連れてベトナムのハノイを訪問し、約20年ぶりに、ウドンタニで別れた著者の母方の親戚と再会する旅も感動的だ。インドシナにおけるフランスの植民地支配に抵抗した母方の祖父は地下活動に潜って以来数十年も離れていたハノイに帰っていき、ウドンタニに生れ共に暮らした母の姉妹とその家族も、フランス軍が撤退し、アメリカとの戦争が新たに始まるとはだれもが思っていたなかったハノイに一緒に帰っていった。この間の長きにわたるベトナム戦争の苦しみを想うと、このベトナム人家族の再会も劇的。

なお、写真家・瀬戸正人の自伝エッセイ「トオイと正人」を、同じく写真家で作家としても活動する小林紀晴が初監督作としてドキュメンタリー「トオイと正人」(2023年製作)が映画化された。 

■本書の目次
1. Bangkok 1982
2. Fukushima 1942
3. Fukushima 1961
4. Fukushima 1965
5. Tokyo 1973
6. Bangkok, Udon Thani 1982
7. Hanoi 1983
8. Tokyo 1992

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