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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第62話 「徐福の実像」
- 2005/8/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
秦の始皇帝の時代に、日本に渡ったとされる徐福には、タミル色がつきまとう?
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」
第62話 「徐福の実像」
中国人と日本人が書いた徐福の本を読みました。日本の記紀ではまったく無視されている徐福ですが、司馬遷の『史記』では実在した人物として記録されています。また日中の各地にある徐福の像はそれらしく古代の中国の服装をしていますが、秦の始皇帝とは性格的に妙にウマが合ったりしていて、漢人ばなれしています。中国人は徐福=神武天皇説を好む傾向がありますが、神武天皇については安本美典が歴史上実在した天皇の在位年数から逆算して、「神武天皇が実在したとすれば、それは三世紀後半の人である」と数理的な結論を出しています。徐福の渡海は紀元前三世紀前半のことですから、時代が合いませんね。また日本側の文献には、徐福は孝霊天皇のときに来たとか、孝元天皇、景行天皇のときに来たというのがありますが、まったく取り合う必要はないでしょう。
紀元前三世紀前半といえばカリンガ王国がアショカ王に滅ぼされた時代です。それ以前からカリンガ王国のオリッサ人や南インドのタミル人は、ジャワをはじめインドシナの沿海地方に移民を送り出していました。『史記』に見える徐福の事跡はひとえに組織的な移民を実行したことが強調されています。そういう発想は当時はオリッサ人やタミル人のものだったのではないでしょうか。もしかすると徐福は漢人ではなくインド人だったかも知れませんよ。始皇帝が一目も二目も置いたのは徐福がインドシナから倭の島々に通じるルートを把握していたからかもしれません。『史記』には徐福が「大鮫魚」や「海中大神」に出会ったと記しています。ワニや海神は日本神話の神代の時代のおなじみの登場人物で、『史記』をすなおに読むならば、紀元前三世紀前半の倭の島々はまさに「神代」だったということでしょう。文献上は『史記』以外には信頼するに足るものはなさそうです。それではほかにどういうアプローチがあるでしょうか。
文献に散見する地名などの固有名詞を読み込むアプローチをとってみましょう。まず蓬莱山、ホーライ(蓬莱)に対応するタミル語の言葉にポライ(山)があります。また日本の徐福の上陸地としては三重県のハタス(波田須)、佐賀県のハタツ(秦津)がありますが、これらに共通する「ハタ」の古音は「パダ」でしょう。タミル語の言葉にパッダー(上陸する)があります。また熊野のヤイカ(矢賀)という地名は、タミル語でヤーイ(母)・カー(サラスヴァティー女神)と読めますし、新宮のアマカの明神は、タミル語でアンマー(母)・カー(サラスヴァティー女神)と読めます。
徐福を祭神として祭る日本唯一の神社に佐賀県の金立(キンリュー)神社があります。金(キン)は漢音、立(リュー)は呉音で、普通の読み方ではありません。異常な読み方と言ってよく、原音に対する当て字であることは疑いのないところでしよう。「kinryuu」の原音は何だったのでしょうか。これを「kinry-uu」と音節を分ければ、タミル語でkiri(山)-uur(日や月のかさ)と読むことができます。日や月のかさが山にかかる意味となり、非常に神秘的な山の様相が想像されます。金立山は原初はタミル語でキリウール(山にかかるかさ)と呼ばれたのではなかったでしょうか。
五十年に一度の金立神社の大祭に歌われる歌の文句に、「真っ赤な石榴も実をつけて」という一節がありますが、真っ赤な石榴はチャンパ王国のチャム人の祭神ポー・チャイ・チャリム(石榴おじさん)に必ず捧げなくてはならない最も重要な供物なのです。チャム人の祭神に捧げられる重要な供物が金立神社の大祭の歌に出てくることは何とも不思議な事実ですが、見過ごしにはできないと思います。また佐賀県には「徐福ゆかりの弁財天」というのが祭られていますが、弁財天とはサラスヴァティー女神のことで、熊野や新宮の地の「母なるサラスヴァティー女神」に一直線につながるものです。「徐福ゆかりの弁財天」とは、むしろ「弁財天ゆかりの徐福」と読めるかもしれませんね。
以上のように徐福にはタミル色がつきまとって離れません。このことによって徐福は記紀では抹殺されてしまったのではないでしょうか。