コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第38話 「漢字と泰・越語(5)」

藤堂明保氏の著書「漢字と文化」の中の「楚と越ーベトナム人・タイ人の源流」への論考

コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第38話 「漢字と泰・越語(5)」

藤堂明保の『漢字と文化』は昭和42年(1967)に出た本です。その中の「楚と越-ベトナム人・タイ人の源流」という章は詩経に始まる文献上のアプローチ、また広西省への旅行による見聞などを織り交ぜた示唆的な一篇でした。藤堂氏は楚をタイ系の人々が建てた国といい、また呉と越を同じ越人の国ながら呉は周の植民地国家だったという説を展開しています。中国の学界の定説である楚の人民は苗族(王室は別の民族とする説と王室も苗族とする説がある)、呉は苗族の国で越は越人の国、という説とは違った説ですが、それなりの根拠を持っています。まあ、いろんな説はそれぞれそれなりの根拠を持っているものですがね。

ところで「楚と越-ベトナム人・タイ人の源流」の終わりの部分に、たとえば河内(ハノイ)とか西貢(サイゴン)とか漢字の独特の発音であるベトナム音に対する論者の見解が出ていました。この独特のベトナム音は、中国の三国時代または唐代長安の古い借用音ではないか、と論者は考えているようです。僕はもっと古い楚音ではないかと考えているので、この点、事例を上げて少しさわっておきましょう。

日本語で漢音・呉音の違いの明らかな漢字を例に挙げます。中国の三国時代の呉の音に最も近いのは南朝音として百済に伝わって残った韓国音で、また現代の広東音は唐代長安の音を伝えているといわれます。これらをベトナム音と比較してみましょう。

漢音  呉音   韓国音   広東音  ベトナム音

日   ジツ   ニチ   イル    ヤット   ニャット

米   ベイ   マイ   ミ     マイ    メー

武    ブ    ム    ム     モウ    ヴ

生   セイ   ショウ  セン    サン    シン

権   ケン  ゴン   ゴン    キン    クイェン

さあ、どうでしょう。わずかな事例ですが、中国の三国時代の音の借用なら韓国音にもっと近く、また唐代長安の音の借用なら広東音にそっくりでなければならないと思います。日(ニャット)や武(ヴ)、権(クイェン)など、ベトナム音は他の発音に比べて圧倒的に荒削りな感じがしますね。僕はこの荒削りな感じが発音の時代の古さを示すもので、漢音よりもはるかに荒削りなことから楚音ではないかと考えるのです。

また論者はベトナム国字のチュノムにふれて、チュノムの字音はベトナム音よりさらに古い時代の発音ではないかと言っていますが、チュノムはベトナム語を漢字化したものですから、チュノムの字音はベトナム語そのもので、漢字の発音のひとつではありません。たとえば論者が例として挙げている「舞」のチュノムは「手ヘンに某」という文字で、発音は「ムア」ですが、これは「舞う」という意味のベトナム語の単語です。また同じく例として挙げている「斧」のチュノムは「金ヘンに斧」という文字で、発音は「ブア」ですが、これも「斧」という意味のベトナム語の単語です。論者は漢字のベトナム音とベトナム語の言葉を混同しているのではないかと思われます。ついでながら仙人は日本語の中にもベトナム語が一部入り込んでいるのではないかと考えています。「ネバ・ル」(粘)とネップ、「マ・ウ」(舞)とムア、「コメ」(米)とコム。コムはベトナム語でご飯のことですが、また米櫃のことをマム・コムとも言い、コムに米の意味を持たせるベトナム語の用法もあるのです。

さて本論に戻りましょう。楚の屈原の「離騒」という詩に、米ヘンに婿の右半分をツクリとする漢字が見えます。神を祭るための特別の米を意味する文字で、漢音で「ショ」という発音ですが、このS音は稲を意味する古モン語のスロ(SRO)やクメール語のスルー(SRU)などモン・クメール系の言葉につながるように思います。同時にまた『日本書紀』で神稲を示す「サ」という言葉(この言葉は現代にも「サツキ」「サオトメ」などの「サ」として伝わっています)、またサルタヒコの「サ」、韓国語で米を意味するサル(SAL)にもつながるものではないでしょうか。米ヘンに婿の右半分をツクリとする漢字、神餞を意味するこの文字は、モン・クメール系の言葉を音声言語として形成されたような気がしてなりません。

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