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コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第18話 「チャム族の口承文芸」
- 2001/7/10
- コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」, 企画特集
北タイのハリプンジャヤ王国と中部タイのラヴォ王国間の塔の建設競争の話から、チャム族の説話へ
コラム(江口久雄さん)「メコン仙人だより」第18話 「チャム族の口承文芸」
仙人ワーステープがハリプンジャヤの街を築いたのは661年のことでした。2年後に中部タイのラヴォ王国(ロッブリ)の王女チャームテーヴィーが街の女王としてしずしずと入城します。チャームとはベトナム中部に輝かしいチャンパ王国を経営していたチャム人のことで、チャームテーヴィーの名には「チャムの女神」という意味があります。
ハリプンジャヤ王国は、その後、ラヴォ王国と衝突することがありました。クメール帝国のスルヤヴァルマン一世の時代、1005-1022年にかけて、ラヴォの街はクメール帝国に服属してその前進基地になったが、このとき両者は何度も軍を出して戦っています。その後、1130-1150年の間、両者は再び戦いました。アディタヤ王に率いられたハリプンジャヤの軍隊はラヴォの街に押し寄せて城壁を囲みます。そのとき実戦の代わりに塔の建設競争をやることが提案され、両軍はそれぞれ塔の建設をはじめました。このときはハリプンジャヤの側が負けたので、約束どおりに軍を引き上げます。やがて今度はラヴォの軍隊がハリプンジャヤの街に押し寄せ、そこで実戦の代わりに池を掘る競争が提案され、両軍は池掘りにかかります。このときはラヴォの側が負けたので、約束どおりに軍を引き上げました。
このメコンプラザの主宰者の清水さんから一冊の本が届きました。チャンベトキーン著本多守訳『ヴェトナム少数民族の神話・チャム族の口承文芸』(明石書店、2000年12月刊)という堂々320ページの大冊です。チャム族とひとくちに言っても現代ではインド系のチャム文字を使うヒンドゥーの神々を崇拝する集団と、アラビア文字を基礎とするジャウィーを使うイスラムの集団があって、たとえばカンボジアに住むチャム族は多くイスラムで、クウェートで印刷されたチャム語のテキストを使って民族の言葉の教育が行われています。
1世紀にカンボジアの地に扶南王国が成立したのに続いて、2世紀には中部ベトナムの地にチャンパ王国が成立しました。インド文明の影響を受けたチャム族の国です。この国はその後、ベトナム、クメールの両民族と争いつつ17世紀まで存続します。
ところで初めに紹介したようなハリプンジャヤとラヴォの両国間に戦われた奇妙な戦争、こんな戦争が本当にあったのだろうか、あったとすれば支配階層の人たちはたいへん鷹揚な文化を持っていたのではないかという疑問がここ数年わだかまっており、それはまたチャームテーヴィー(チャムの女神)という不思議な名前の女王とともに、もしかするとチャム族の古代チャンパ王国に謎解きの糸口があるかもしれないと漠然と考えてきたところに上記の一冊。早速開いてみると、果たせるかな、あった、あった。
「ポー・クロン・ギライ塔の事蹟」という説話の一節に塔の建設競争があります。ポー・クロン・ギライはチャンパの国王のひとり。
「またクメール軍が占城を侵略占領した時、王はまたもや塔を建てる競争をしようという条件を出した。もし王が勝てばクメール軍は撤退し、負ければ領土を割譲すると。クメール軍は大勢の兵士がいたので負けるとは思わず、その勝負を受け塔を建て始めた。その時もポー・クロン・ギライは、民衆に竹で枠を作り紙を貼って煉瓦を作るよう命じた。クメール軍の塔が完成間近になるのを待って、夜間ファンランで偽の塔をいくつか作らせた。早朝、クメール人が起きると天の片隅にチャム人の塔が建っている。それを見てクメール軍は仕方なく負けを認め、自国へと撤退した。」
また「ニャン(雁)塔の事蹟」は、フーイェン省に実在するニャン塔と呼ばれるチャムの塔の起源を物語る説話で、1578年ベトナムの将軍梁文正は軍隊を率いてチャンパ征伐に赴きました。
「両軍布陣し戦いが始まる間際になって、占城軍の将軍は次のように提案した。両者で塔を建てる競争をし、どちらか先に建てた方を勝者とみなそうと。梁文正も損害を出すのは避けたかったので、その提案を了承した。梁文正は巧妙な作戦をとった。すなわち自軍に竹で塔を作らせ色のついた紙をその上から糊付けした。そのため塔はたった一夜で建て終わった。」
チャンパの軍は本物の塔を作ったので競争には負けたがニャン塔として残ったというはなしです。
これらの二つのはなしを見ると塔の建設競争を提案するのは、いずれもチャンパ側です。チャンパ遺跡には立派な塔がたくさん残されているが、彼らはよほど塔の建設技術に自信があったのかもしれません。