メコン圏現地作家による文学 第13回「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フォン 著、石原未奈子 訳)

メコン圏現地作家による文学 第13回「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フォン 著、石原未奈子 訳)


「愛と幻想のハノイ」(ズオン・トゥー・フォン 著、石原未奈子 訳、集英社(集英社文庫)2004年9月)

本書は、表紙の装丁やイラスト、「愛と幻想のハノイ」という邦訳タイトルに加え、「アジア発!せつなくも美しいラブ・ストーリー」「ベトナムの光と風だけが知っている、ひそやかな純愛のゆくえは・・・」「混乱のベトナムを舞台に揺らめくトゥルー・ラブ」という文字が躍る本書の帯などから、今風の軽やかな恋愛小説かと思いきや、ベトナムの気鋭女性作家・ズオン・トゥー・フォン(Duong Thu Huong、1947年生まれ)が1986年に発表した力強い長編小説の邦訳作品だ。ただ、この邦訳書はベトナム語の原著からの邦訳ではなく、原著の英訳作品「BEYOND ILLUSIONS」(2002年刊行、Hyperion)の邦訳となっている。

 著者のズオン・トゥー・フォンは、同時代の大きな事件を物語にとり込み大胆に鋭くベトナム社会の現実に切りこんでいくスタイル、詩的でみずみずしい感性の持ち主として脚光を浴び国際的な評価も高い作家で、他の邦訳されている代表作『虚構の楽園』(邦訳タイトル、段々社)同様、本作品でも著者の特性が遺憾なく発揮されていると思う。著者は1987年頃から反体制的言動を強めてベトナム政府の反感を買い、1990年7月には共産党籍を剥奪され、1991年4月には「国家機密漏洩」のかどで逮捕、その後フランス政府が人権問題としてこの事件を重視した結果、91年11月に拘留をとかれるものの、政治的に微妙な立場にあり続け、本書の訳書あとがきには「作家協会からも除籍処分され、現在は執筆停止の状態にあるという。」とも書かれている。

 本書は、ある著名な音楽家と人妻との不倫を描き、しかもその音楽家のモデルが作家協会の重鎮だということで、原著者はベトナム政府当局から目をつけられていたという、この問題の小説の主人公リンは、抗米救国戦争(ベトナム戦争)後のハノイで、ジャーナリストの32歳の夫、5歳の娘と暮らす高校の文学教師というハノイ生まれの若いベトナム人女性。リンは、大学2年生の時にクラスで文学を教えることになった教師グエンと出会い、大恋愛の末に結婚し、幸福な日々を過ごしていたが、リンは夫グエンを愛せず嫌悪感を覚えるようになる。

 並外れた知性に惹かれ信念に生きる人だと尊敬し人生の手本にしていた夫が、政府に都合のいい嘘のいい記事を書き、昇進と昇給してきたことを知り、誠実でまじめで純粋なリンは妥協を許さず、夫への愛と尊敬が消え2人の関係は崩れてしまう。そして絶望の淵にあったリンは、自分と24歳も年齢の離れた有名作曲家チャン・フォンとカフェで出会い恋に落ちてしまう。

 彼には妻がいたし、多くの女性と不倫を重ねてきた過去もあったが、「きみの前にも女はたくさんいた、それは本当だ。否定はしない、それは卑怯な偽善者のすることだ。だけど過去の女は向こうから近づいてきた。こんなことを言うのは不謹慎だが、世間にはありふれた女が多い。そういう女たちとつきあったのは、同情したからだったり、気晴らし目当てだったり、幻滅したからということもあった。でもきみは、わたしが本心から愛した、ただひとりの女性だ。はじめて名前で呼んだ女性、ずっと探していた人だ。」という言葉をリンは信じた。しかし現実はリンが思っていたほど甘くはなく、彼女はまたしても人生の苦さに直面することになる・・・。

 人生の苦痛・絶望と希望、正気と幻想、理想と現実、情熱と無知、激しさと静寂、誠実と自立など、本書で描かれてきたテーマが最終章のラストにも凝縮されてされていると思うが、他にも自然の風景描写や、人物・恋愛描写もこまやかだ。リンとチャン・フォンがよく逢瀬を重ねるのは、近くに紅河が流れトウモロコシ畑が広がるハノイ郊外であり、リンの夫グエンが同僚と一緒に、ホアン・ホア・タムが率いたバックザン省イェンテ区の抗仏運動の取材の際、トゥオン川を船を雇って移動するシーンも特に印象的だ。

 リンの夫グエンが調査取材した「管理が行き届き、革命運動の模範的な担い手」というモデル地区の農村経済の実態の話、極悪非道な党幹部をかばう人々たちとその行動、「模範集合住宅」「現代社会主義文化家族賞」、近隣調停委員会、模範行為、社会主義校などと言う言葉を使いながら革命派のモラルを守るためといって他人の夫婦や家族の問題を大きく取り上げる人たち、下劣な権力を振り回す画家協会の上司について「だがどうして、あのろくでなしを避けるためにカナダへ逃げなくちゃならん?国はあんなくそ野郎だけのものじゃない。おれたちの、おれたちみんなのものだ」と語る画家の話、グエンが父親からよく聞かされた同胞意識が強すぎるための村人たちの恐ろしい行動の話など、随所にベトナム社会の現実の暗部がえぐられると同時に、ベトナムの悪癖について、いろんな形で語られている。

◆以下はグエンが後輩のジャーナリストに対して語る場面
「ずっと前から思っていたが、この国の人間は問題を突きつめて考えるっていくことをしない。土地を一区画、耕しては、すぐに見捨てて次へ移る。種を蒔くことすらしない。ものごとを深く、徹底的に考えるということができないんだ。わからないか?夢に浮かされた情熱も、深みのない理想も、わたしたちを迷わせて、失敗と失望へ導くだけだ。」
「ずっと前から思ってたんだ、ものごとを考え抜くということをしない、厳しい目を持たない、ベトナム人の気質について記事を書きたいって。その気質が、わたしたちを浅はかで衝動的な国民にしているんだ。・・・」

◆以下はグエンの上司で新聞社の編集長がグエンに語る場面
「資本主義の国では、価値観も、道徳観も、我々のものとはまるでちがう。だがこれだけは言える、ジャーナリズムに限っては、彼らはじつに聡明で客観的だ。それは他の職業にも言える。すべては絶対の原則に基づいている。つまり、要は個人なんだ。人は田他人をコネじゃなく、その人の能力で判断する。日本の銀行でさえ、頭取の息子が副頭取になるには、経済と法律の学位を取らなくちゃいけない。そのうえ、いろんな部署で7年働いて、仕事を学ばなくちゃいけない。そんなふうに出世した人間は、自分の力で生きていける。そうなれば、社会を支えるのは、健全な基盤ということになる。だがこの国では、そう、なにもかもがややこしくて、難しい」

◆以下は本書の冒頭で夫をなじるリンに対するグエンの応答
「研究を終えたとき、わたしは鎧をつけて戦いへ赴こうとしている兵士のように、決意に燃えていた。きみほど昂ぶってはいなかったかもしれないが、きみと同じように、誇り高く生きる覚悟だった。自分が書いたものが革命の役に立っていると信じていた。正義の戦いを助け、進歩をたたえ、いまだにわたしたちの社会を毒するもの、醜いものを告発していると思っていた。わたしはひとりじゃなかった。同じ理想をかかげる同僚はたくさんいた。だけど、少しずつわかってきたんだ。理想はあまりにも遠すぎて、わたしたちの意志の力ではたどりつけないってことが。わたしはあちこちへ取材に行かされた。どこへ行っても歓迎されて、おおげさな作り話を聞かされた。どこででも、成功は誇張され、失敗と敗北は隠された。誰もが同じ病におかされてるんだよ。結果や功績だけにこだわる心が、現実を隠し、この社会をおびやかす危険をうやむやにしてしまうんだ。昔からこの国の人間に根づいている悪癖に、立ち向かう勇気のある者がいるか?個人の権利が大切にされない社会では、たったひとりで立ち向かったって、社会の潮流にあっけなくながされてしまうんだよ。ああいう記事を書いたとき、最初の何度かは、良心の呵責や疑問を感じた。反発や抵抗を感じた。だけどだんだんわかってきた。この”成功崇拝”は、ある種の人たちに利益をもたらしてるってことが。そういう人たちが、恥知らずな嘘で崇拝心をあおっているんだ、とね。誰かがボーナスをもらうたびに、社会はまた一歩、奈落へ押し出される。だけど、反撃して打ち負かすには、軍隊が必要だ。装甲車に、ミサイルも。わたしはただの歩兵にすぎない。あるものといえば、拳銃一丁と数えるほどの銃弾だけだ。少しずつそういう状況に慣れていった。しかたないじゃないか。わたしは文化人だが、公務員でもある。そして公務員なら、月末に給料をもらうために、義務を果たさなくちゃならない。人生は完全じゃないんだ。今日、信じていることが、明日には嘘だとわかることだってある」

 尚、本書の設定では、リンの不倫の相手の有名な作曲家チャン・フォンは、ハイドン県出身で、青年期は抗仏運動に費やし数々の愛国歌を書き、妻のホアとは、北部山岳地帯の解放区で彼を含む芸術家集団が兵士を慰問しようと前線へ向かっていた時に出会っている。ジュネーブ会議の結果がわかったとき、平原に戻って首都ハノイを解放せよとの命令を受け、仲間たちと首都ハノイに進軍。数年後、重要な地位に就いたとき、文芸紙誌『人文(ニャンヴァン)』『佳品(ザイファム)』を拠点に党批判を繰り広げていた一部芸術家集団を弾圧する責任者に、党の上層部から任命された。運動の中心的なメンバーのなかには彼の友達もいた。この任務を終えると、さらに一歩進んで、シンパ弾圧運動を開始した、となっている。

 著者紹介:ズオン・トゥー・フォン Duong Thu Huong
1947年、ベトナム・タイビン省に生まれ。ベトナム戦争中、21歳のときに志願して激戦地へ。戦後、小説家としてデビュー。1982年、党や知識人を告発した内容のシナリオが検閲にかかり、以後3年もの間、執筆活動を制限される。また、1991年にも逮捕されて、裁判を開かれることなく7ヶ月間拘留されている。本作品は、1987年に発表された著者初の長編小説。日本では、すでに短編『ハン・リーの花』(『流れ星の光 現代ベトナム短編小説集』新宿書房に収録)と長編『虚構の楽園』(段々社)が出版されている。現在、ハノイ在住。(本書著者紹介より)

訳者紹介:石原未奈子(Minako Ishihara)広島県出身。東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。翻訳学校ユニカレッジで小川隆氏、加藤洋子氏に師事。訳書に『わたしが消えた夜』(集英社文庫) 『秘めやかな約束』(ソニーマガジンズ)ほか。サッカーと水辺をこよなく愛す。(本書訳者紹介より)

関連テーマ
●ニャンヴァン・ザイファム事件
●ホアン・ホア・タム(抗仏運動の有名な指導者)
・「キエウの物語」(ベトナムの国民的長編詩)
・タック・ラム(情感豊かな文章で知られる1910年ベトナム生れの作家)
・クアン・ズン
・タックバ・ダム
・チュウ・ドン・トゥ寺院(ハノイ北東28キロにあるフンイェン省の寺)
・グエン・ビン(漢詩で名高い16世紀の官僚、文人)
・トゥドゥック貨(ベトナム最後の皇帝をかたどった硬貨)
・赤旗組(警察の補助組織)
・トー・ヒュー(ベトナムの詩人)
・バイン・ミー・ティット(ベトナム風のバゲット・サンドウィッチ)
・チャールア(バナナの葉で包んだ豚肉のソーセージ)
・バンメトート(ベトナム中部高原の都市。コーヒーの名産地)のコーヒー
・ネムチュア(発酵させた豚肉)
・タイグエン(北部の茶の産地)茶
・ガーチン(鶏の唐揚げ)

ストーリー展開場所
・ハノイ  (リー・クオック・スー通り、ブオムニュオム通り、ドンスオン市場、ハンコー駅、ハンガ通り、ハンブオム通り、ダオ通り、ハンザ市場、ホアンキエム湖、チャンティエン通り、ルオック通りの花市場、ホンハ映画館の向かいにある時計台、マー通り
・バックザン(バックザン駅、バックザン駅、イェンテ区、ボハ、トゥオン川、材木橋、地方博物館)

ストーリー展開時代
・1980年代(1986年5月27日作であり、「ドイモイ」を決定した1986年12月の第6回共産党大会以前)

登場人物たち
・リン(主人公、高校の文学教師)
・グエン(リンの夫。ジャーナリスト)
・チャン・フォン(有名な漆絵を描いた画家で、アジア中で愛されている歌を作った有名な作曲家)
・ホア(チャン・フォンの妻)
・ゴック・ミン (<音楽研究>誌の女性ジャーナリスト)
・フォン・リー(リンの5歳の娘)
・ラン(リンの父方の叔母)
・ターオ(画家)
・チョン(グエンと同じ部署で働くジャーナリスト)
・キム・アン(リンの働く高校の女性校長)
・ズン(リンの働く高校の副校長で高校共産党の書記)
・グエンの上司の編集長
・ミス・トン(リンと同じ建物の住人)
・ル教授(リンと同じ建物の住人)
・ホン(リンと同じ建物の住人)
・カフェの店主
・リエン(カフェのウェイトレス)
・音楽家協会の事務局長
・ベトナム公安警官
・船頭とその妻子
・リュー(党指導者の秘書)
・年老いた守衛(リンの働く高校)
・年老いた守衛(音楽家協会本部)
・ハノイ郊外に住むグエンの両親
・ランの夫と息子
・ドリンクスタンドの女性店主
・ドリンクスタンドの客
・チャン・フォンの運転手
・ホアの亡き父の古い友人
・ミス・クエン(リンの高校の保健師)
・タオ(ジャーナリスト協会で働いているグエンのかつての同級生)
・国家青果商の経営者
・ドゥック(生物学者。ゴック・ミンの元恋人)
・ホアの叔父の、有力な党幹部
・クイン(バスケの選手)
・グエンの働く新聞社の管理責任者
・カム(チョンの妻)
・リエム(カムの兄)
・グエン・タイン・ヒエン(党幹部)
・グエン・チュン(人民検察院で働く若い検察官)
・チン(グエン・チュンの妹)
・グエン・タイン・ヒエンの妻
・ヴァン・タイン(リンの働く高校の女子学生)

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