メコン圏現地作家による文学 第1回「虚構の楽園」(ズオン・トゥー・フォン 著、加藤 栄 訳

メコン圏現地作家による文学 第1回「虚構の楽園」(ズオン・トゥー・フォン 著、加藤 栄 訳)


「虚構の楽園」(ズオン・トゥー・フォン 著、加藤 栄 訳、1997年2月(新装版)、段々社)
≪ベトナム人女性作家≫ ソ連に出稼ぎ中のベトナム女性が、回想する故国での1950年代の過酷な土地改革と家族の絆の物語       

 本書は、ベトナムの女性作家ズオン・トゥー・フォンがドイモイ(刷新)後の1988年に発表した長編小説『Nhung thien duong mu』(原題「盲者の楽園」)の邦訳作品で、歴史的タブーとされていた1950年代のベトナムの土地改革を正面からとりあげ大きな話題となった小説。原著者は、1990年7月にはベトナム共産党籍を剥奪され、1991年4月には「国家機密漏洩」のかどで、逮捕され7ヶ月間拘留されたが、フランス政府からの圧力で釈放されたという経歴の持ち主である。

母が交通事故で片足を失い、大学を途中で辞めて旧ソ連に出稼ぎ労働にやってきて織物工場で働いているベトナム人の若い女性ハンが、この物語の主人公。モスクワにいる叔父が病気との電報を受け、主人公が、病み上がりの体で寮のある街からモスクワに向かう列車に乗り込む場面から始まる。著者は映画のシナリオ作家としても活躍していたとのことだが、異国であるソ連の幻想的な風景描写を背景に、動く列車内で故国ベトナムでの過ぎし日々が回想される様は、本当に映画を見ているかのようで、現在と過去の回想が入れ替わりながらストーリーが展開していく。

 主人公のベトナム人女性・ハンがまだ生まれる前、母親のクエは、両親の死後、村に残り県都の市場で露天商をしながら祖先の墓を守って暮らしていたが、生まれ故郷の村に戻ってきた教師のトン青年と恋に落ちる。一方、クエの弟であるチン(主人公ハンの叔父)は、両親の死後、ベトバク(ベトナム北部山岳地帯)の解放区に入り軍隊に入隊していたが、抗仏戦終結後、土地改革隊の隊長として帰郷する。

 自分達も働きながら祖先から受け継いだわずかばかりの土地を守っていたトン青年の家族は、チンから何のいわれもなく地主として糾弾され、トン青年や彼の母、姉のタムは告発集会でいわれのない辱めを受ける。それが元でトン青年は村を去り、ムオン族の村で家庭を持ち暮らし始める。6年後、ムオン族の村に迷い込んだ物売りの話がきっかけで、トンは、生まれ故郷を離れハノイ郊外に住んでいたクエを訪ね、再び共に暮らし始めるが、主人公の女性・ハンが生まれた2ヵ月後に、山岳地帯で命を落してしまう。

 父の姉で主人公の叔母タムは、家族がチンから受けたひどい仕打ちに対する深い憎しみを忘れることなく、人間としての喜びや楽しみを捨ててひたすら蓄財に励み、たった一人の姪であるハンに盲目的な愛情をそそぐ。母親のクエは、義姉への対抗からか、自分の稼ぎを共産党党員の弟の家族につぎこんでいく。こうして相対立する複雑な立場に置かれた2つの家族の人生と、主人公の少女が、その板ばさみになりながら成長していく過程が、描かれる。本書では、ベトナム人の祖先・同族意識、家族関係を理解する上で参考になるだけでなく、生活臭あふれるハノイ近郊の労務者街や北ベトナム農村の日常生活の様子も細かく、ベトナムの人の日々の暮しが身近に感じられる。

 小作料引き下げといった部分的改革から、地主的土地所有制度を全廃する徹底的な土地改革が、ベトナム労働党(現ベトナム共産党)によって1953年以来、解放区で実施されていたが、抗仏戦終結後、新たに解放された北部一帯の平野部でも展開された。しかし、「階級判定」などその実行の段階では、1956年には党が誤りを公式に認め是正措置を決定するほど、大きな混乱を生んだ。本書でも、土地改革の「極左」的で異常狂信的な恐ろしい展開が、生々しく描写されている。

 1950年代の土地改革の問題だけでなく、ソ連への出稼ぎ労働や国外のベトナム人ブローカーの実態、共産党幹部の堕落腐敗などの問題も作品に取り込んでいるが、モスクワで主人公が知り合うベトナム人男性の次のような言葉が、原題に込めた意味を表しているだろう。「・・・あの連中は人生の大半を費やして、この世に楽園を築こうとしているんだ。だけど余りにも愚かなために、楽園とはどういうもので、そこへ辿り着くにはどうしたらいいかわからないんだ。それが夢みたいに遠くにあればあるほど、すぐ手に届く物だけを目の色変えて追い求めるようになるんだ。目的のためには、彼らは手段を選ばない。それは彼ら自身にとっても、その後の世代にとっても、悲しいことだけどね」と。

 また、物語の終盤に、ロシアの町の土産物屋の近くで、主人公と同世代の日本人男女の一団を、女性主人公が見かける場面がある。この場面も印象的で、安楽で平和な、そして幸せで自由な満ち足りた生活をしている顔をしている日本人の同世代と、日々の暮らしに疲れきり将来の不安を抱える自分達との間にはどうしてこんなに違いがあるのだろう、どこが違うというのだろうと、若いベトナム人女性の主人公が自問する。

尚、食べ物をはじめ訳注は十分行き届いており、本書理解を助けるべく、訳者あとがきも、土地改革に至った歴史的いきさつや、土地改革を推進したベトナムの共産党の革命戦略について述べてある。 

「訳者あとがき」の参考文献
・村野勉「北ベトナムの土地改革」(齋藤仁編『アジア土地政策論序説』アジア経済研究所)
・吉沢南『個と共同性』(東大出版会)
・栗原浩英「ベトナムの社会主義」(桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム』弘文堂)
・白石昌也『東アジアの国家と社会5 ベトナム』(東大出版会)
・古田元夫『ベトナム人共産主義者の民族政策史ー革命の中のエスニシティー』(大月書店)
訳者・加藤栄氏は、桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム 第2版』(弘文堂、1995年)の、「文化と信仰ー近現代文学」を執筆

著者紹介:ズオン・トゥー・フォン Duong Thu Huong
1947年、ベトナム北部タイビン省に生まれる。抗米救国戦争中は、中部の激戦区クワンビンで大衆文化活動にあたる。詩人として出発し、ベトナム戦争後、小説にも手を染める。同時代の大きな事件を物語にとり込み大胆に現実にきり込んでいくスタイル、詩的でみずみずしい感性の持ち主として脚光を浴びる。彼女の作品は国際的な評価も高く、本作品は、アメリカ、仏、独、蘭の各国語に翻訳出版され、1991年度フェミナ賞翻訳部門賞候補(フランス)に名を連ねた。伊、西語でも刊行予定。この他、3つの作品が欧米で翻訳出版されている。なお作者は1991年反体制的言動により逮捕(7ヶ月間拘留)されるなど、現在も政治的に微妙な立場にある。(1997年の発刊の本訳書より)

訳者紹介:加藤 栄(かとう・さかえ)
1953年神奈川県生まれ。東京外国語大学インドシナ科(ベトナム語)卒業。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位修得。ベトナム文学研究者。訳書に『流れ星の光』『夏の雨』(共に新宿書房)『ベトナム現代短篇集1』(大同生命国際文化基金)

虚構の楽園』は、ベトナム文学研究者の加藤栄氏による邦訳の初版が発行社・段々社で1994年に刊行されたが、1997年に新装版が、本文の不備の訂正と「訳者あとがき」に作者の近況と原著の外国での翻訳・出版状況を加え発行された。

関連テーマ
●1950年代の北ベトナムでの土地改革
●ベトナム人のソビエトへの出稼ぎ労働
●国外のベトナム人ブローカー

ストーリー展開場所
・北ベトナム ・旧ソ連

登場人物たち
・ハン(主人公、ベトナム人女性)
・クエ(ハンの母親)
・チン叔父(ハンの母親の弟)
・トン(ハンの父親)
・タム(ハンの父親の姉)
・ベラ夫人(女管理人)

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