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論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん)第1編「タイ・ラオス仏足跡探訪記」第2回
- 2025/10/20
- 「東南アジアの仏足石」(鈴木 峻さん), 手記投稿等, 論考論文・探求活動記
論考論文・探求活動記「東南アジアの仏足石 」(鈴木 峻 さん)
第1編 「タイ・ラオス仏足跡探訪記」 第2回
鈴木 峻(すずき・たかし)
1938年8月5日、満州国・牡丹江市生まれ。1962年、東京大学経済学部卒業。住友金属工業、調査部次長、シンガポール事務所次長、海外事業部長。タイスチール・パイプ社長。鹿島製鉄所副所長。(株)日本総研理事・アジア研究センター所長。
1997年、神戸大学大学院経済学研究科兼国際協力研究科教授。2001年、東洋大学経済学部教授。2004年定年退職。その間、東京大学農学部、茨城大学人文学部非常勤講師。立命館大学客員教授。経済学博士(神戸大学、学術)。
2012年9月~2014年6月、タイ・ラオス、カンボジアに数次にわたり仏足石調査旅行。主な著書『東南アジアの経済』(御茶ノ水書房、1996年)、『東南アジアの経歴史歴史』(日本経済評論社、2002年)、『シュリヴィジャヤの歴史』(2010年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA under the tributary trade system of China』(英文。2012年、めこん)、『扶南・真臘・チャンパの歴史』(2016年、めこん)、『THE HISTORY OF SRIVIJAYA, ANGKOR and CHAMPA』(英文。2019年、めこん)、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)<注記>本著作分は、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)発刊以前に、著者ホームページで発表掲載されていたものの一部で、ホームページ閉鎖に伴い、著者より転載許可を得て再掲載されているものです。原文初出の主な時期は2010年代です。従来の発表文章などの延長が、『東南アジアの仏足石』(2025年7月、めこん)の発刊に繋がっています。
タイ・ラオス仏足跡探訪記(2012年9月)第1回、第2回
(2012年)9月8日は、10時半のバスでプーケットに向かう。所要時間は4時間といわれているが実際は6時間近くかかった。夜にはプリンス・オブ・ソンクラ大学のプーケット分校で日本語講師をしておられる小山直之先生(年齢40歳)がホテルまで来てくれて、今後の行動予定の打ち合わせ。彼は若くてはつらつとしており、私とは生きの良さが全然違う。
クラビの1237段の石段で体力の限界を知る
9月9日は朝からクラビの虎洞窟寺院の仏足跡を見に行く。見上げると高い山の頂上にストーパが見える。その傍らに仏足跡がある。しかし、その間には1237段の恐るべき石段が待ち構えていた。のぼり初めて100段ぐらいで息がゼイゼイして足が上がらなくなってしまったが手すりで92kgの巨体を引き上げて何とか頂上に達した。小山さんには先行してもらったが余裕綽綽といた感じであった。下りも難行苦行であった。
(猿がペットボトルの水を恵んでくれる)
のぼりきつかったが下りも大変であった。最後の200段目くらいで動けなくなり、踊り場で腰かけてゼイゼイ言っていると後ろから小型の水入りペット・ボトルを投げ込んでくれたヤツがいた。誰だろうと振り返ると誰もいない。10匹ほどのサルの群れが欄干などに掴まてこちらを見下ろしている。水を恵んでくれたのはこのサルのボスであろう。この話あまりにミットモナイので数か月伏せていたが、実際にあったことなので書いてしまった。しかし、その水は飲まなかった。サルに同情されたのは生まれて初めてである。こいつはイケネエと気を取り直して無事下山し、小山氏にさっそく水を買ってきてもらい、一気に飲み干した。この時の体力の全面的消耗がその後の行動に大きく影響した。要するに足腰ガタガタ状態がその後10日間も続き、ケオ・ヤーイ島では滑って海中に落っこちるというわが人生最悪の失態を演じてしまった。
上の写真が仏足石。その下の写真は、9月7日にサムイ島行きのフェリーのデッキで、いい気持ちでくつろいでいた私が、1237段の石段を1時間かけてやっとのぼり、息も絶え絶えという情けない有様であった。自らの選択とはいえ、運命は過酷である。しかし、この仏足跡の写真が撮れたことで大満足である。下の写真は、3体の仏像越しに遠くにアンダマン海が見える。東西貿易の西側の港としてはタクァパとケダーが重視されているが、クラビも古代から近重要な拠点であったことは言うまでもない。近くのクロン・トムではビーズ玉の加工も行われていた。
9月9日の第2の目的地はクラビに近いパンガンガ県のWat Tham Suwankuheという大洞窟寺院に行く。ここも虎洞窟(Tiger Cave)と称している。ここは平地にあり、安心である。洞窟に入ると金色の大涅槃像があり、その足元に仏足跡が置かれていた。全長2mほどである。表面には法輪と108の吉祥文様が描かれているが、さほど絢爛豪華なものではない。この形のものは2011年3月に松久保調査団が南タイのヤラで見つけたWat Khuhaphimukのものとよく似ている。
9月10日は朝からタクアパに行く。目的地はココ島である。この島とタクアパの間にはタクアパ川があり、波静かな良港である。西方からのインド、セイロン、ペルシャ、アラブなどの船舶はこの地に長期間停泊したものと思われる。ココ島の外洋はアンダマン海であり、波も高い。ココ島(Ko Kho Khao)もしくは隣接する小島のKhao Ko Lanは漢籍(『新唐書』)では哥谷羅と呼ばれていたものと思われる。哥谷羅は箇羅(ケダ)と同列に扱われる国際商業都市国家である。『新唐書』に箇羅と哥谷羅が西海岸の主要港として記載されているがタクアパに相当する地名は書かれていない。むしろ哥谷羅のほうが中国に出入りしている商人や船乗りの間では有名だったのであろう。
島の南端に近い部分にはトゥン・トゥク(Thung Tuk)と呼ばれる地域があり、ここにインド商人は住居を構え、倉庫を備え、かつヒンドゥー寺院もおいていたものと思われる。いわば貿易商人の集落である。ペルシャのツボの陶片もあった。過去Q.H.ウェールズ以下が数次の発掘をおこない、最近はFine Arts DepartmentのCaptain Boonyarit氏がレポートを発表している。
上の図は小さくて見にくいが左がココ島でその中の○印がトゥン・トゥク(Thung Tuk)で島の交易・商業センターであった。対岸のタクアパとの間の水路が波静かな停泊地であったものと思われる。外国船からの積荷はThung Tuk で取引され、その後小舟でタクアパに運ばれ、さらにチャイヤー方面に運ばれたものと思われる。上の地図の右隅あたりにインド人などのコロニーがあったと考えられる。
当日はタクアパ川のフェリー乗り場についたら船頭が1時間は出発しないというので、Khao Ko Lanという小島にボートでいってみることにした。これが哥谷羅と呼ばれる場所だったのかもしれない。タクアパ側に張り付いたようなハート型の小島で現在はほとんど人は住んでいないが、昔は有力な中継地点であり、小高い丘にはヒンドゥー寺院があった。途中の小屋の近くでは今でもきれいな真水が湧き出る井戸がある。井戸の存在というのは当時は大変重要でペルシャの大壺にいれて帰路に備えて事であろう。コバルト・ブルーの大壺は大変な貴重品であるが当時は船員の飲み水の入れ物だったのである。島ではボートの運転手が案内をしてくれた。往復600バーツ。
またタクアパ側にもどったら先ほどのフェリーは1往復して戻ってきていて出発は1時間後だという。料金は乗用車1台片道150バーツ(400円)である。フェリーは満車になるまで出ないので結局1時間半も待たされた。向こう側につくと舗装された立派な道があり10分ほど走るとThung Tukの遺跡につく。遺跡の入り口にはコンクリートのきれいな建物があり、中にはパネルのみが展示されている。小山氏が携帯で管理人に連絡すると数分でオートバイにのった中年婦人がやってきてカギを開けてくれた。お礼に100バーツ渡す。遺跡は整備されていて車で1周する。途中でペルシャ陶器と宋磁の茶碗の破片を拾う。
帰りのフェリーでまた1時間ほど待たされて、遅い昼飯を食べてからカオ・プラ・ナライ(Khao Phra Narai)の遺跡に向かう.。そこはタクアパ川の上流で今は途中まで立派な舗装道路がある。そこにはヴィシュヌ神ともう1体がガジュマロの木のようなものに取り巻かれていた。それが下の写真のようにプーケットの博物館に持って行って展示してある。左側の像の顔が無残にも切り取られている。これはフランス人の仕業だとされている。
そこからしばらく行ったところにWat Narai Nikaramという古い寺院がある。別名Thep Narai Phon Museumと称する小型博物館にもなっている。そこにはヴィシュヌ神などのレプリカが飾ってあり、壺が多数並べられていた。一歩外にでると、小型の仏足石が安置されている。岩に掘られた古式ゆかしいものである。ここの膨大な壺は水をいれてインド商人が帰路の船中で使ったものであろう。
プーケット沖合の小島で海に転落
9月11日にはプーケット島の沖合のKo Geaw Yai(ケオ島)にいった。天気が悪かったのでやめよう思っていたが午後から晴れ間も見えてきたので思い切っていくことにいた。途中で小山先生の教え子でこの辺の仏足跡の研究をしているというライト君(タイ人)が合流した。浜につくと若い白人の男とその彼女(タイ人)も一緒に行くという。ボート代は往復1000バーツであった。海に出ると波が高く船はピッチング状態になった。島に着くと海に降りなければならず、膝から下はビショ濡れになった。
島には小さな寺がありヒカラビたような老僧などがいた。案内役のライト君はわれわれをその老僧の前に連れて行き10分ほどわけのわからない説教を聞かされた。その時にお布施を出しておけばよかったが早く仏足石をみたいばかりにお布施は省略した。海際の岩場に仏足石はあった。そこへ近づこうとしたら通路の岩場から私は不覚にも海に滑り落ちてしまった。左の耳と側頭部が切れかなり出血した。その時カメラとメガネを紛失してしまった。下の写真は同行の小山先生が撮影したものである。彫りの浅い仏足石であった。
急いで本島に帰り、プーケット・インターナショナル・ホスピタルに行き耳と側頭部の裂傷を20針近く縫った。レントゲンも正面と側面の2枚撮ったが骨には幸い異常がなかった。抗生物質と痛み止めの薬を1週間分もらった。全部で8,200バーツとられた。これは帰国後保険でカバーされることとなった。病院には日本人女性がお世話係でいた。明日はビエンチャンに行くといったら朝早く来て傷跡のチェックをしてから行けと言われた。