メコン圏を舞台とする小説 第40回「高丘親王航海記」(澁澤龍彦 著)

「高丘親王航海記」(澁澤龍彦 著、文藝春秋、1987年10月発行)(単行本)


「高丘親王航海記」(澁澤龍彦 著、文春文庫、2017年9月 新装版発行) *単行本は、1987年(昭和62年)10月 文藝春秋刊。本書は1990年10月刊行の文春文庫の新装版)

初出
儒 艮  「文學界」1985年(昭和60年)8月号「蟻塚」改題
蘭 房  「文學界」1985年(昭和60年)11月号
獏 園  「文學界」1986年(昭和61年)2月号
密 人  「文學界」1986年(昭和61年)5月号
鏡 湖 「文學界」1986年(昭和61年)8月号
真 珠 「文學界」1987年(昭和62年)3月号
頻 伽 「文學界」1987年(昭和62年)6月号

<著者紹介> 渋澤 龍彦(しぶさわ・たつひこ)
昭和3(1928)年、東京に生れる。本名澁澤龍雄。東大仏文科卒業。マルキ・ド・サドの著作を日本に紹介するかたわら多くのエッセイを発表、小説にも独自の世界を開いた。昭和62年(1987年)8月病没。昭和56年(1981年)「唐草物語」で泉鏡花文学賞、昭和63年(1988年)「高丘親王航海記」で読売文学賞受賞。その著作は「澁澤龍彦集成」全7巻、「新編 ビブリオテカ澁澤龍彦」全10巻、「澁澤龍彦全集」全22巻・別巻2巻にまとめられている。他に初期作品集「エピクロスの肋骨」、「裸婦の中の裸婦」(巖谷國士氏と共著)など。

マルキ・ド・サドの研究者としても知られる日本の小説家、フランス文学者、評論家の澁澤龍彦(1928-1987年8月5日)の晩年の小説で唯一の長編小説で、本の出版を見ることなく59歳で亡くなった遺作。本のタイトルからは歴史小説の航海記かとも思えるものの、内容は、澁澤龍彦氏だけあって、非常に幻想的なファンタジーの世界を描いた作品。

この小説は何とも奇妙でありながら、物語の主人公は、平安時代初期に実在した高丘親王(799~865?)がモデル。799年に第51代・平城天皇の第三皇子として生まれ、809年に第52代天皇・嵯峨天皇の皇太子となったが、810年の「薬子の変」に連座して皇太子を廃されるが、その後仏門にはいり、空海の高弟10弟子の1人に数えられ、835年、空海の入定の際、高僧の一人として高野山奥之院まで葬送したり、855年、地震で東大寺の大仏の頭部が落ち、その東大寺大仏の修復に尽力し、861年3月、東大寺大仏仏頭修復の供養大仏会開催後、数え年63歳で求法のため唐へ渡る勅許を得て、翌862年入唐、さらに865年、数え年67歳で、天竺(今のインド)に向かうため広州を海路で出発した後、消息を絶っている。この高丘親王自身の生涯や思想・行動には大変興味深い。

本書自体は、”唐の咸通6年、日本の暦でいえば貞観7年乙酉の正月27日、高丘親王は広州から船で天竺へ向った。ときに67歳。したがうものは安展に円覚、いずれも唐土にあって、つねに親王の側近に侍していた日本の僧である。」と書き出しが始まり、高丘親王が天竺に向け、広州を出発するところから、幻想的な7編の連作短編形式の物語がスタートしている。ただ、物語の展開の中で、高丘親王の天竺に向かうまでの生涯についても触れられている。

67歳の高丘親王に供の僧の安展、円覚に加え、出航直前の船に逃げてきた少年の秋丸を載せた船は天竺に向け唐の広州を出航。まずは雷州半島と海南島の間の水道を抜け、唐代になって安南都護府が置かれていた交州(今日のハノイ)に上陸し、安南通天竺道と称する陸路から天竺入りする予定だった。天竺は、幼いころ、父・平城天皇の寵姫・藤原薬子から夜ごと聞かされた憧れの地だった。第1編の「儒艮」では、広州を出航した船は、嵐で、交州の遥か南の占城(チャンパ)の土地に流され、そこで親王たちはまず上陸することに。熱帯の密林を進む中、出会った大蟻食いから、石の中で育つ鳥の伝承に親王は薬子を思い出す。

第2章「蘭房」では、一行を載せた船は、真臘国へ入り、メコン河デルタからメコン河を北上しトンレサップ湖に停泊する。唐人の男に誘われ、ジャヤヴァルマン1世の後宮へ誘われる。男は、王に愛玩される世にも珍しい単孔(生殖と排泄を一つの孔で行う)の女性・珍家蘭たちへの憧れを語り、一人、真臘国王の後宮に立ち入った親王は煩悩の末、珍家蘭の部屋”蘭房”の扉を開ける。

第3章「獏園」では、熱帯の密林を抜けた親王たちは、マライ半島中部のバンドン湾にのぞむ盤盤国の太守に捕えられ、夢を食べる獏の園へ連れていかれることが、盤盤国の太守が熱心な仏教信者であったことから、親王一行のためにアラビア式の船を用意してくれ、ベンガル湾方面を目指してマライ半島西岸の投拘利(タコラ)から出発する。

ただ、第4章「蜜人」では、天竺への盤盤国を出発した親王たちの船は、偏西風に流され海岸に座礁。そこは犬頭人人からアラカン国と教えられる。親王たちは大食国の商人に天竺まで船に乗せてくれるよう頼むが、灼熱の砂原へ希少な蜜人(人間の屍体の乾し固められたもの)を採りに行くことを条件に出される。親王1人で乗り込んだ車つきの丸木舟は空を飛びアラカン国の国境をはるかに越えて、眼下に見るイラワジ河の上流を北へとさかのぼり、雲南の大理盆地の洱海のつい向こうにそびえる鶏足山の頂に着陸する。

第5章「鏡湖」では、親王は南詔国の鶏足山の麓の洞窟で、秋丸に瓜二つの少女に会い、春丸と呼ぶが、官女は南詔国王城から逃げ出していた羅羅族の妓女で、しかも卵生の娘だった。南詔国王から心服された親王は。耐久力のあることで名高い雲南の馬を授かり、罪を許された春丸とともに、南詔国の王城、大理城のある洱海のほとりから山を越えてアラカン国の海岸まで帰った。

そして、第6章「真珠」では、アラカン国の港からアラビア商船に同乗した親王一行は、真珠の名高い産地でもある獅子国(スリランカ)を目指してベンガル湾を南下する洋上で、親王は、崑崙人の真珠採りから大粒の真珠を手に入れるが、いつしかアラビア船は熱い霧の魔の海域に迷い込み、影のような男たちに襲われる。最終章の第7章「頻伽」では、親王たちが乗る船は獅子国付近の魔の海域に突入したばかりに、赤道直下を東へ東へと吹き流され、スマトラ島の一角に漂着する。そして死期が近づいていることを感じていた親王は、天竺に行くために、スマトラ島のスリウィジャヤの王子に嫁いだ盤盤国の太守の娘の助力で、マライ半島南端で栄えていた、虎の多い羅越に向かう。

このように、親王一行の辿るルートも、ベトナム中南部の占城(チャンパ)、カンボジアの真臘、タイ南部の盤盤、現ミャンマーのラカイン州を中心とするアラカン、雲南・大理の南詔国、スリランカ、スマトラ島のスリウィジャヤ、マレー半島南端の羅越と、物語とともに、古代の東南アジア史を辿ることができる。尚、この小説では、盤盤国のところで、”スリウィジャヤの首都はスマトラ島にはなく、この盤盤にあったのではないかという説(南タイのチャイヤーが首都)さえあるほどで”と述べてはいるが、スマトラのパレンバン説を採ってスマトラ島の場面を描いている。

澁澤龍彦氏のこの小説の独創的な面白さとしては、高丘親王は旅の途中で、言葉を話すジュゴン、奇態な大蟻食い(オオアリクイ)と巨大蟻塚、石の中で育つ鳥の伝承、全裸で鳥の下半身をした女性、夢を食べるバク、犬の頭を持ち、男根に鈴がついている男、蜜人(人間の屍体の乾し固められたもの)、心蜃気楼、卵生の娘、影のような男たち、人食い花など、珍奇なものや幻想的なものとたびたび出会い、好奇心旺盛な親王はそれらと積極的に関わる様子だろう。また、本書でも語られる「エクゾティシズム」「アナクロニズム」「アンチポデス」を充分に堪能できる作品だ。以下の関連テーマ・ワード情報の通り、本作品には、興味がどんどん広がる、いろんな情報が満載なことも楽しい。

関連テーマ・ワード情報
・烏蛮、羅羅(ローロー)人
・チャンパ、維摩経、チャンパカ(梵語)、金翅鳥、
瞻蔔(せんふく)
・日南郡象林県
・交州(今のハノイ、アラビア人からルーキンと呼ばれていた)
・安南都護府
・越人の鼻飲の風習
・元代の周達観と「真臘風土記」、「淡洋」と呼んだトンレサップ湖
・ジャパヴァルマン1世(在位657年~681年)
・リンガ、大自在天の男根、シヴァ神、男根崇拝
・迦陵頻伽(かりょうびんが、天竺の極楽国にいる鳥。上半身が人で下半身が鳥の仏教における想像上の生物)
・ヴィシュヌ神と4臂、車輪・蓮華・棍棒・ほら貝(左巻き)
・左巻きのほら貝(天下の珍品で、南天竺(南インド)と獅子国(スリランカ)の間の海で産出)
・唐代「梁書」でのマライ半島の国々
・扶南、真臘、スリウィジャヤ(室利仏誓)、ナーランダー
・盤盤(マライ半島中部のバンドン湾にのぞむ)
・義浄(唐僧、635年~713年)
・法顕(337年~422年)、「仏国記」
・プトレマイオスの「地理学入門」と投拘利(タコラ)、多摩梨帝(タマリティ)
・「華陽国志」の南中志と、雲南の濮竹(ぼくちく)
・アラカンのチャンドラ朝、驃(ピュー)
・洱海、昆明池、蒼山、西洱河諸蛮、昆明夷、哀牢夷、白蛮、大理城
・南詔国の歴代王(4代・皮羅閣、6代・異牟尋、10代・王豊祐)
・南詔国第11代王・世隆(在位859年~877年)
・明代の旅行家・徐霞客
・銀蒼玉洱
・明の楊升

・「新唐書」南蛮伝
・父子連名制(古い烏蛮の習俗)
・迦陵頻伽
・「滇海虞衡志」(清の檀萃)
・崑崙八仙
・伊洛瓦底(イラワジ)河、瑞麗江
・還城楽(げんじょうらく)
・獅子国(スリランカ)、タプロバネ島
・プリニウス「博物誌」
・アレキサンドリアの商人コスマス「キリスト教地誌」
・通天犀、「抱朴子」
・「淮南子」、「荘子」
・南宋の官僚・地誌著述家の周去非(1135-1189)が著した「嶺外代答」(1178年)
・ベンガル湾上の魔の海域(スマトラ島の藍里(ラムリ)、インドの故臨(キーロン))
・イギリス東インド会社のトマス・スタンフォード・ラッフルズ
・ラフレシア
・「飢虎投身」故事

本書の登場人物
・高丘(たかおか)親王(67歳)
・安展(高丘親王の側近に侍していた日本の僧、眼光鋭い屈強な男、語学が達者)
・円覚(高丘親王の側近に侍していた日本の僧、若く唐土にあって練炭術や本草学を学んだ俊秀)
・秋丸(広州で船に逃げてきた烏蛮の少年に見える少女。雲南の奥に住む羅羅人)
・張伯容(温州生まれの唐人で、長く真臘の宮廷に仕える)
・白猿(真臘の後宮の番人)
・盤盤国の太守
・パタリヤ・パタタ姫(盤盤国の太守のひとり娘)
・盤盤国の獏園の番人
・アラカンの犬頭人
・ハサン(大食国(タージ、アラビア)のアラビア商人。アラビア船の持ち主)
・春丸と名付けた羅羅族の少女(南詔国王城から逃げ出した宮廷専属の妓女)
・蒙剣英(南詔国の役人で、国王の遠い身内。若い頃、蜀の成都に留学)
・世隆(南詔国第11代王)
・太妃(世隆の母)
・カマル(波斯国(ペルシア)のイスファハン生まれで天文暦数の理を修める)
・崑崙人の真珠採りの男たち
<回想>
・平城帝
・藤原薬子

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